小林恭子の英国メディア・ウオッチ ukmedia.exblog.jp

英国や欧州のメディア事情、政治・経済・社会の記事を書いています。新刊「英国公文書の世界史 一次資料の宝石箱」(中公新書ラクレ)には面白エピソードが一杯です。本のフェイスブック・ページは:https://www.facebook.com/eikokukobunsho/ 


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朝日「Journalism」(09年8月号)より「英国の陪審員も黙っていられない」(下)

 朝日新聞の月刊誌「Journalism」2009年8月号の「海外メディア報告」というコーナーに、英国の陪審員の守秘義務と報道に関する記事を書いた。以下はその「下」である。数字は当時のもの。(「Journalism」ウェブサイトは http://www.asahi.com/shimbun/jschool/ )


陪審員も黙っていられない -英国・法廷侮辱罪を巡る2つの事件報道(下)

―侮辱法違反に問われた「タイムズ」の場合

 英国では近年、乳幼児の体を過度に揺することで内出血などを発生させる「乳児揺さぶり症候群」によって乳児を死に追いやったとして、実の母親や保育士たちが、傷害致死で有罪となり、その後の控訴で無罪となるケースが相次いでいる。「揺さぶり症候群」は児童虐待の一種とされる。

 サリー・クラークさんも、実の子2人を「症候群」で致死させたとして、1999年、実刑判決を受けた一人だ。

 判決の決め手となった医療専門家による証言の信憑性について、後に疑問符がつき、控訴によって03 年無罪を勝ち取った。しかし、心労が大きかったのか、釈放から4年後、アルコール中毒症で亡くなった。

 今年(2009年)5月、「タイムズ」紙と陪審団長の男性が法廷侮辱法違反で有罪となったのも、揺さぶり症候群での乳児傷害致死事件の報道だった。

 07年11月、バッキンガム州に住む保育士のケラン・ヘンダーソンさんが、揺さぶり症候群で保育中の乳児を死なせたとして、禁固3年の実刑判決を受けた。しかし、同年12月、この裁判の陪審団長が、匿名で「タイムズ」の記事で誤審を示唆し、複数の医療専門家による証拠の有効性に疑問を投げかけた。08年には、同紙に署名記事を寄稿し、裁判所内では質問がしにくく、陪審団は理解が不十分なまま評決に至ったと書いた。

 侮辱法違反の判決は、記事について、「陪審団が評議の初期段階で総意を固め、これを変えようとしない意思を伝えている。侮辱法で禁止されている『評議内容の公表』に当たる」と判断した。

 陪審団長はまた「陪審員たちが『常識』を使って『普通の男性、女性として評決した』」と記事の中で述べたが、裁判に提出された証拠・証言を陪審員は十分に考慮することになっており、この点の軽視も法廷侮辱に当たるとされた。

 裁判で「タイムズ」側は、欧州人権条約第10条にある表現の自由を盾に報道機関の権利を主張したが、判決は「陪審員の秘密」を暴露した点を重く見て、「陪審室内での意見が外に漏れないと認識しているからこそ、陪審員は自信を持って意見表明をすることができる」とも述べた。「タイムズ」は1万500ポンド(約2300万円)の罰金と裁判費用2万7426ポンドの支払いを、男性には500ポンドの罰金の支払いが命じられた(「タイムズ」と男性は控訴申請中)。

―守秘義務は知っている、しかし、と陪審員

 「タイムズ」側にとって侮法違反の判断は意外だった。「タイムズ」法務部門のアレステア・ブレット氏は、筆者の取材に対し、記事は「陪審員室の会話を再現したものではなかったので、侮辱罪の適用とはならないと思っていた」と語る。また、「揺さぶり症候群による乳児傷害致死罪に問われ、有罪となった数多くの女性たちがいた。今回のヘンダーソン容疑者の場合も有罪確定の決め手は医療専門家による証言だった」と説明し、「陪審員の間で専門家の証言に懸念を持っている人がいたのであれば、それを報道するのは公的利益にかなうと判断した」とも付け加えた。

 「パノラマ」や「タイムズ」の報道は侮辱法適用では異なる様相を見せたが、どちらの場合も、陪審法廷での医療や科学など専門家による証言・証拠に困惑する、非専門家である陪審員の姿を浮き彫りにした。

 「タイムズ」が取り上げた傷害致死事件の裁判の陪審員だった女性は、07年、「キャロル」という偽名を使ってBBCのラジオ番組に電話し、「複数の専門家の間でも意見が一致しない事柄の判断を、私たちが分かるはずがない」と思いを伝えた。

 「タイムズ」のフランシス・ギッブ記者は法廷侮辱とされた同年12月の記事の中で、陪審団長とキャロルさんの両者は「陪審員室の秘密を公にしてはいけないことを知っている。それでもこうやって発言したのは、いかに強い感情を持っていたかを示すため」と書いた。ヘンダーソン容疑者の事件が今後どう展開するのかは分からないが、判決結果に重大な懸念が出た場合、評決確定までのプロセスという「ブラックボックス」を開けることをタブー視してはならないだろう。

 陪審室の評議の検証は陪審制の根幹部分に疑問をはさむ「司法審理への介入」と受け取られる危険性をはらむとしても、である。自分自身が無実の身で投獄された経験を持つ「パノラマ」のロウ記者が言うように、どの裁判にも「人の命がかかっている」。だからこそ、陪審員たちも、やむにやまれぬ声をあげたのではないか。(終)
 
関連サイト
Jurors break silence to insist childminder did not kill baby(2007年
12月19日付、タイムズ)
http://business.timesonline.co.uk/tol/business/law/article3071072.ece

Juror speaks out: ʼthe court saw us as idiotsʼ(2008年1月29日付、タイムズ)
http://business.timesonline.co.uk/tol/business/law/article3242073.ece
by polimediauk | 2010-05-13 16:25 | 英国事情