小林恭子の英国メディア・ウオッチ ukmedia.exblog.jp

英国や欧州のメディア事情、政治・経済・社会の記事を書いています。新刊「英国公文書の世界史 一次資料の宝石箱」(中公新書ラクレ)には面白エピソードが一杯です。本のフェイスブック・ページは:https://www.facebook.com/eikokukobunsho/ 


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「英国王のスピーチ」で注目 ―ジョージ6世の人生とは

 在英日本人のための、東北地方太平洋沖地震に関わる情報、寄付金の仕方などは、邦字紙「英国ニュースダイジェスト」の頁をご参考に。

http://www.news-digest.co.uk/news/content/view/7651/292/
 
 以下は「英国ニュースダイジェスト」最新号に掲載された、コラムの原稿です。このコラムはダイジェストのウェブサイト上で、見ることができます(ジョージ6世の時代の表付き)。

http://www.news-digest.co.uk/news/content/view/7677/263/

 エリザベス女王の父に当たるジョージ6世が、吃音を直すために雇った治療士との心温まる交流を映画にした「英国王のスピーチ」が人気だ。先月末には、米アカデミー賞で作品賞を含めた主要4部門賞を制覇したのがこの映画だった。今回は、ジョージ6世の人柄や時代背景を、治療士との実話を含めて紹介したい。

―ジョージ6世の人生とは

 後にジョージ6世となるアルバート(アルバート・フレデリック・アーサー・ジョージ・ウィンザー、通称「バーティー」)は、父ジョージ5世と母メアリ妃の6人の子供たちの中の次男として、1895年、生まれた。「アルバート」とは祖母に当たるビクトリア女王の夫アルバート公から取ったものである。1歳年上のエドワードは社交的で、長い間、アルバートは兄との比較によるコンプレックスに悩まされたという。

 幼少期から言葉を覚えるのが遅く、左利き、X脚でもあったアルバートは、父親からこれを矯正するよう強くハッパをかけられた。食事の際には左手に長い紐をつけられ、左手を使った場合は父が紐を引っ張ったという。X脚の矯正用に脚にギブスをつけていた時期もあり、その痛みに耐えられない思いをして少年時代をすごした。

 父親からのプレッシャー、兄エドワードのあざけりなどが原因で、アルバートはいつしか強い吃音状態に陥るようになったといわれている。

 海軍兵学校で学び、空軍で将校として勤務した後、ケンブリッジ大学で歴史などの教育を受けた。1920年、20代半ばで「ヨーク公」という爵位を授与された。

 アルバートの人生が明るくなるのは、ストラスモア伯爵家からエリザベス・バウエン=ライオンと、1923年、結婚してからだ。兄のエドワードはまだ結婚しておらず、アルバートとエリザベスの結婚は国民の憧れの的になった。温かくおおらかな性格のエリザベスに助けられながら、ヨーク公の人気も次第に上昇していった。

―演説を助けたオーストラリア人

 ヨーク公の当時の大きな悩みの1つは、人前で行う演説だった。1925年の大英博覧会の閉会式で、父の代わりに演説を行ったが、吃音のためにひどい結果になってしまったのだ。エリザベスが見つけてきたのが、オーストラリア出身のライオネル・ローグであった。当時、オーストラリアは大英帝国の一部である。

 1880年生まれのローグは、少年時代から発声、発音の面白さに興味を引かれた。16歳で演説の方法を学び、当時の教師の補助役として働き出した。ローグの興味は演説の仕方のみならず、音楽や演劇にも広がった。様々な学校で発声方法や演説を教えるうちに、第1次世界大戦で戦闘神経症に苦しみ、言葉を発することができなくなった元兵士たちに治療を施すようにもなった。

 時々訪れるようになったロンドンで、ローグが話し方を教える治療士として診療所を開いたのは1926年である。みすぼらしい診療所に30代前半のヨーク公が訪れたとき、ローグは50歳近くになっていた。

 患者と治療士の間に親密な雰囲気を作り出し、独自の治療を進めようとするローグに、ヨーク公は当初反発し、一時は関係が悪化するほどであった。

 しかし、兄エドワード8世が米国人で離婚歴のあるシンプソン女性と結婚することを望み、1936年12月、退位すると、ヨーク公はジョージ6世として即位せざるを得なくなった。即位の可能性を考えてこなかったヨーク公は、大きく動揺した。兄の退位の前日、母親の元で「自分にはできない」と涙を流したと言われている。

 公の演説がますます重要となり、ジョージ6世は本格的にローグによる治療に熱を入れた。吃音は最後まで直らなかったものの、ローグの助けによって、国民に向けた数々の演説をジョージ6世は無事にこなすことができた。ローグとジョージ6世は生涯、深い友人関係を保ったといわれている。

―国民の支持を得て

 1939年の第2次世界大戦勃発時、ジョージ6世の国民に向けた演説は、ラジオを通して広く国民に聞かれ、大戦に向けた国民の士気を奮い立たせた。1940年、ドイツ軍が英国に大規模空爆を開始したが、ジョージ6世と妻のエリザベスはロンドンを去らず「最後まで戦う」と宣言。国民の支持はいやがおうにも高まった。

 戦後の国内経済の建て直しや、インド、パキスタンなど大英帝国からの独立が相次ぐと、もともと病弱だったジョージ6世は健康を悪化させた。1951年9月、左肺を切除摘出し、一時小康状態となったが、翌年一月末、療養先のノーフォークのサンドリガム御用邸で寝たきりとなった。2月6日未明、動脈血栓により死去。満で56歳だった。

―関連キーワード

Hanoverian Dynasty:ハノーバー朝。1714年から1901年まで続いた英国の王朝。スチュアート家アン王女が亡くなると、カトリック教徒の即位を阻む王位継承法によって又従兄弟にあたるドイツのハノーファー選帝候ゲオルクがジョージ1世として即位した。ビクトリア女王の1901年の死後、夫であったドイツ出身のアルバート公の家名からサクス=コバーク=ゴータ朝となった。第1次対戦中の1917年、ジョージ5世が敵国ドイツの領邦の名前が入った家名を、王宮のあるウィンザー城にちなんでウィンザー家と改称。名前を変えただけなので、ハノーバー朝の継続と見る人もいる。1960年の勅令で、エリザベス女王とフィリップ公の子供の姓をマウントバッテン=ウィンザーとすることに。次の国王はこの名前を使うことになるため、現女王はウィンザー朝最後の元首になる。
by polimediauk | 2011-03-20 11:49 | 英国事情