小林恭子の英国メディア・ウオッチ ukmedia.exblog.jp

英国や欧州のメディア事情、政治・経済・社会の記事を書いています。新刊「英国公文書の世界史 一次資料の宝石箱」(中公新書ラクレ)には面白エピソードが一杯です。本のフェイスブック・ページは:https://www.facebook.com/eikokukobunsho/ 


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「キュレーションの時代」の個人的な衝撃

 3・11震災前と後では、日本に住む人の心の持ちようや考え方にーーたとえ自覚はなくてもーー何らかの違いがでてきているのではあるまいか?そんな気がするこの頃だが、ジャーナリスト佐々木俊尚氏の「キュレーションの時代」を、3・11前に大変興味深く読んだ。

 今でも、読んだ後の衝撃は変わっていない。しかし、その「衝撃」の大部分は個人的なものである。それでも、同様の思いをもたれた方もいらっしゃるかもしれないので、書いてみようと思う。

 この本を読んで、第一義的には、「キュレーション」(「無数の情報の海の中から、自分の価値観や世界観に基づいて情報を拾い上げ、そこに新たな意味を与え、そして多くの人と共有すること」-扉の中の文章からー)というアイデアが斬新で、いろいろと考えることがあった。同時に、同氏による日本社会の空気(=考え方)のつかみ方に、はっとさせられた。

 おそらく、佐々木氏の本というのは、メディア関係者、マーケティング関係者(=モノを売りたいと考える人)、ITに興味のある人(=若い人すべて)などが、主な購買者ではないかと思うー想像だが。つまり、「これから何が流行るのか」「マスメディアの将来はどうなるのか」「IT機器をどうやって自分のものにして使うのか」「グーグルやソーシャルメディアの意味や使い方はどうするのか」を知りたい人が興味を持つのではないだろうか。もちろん、私もそんな読者の一人なのだが。

 しかし、私にとっては、段々と、「次に何が流行るか・売れるか・マスメディアはどうなるか」という話よりも、佐々木氏が現在の日本社会をどう見ているのかがおもしろくなった。メディアの将来とかはもう語りつくされたような気がするのでー。

 「キュレーションの時代」は情報化時代の将来を書いたものであるから、本来はそういう視点から読むべきであろうが、自分にとっての大きな衝撃は、この本を読んで、「自分が、何故日本から遠く離れた英国に住み、今こうやって生きているのか」を、思いがけなく問われ、胸が突かれる思いがした。英国から、東京を、そして家がある秋田を一つの線上につなげて振り返ったのは、初めてだった。

 この本の92ページから、映画「青春の殺人者」の話が紹介される。千葉県の田舎町に住む、水谷豊が扮する若い青年が主人公。干渉が過ぎる母親を持つ青年は、ガールフレンドとスナックを経営している。ビジネスはうまく行かず、店は暴走族のたまり場に。青年は父親を殺害する羽目になり、しがみついてきた母親も殺してしまう。青年は、店に火をつけ、田舎町を逃げるようにして去ってゆく。

 映画のモチーフは、「どこにも逃げる場のない苦しさ」だった(「キュレーションの時代」、以下同)。「1980年代まで」、多くの人にとって「自分がいま生きているこの場所」からの逃走が「人生における重要なテーマの1つだった」。

 次に紹介されているのが永山則夫の事件。これは、1960年代末、19歳の永山青年が、各地で人を射殺し、逃亡した事件だ。つかまった後書いた小説がベストセラーになった。1997年、48歳で死刑となり、この世を去った。

 永山青年は青森県出身で、東京に集団就職で出てきたが、東京の人は「貧しい田舎者」としか見てくれない。佐々木氏は、社会学者見田宗介氏の言葉から、永山青年は「まなざしの囚人(とらわれびと)」になっていたという。「まなざし」とは「人々のアイデンティティーをパッケージによってくるみ、そのパッケージで規定することを強要してしまうこと」だ。永山青年は「牢獄のようなパッケージングのまなざしから逃れ、自由になろうと戦い続け」た。しかし、「パッケージの地獄に陥るばかりだった」。

 ここまで読んだとき、「青春の殺人者」の主人公や永山青年の息苦しさ、「まなざしのとらわれ人」のつらさが本当に心に迫ってきた。それは、私自身が秋田や青森で育ったことがあって、学校のことや田舎の家のことなどを思い出したからだ。私は秋田や青森に住んでいたときに、実際に「息苦しい」と思ったわけではなかったはずなのだがー。しかし、「秋田や青森=息苦しさの象徴」というわけでもないので、どうかこの地方に住んでいる方はお気を悪くしないでいただきたいのだけれど、1970年代まで地方都市に住んだ子供時代の自分が、この本のこの箇所を読んだとき、実は深い意味での息苦しさを経験していたようだと、我ながら、初めて気づいた。

 この「息苦しさ」といのは、おそらく、その時代の空気がそうだったのである。いま(2011年)と比べれば、窮屈さが確かにあった。例えば、私の母は家で内職をしていたが、まず主婦が仕事を持つだけで、サラリーマンの父が肩身の狭い思いをするという時代だった。家族だけで固まって、ひっそりと生きていた。今思うと、閉じられた空間の中で、父を家長とするヒエラルキーの中に生活があった。ロック音楽を聴きだしたのは16歳頃だが、隣町のレコード店で、欲しいレコードを注文し、これが家に届くまでに少なくとも1週間以上はかかったのである。

 私は、地元の中学を終えると、電車に乗って、隣町の進学校に入った。その後は大学に入るために東京に出たので、学校も生活もすべて地元の町の中での生活というのは、15歳まで。「一日も早く、家を出たいものだ」と思ったのは12-13歳の頃。18歳になると、待ちきれないように、東京に向かった。20数年東京に住んで、2002年からは英国に住んでいる。思えばずいぶんと遠くまで来たものだ。
 
 最初は、無意識だが次第に窮屈に感じていたのは生まれついた家庭であった。決して裕福ではなかったが、両親から愛されている充足感があった。それでも、家のことは両親が決めるというヒエラルキーの中から出て、自分で自分のことを決めたかった。その周りの環境もーーいま思えばだがーー息苦しいことが多かった。何せ、女性は学校を出たら働くことを期待されておらず、大学を卒業したら、就職口は「地元の学校の先生」。それしかなかったのである。〔学校の先生になることが悪いというのでは決してなく、選択肢がほかにないという意味。)

 それから英国に向かったのは家族の事情であり、日本が息苦しいと思っていたわけではなかった(ただ、これもいまになって思えば、会社生活は相当息苦しかった。それでも、そういうものだと思って生きていた)。しかし、家のある町から東京へ、そして東京から英国に来る流れの中で、自由度が大きく増したのは間違いがない。英国から東京での生活を振り返ってみると、いろいろな決まりごとが多く、「女性だから」「xx歳だから」などと、どんなにがんばってもあるいはがんばらなくても、それこそ、「パッケージで見られる」ことが多かった。こうした社会のまなざしから、どうしても逃れられなかった。(一つ付け加えると、自由度が増したのは、私が年を取ったせいも大いにあると思う、住む場所を変えただけではなく。自分自身が年長者になり、自分の人生を良かれ悪しかれ、自分自身の決定の結果であるとして、よりあるがままに受け止められるようになった、と。) 

 そして、私が佐々木氏の本のこの部分を読んで涙が出たのは、自分としてはほんの偶然でここ英国にいるのだとその時まで思っていたけれども、実際には、自分は「息苦しさから逃れてきた、逃げてきただけなのではないか」と、はっとしたからだった。

 どうして、自分は「逃げて」しまったのだろう?何故、その場で状況を自分が生きやすいように変えようとしなかったのだろう?これまでの人生で、自分は十分にやるべきことをやってきたんだろうか?何かを置き去りにしただけではなかったのかー?自分の田舎の家や、友達や家族の顔がありありと目に浮かんだ。

 しばし私は呆然として、佐々木氏の本に戻ったのは少し時間が経ってからだった。

 佐々木氏の本は、102ページから、11歳の少年を殺害した酒鬼薔薇少年の話になる。「ムラ社会は消え、透明な僕が始まる」という見出しがついた箇所である。社会学者大澤真幸氏の見方が紹介され、この少年にとっては、まなざしの「不在」が地獄であったのだ、という。この後、2008年の秋葉原連続殺人事件での加藤被告の話が続く。

 「農村、そして戦後は企業が社員を丸ごと抱え込み、そこに息苦しいほどのコミュニティを形成するという社会構造は90年代以降崩壊に向かい、『どのようにして自分は他人に承認されるのか』という、新たなテーマが日本社会の中心に躍り出て」きたという。

 90年代以降は、「かつてのような息苦しさはなくなり、逃走願望は消えてなくなり、風通しがよく、まるで風の吹き抜ける荒野にひとり立たされているような関係性へと変わってきた」。

 そして、「他者からの承認と社会への接続こそが、透明で風通しの良い新たな社会構造における、人々の最大のテーマになって」いる(115ページ)。

 こんな社会の「消費」とは、「消費するという行為の向こう側に、他者の存在を認知し、その他者とつながり、承認してもらうというあり方。そういう承認と接続のツールとしての消費」である。

 この後の詳しい話は(マーケティングの将来やメディアのあり方に関して実用的に知りたい方は)是非、本を手にとっていただきたいが、私が特に興味を引かれたのは、「視座」の話である。

 例えば、ツイッターである。ツイッターで、誰かをフォローすると、自分のタイムラインにその人のつぶやきが入っている。つまりその人の「視座」(佐々木氏)だ。「他者の視座へのチェックイン」で、「世界が驚きに満ちていることが分かる」という。そして、様々な視座の提供者=キュレーターというわけである。

 また、「そもそも会社や業界のような、自分を繭のようにくるんでくれるコミュニティーなんていまの日本に存在しない」(256ページ)という箇所も心に残った。

 私がもろもろ考えるのは、つまるところ、キュレーションの時代の意味するところは、これからは「個人の視座の時代」になってゆくのかな、と。

 だとすれば、日本社会の将来は明るいーそんな思いがした。「パッケージ」で考えない、個人の視座の時代は、そうでない時代よりも、もっともっと自由があるはずだー発想にも、生き方にも。

 ただ、「個人の視座の時代」はまだ完全には現実になっていないと、特に3・11震災の後に、思うのだけれども。

 おそらく、私の読みは非常に個人的な読みであろうけれど、佐々木氏の「キュレーションの時代」、読み応えのある一冊だった。どんな人にも薦めたい。今後は震災後の日本社会をテーマに佐々木氏は本を書くそうであるから、これもまた、楽しみである。


 

 

 

 
 
by polimediauk | 2011-06-01 20:56 | ネット業界