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「20世紀はここで始まった」 サラエボ事件の意味を解き明かす会議を開催した教授に聞く

 第1次大戦勃発から100年となった今年6月末、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボで「サラエボ事件を俯瞰する -1914年の事件、物語、記憶」と題された国際会議が5日間の日程で開催された。

 「サラエボ事件」とは、私たちが学校で教わったあの事件だ。オーストリア・ハンガリー帝国(当時ボスニア・ヘルツェゴビナは帝国の一部)の次期皇帝となるはずだったフェルディナント大公夫妻が、サラエボを表敬訪問中に暗殺された。暗殺グループがセルビア政府と関係があったことが発覚し、オーストリアは7月末、セルビアに最後通牒を突きつけた後で、宣戦布告。8月上旬には欧州主要大国が次々と互いに宣戦布告し、大規模な戦争に発展した。

 サラエボ事件は20世紀でもっとも議論が行われ、神格化された事件の1つともいわれている。本当に第1次大戦の原因と言い切れるのか、誰が悪者あるいは犠牲者なのか、暗殺者の真意は何かなど、誰に聞くかでその答えが変わってくる。

 そこでサラエボ大学のバヒディン・プレヤビッチ教授とアイルランドのトリニティー・カレッジ・ダブリン(TCD)大学のクレメンス・ラスナー教授が、国際会議を発案した。「事件を再現する」、「メディア、文学、書物、政治に投影されたさまざまな解釈を検証する」、「一連の解釈が欧州内でどのように記憶されているか」を探るプログラムを作った。

 6月24日から28日、サラエボ市内の複数の会場で開催された会議には、20カ国から100人を超える学者、メディア関係者、学生らが参加。45人のスピーカーの意見に耳を傾け、議論に参加した。運営資金は欧州連合(EU)のほかにオーストリアのシンクタンク、サラエボ市などが提供した。

 会議終了の翌日、オーストリア・ウイーン出身のラスナー教授に会議の意義や、サラエボ事件、第1次大戦についてのボスニア・ヘルツェゴビナとオーストリアでの受け取り方を聞いてみた。
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―複数のセッションに参加したが、出席者の数人が「会議開催までが一つの物語だった」と発言していた。この点も含め、経緯を改めて教えて欲しい。

クレメンス・ラスナー教授(写真、右):2011年ごろから地元で100周年にかかわる会議を開こうという動きが出てきた。

 サラエボでの暗殺事件を扱うことを決めた後、フランス政府が自分たちが行う100周年記念行事の一つにしたがった。私たちは特定の国の行事の1つにはなりたくなかった。オーストリア、ドイツ、英国などほかの国の大使館がフランスに対し、「フランスの行事の1つにはしないように」と圧力をかけた。(最終的に、フランスは手を引いた格好となった。)

 サラエボ事件から100年経ったのに、今でさえ、欧州の大国が地元の事件を議論するための会議に自分たちの特定の視点を押し付けようとするーそんな感じがした。

 会議では、スピーカーたちがさまざまな視点を提供した。民族や国によって大きく解釈が異なるサラエボ事件について、欧州の共通の視点を形成するための一歩としたかった。

―オーストリア人の学者として、オーストリア・ハンガリーによるボスニア・ヘルツェゴビナの統治(1878年から支配下に。1908年併合。1918年まで続いた)をどのように受け止めているか。

 40年間の統治時代、ボスニアは一種の植民地だったと言っていいだろう。よい意味でも悪い意味でもオーストリアは宗主国だった。近代化をもたらしたが、民族間(イスラム教徒のボスニャック人、クロアチア人、セルビア人)の緊張感を悪化させた。

 1990年代、民族間の争いで多くの人が犠牲になったが、オーストリア・ハンガリーの統治時代と後のユーゴ時代は民族間の対立という糸でつながっている。言わば「隠れた階段」があったと言える。(注:第2次大戦後、ボスニア・ヘルツェゴビナはユーゴスラビア連邦の一部となるが、ユーゴ解体後、独立をめぐって各民族が全土で戦闘を繰り広げた。死者が20万人、難民らが200万人出たと言われる。戦後欧州で最悪の紛争となった。)

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(内戦時代の砲撃の後が見える建物。サラエボ空港近く)

 オーストリアの歴史的遺産がここにある。併合していたという過去の上に、皇太子がサラエボで殺害されたからだ。プラハでもなければウイーンでもない、ここで、だ。オーストリアの植民地支配がここで頂点に達し、終結した。象徴だった。歴史家エリック・ホブスボームが言った様に「20世紀は1914年に始まり、1989年に終わった」のだろう。1989年、ベルリンの壁が崩壊した年だ。私だったら、20世紀がここで始まったと言うだろう。

―暗殺者である、ボスニア系セルビア人ガブリロ・プリンツィプをどう見るか。

 「セルビア人の民族主義者」と言い切るのはどうかと思う。賛同しない。あえて言えば、(バルカン半島地域に住む南スラブ人による国家)「ユーゴスラビア」の建設を実現しようとした民族主義者だった。オーストリア・ハンガリーの支配から、南スラブ人が住む地域を解放したかったのだ。

―まだ19歳だった。若い。

 10代の青年だったに過ぎないという人もいる。確かにそうだ。しかし、非常に知的で、本をたくさん読んでいた。西欧の思想をよく知っていたし、マルクス主義の本を読んでいた。単なる民族主義者ではなかった。

―会議の参加者にはさまざまな民族の人が混じっていたのだろうか?

 そうだ。この地域の異なる民族の人たちが自分たちの考えを外に出す機会にしたかった。90年代の内戦はまだ記憶に生々しい。だからこそ、意義があると思った。

―隣国となるセルビアからも学者が参加したのか?

 参加した。しかし、ボスニア・ヘルツェゴビナの半分をなす、セルビア系住民が多く住むスルプスカ共和国(注:ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦とスルプスカ共和国とで「ボスニア・ヘルツェゴビナ」という1つの国家を構成)からの参加はごく少数だった。多くの学者が来たがっていたが、「大学や政治家から出席しないように圧力がかかっているので、出られない」とプライベートで言っていた。

ーなぜ参加しにくいのか?

 スルプスカ共和国にとってはプリンツィプは英雄だ。事件やプリンツィプについて議論をするような場所に学者が参加して欲しくないのだろう。議論自体がおきることを好まない。残念だ。参加者の出身国はかつて第1次大戦に参戦しており、会議が和解の場の1つになっていたことはうれしかったが。

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(6月27日、サラエボ東部にプリンツィプの像が建った。会議のサイトから)

―どんなことが争点になったか。

 1つはプリンツィプの解釈だ。英作家ティム・ブッチャーはプリンツィプを好意的に見た本を書き、議論に参加した。米学者チャールズ・イングラオは帝国による統治をやや正当化する論を展開した。

 個人的に興味深かったのは、プリンツィプが世界的なレベルでアイドル化しているという指摘だ。プリンツィプと言う名前の音楽バンドがある。ポップカルチャーのアイコンとなっている。

 プリンツィプも暗殺された側のフェルディナントもその時々の政治によって利用されてきたのは確かだ。

 自分自身は、1970年代、80年代の学生時代、プリンツィプに憧れ感を抱いた。大人への反発があったのだと思う。オーストリア・ハンガリー帝国を既得権のある体制と同一視していた。

 現在は、憧れ感は消えた。しかし、プリンツィプはスラブ民族の国家を作ろうとした自由の闘志だと思っている。オーストリアの政府の見解ではプリンツィプはテロリストだ。

 米大規模中枢テロ(2001年9月11日のテロ)以降、見方は変わったと思う。暗殺の受け止め方が変わってきた。100年前は、暴君を倒すという文脈での暗殺と言う解釈があったと思う。

 現在では、プリンツィプを犠牲者とみなす事もできるだろう。今の人権活動家からみたら、劣悪な状態で投獄されていたからだ。会議の中では、まるでかつてのキューバ・グアンタナモ米軍拘束所にいたようなものだと発言した人がいた(注:プリンツィプは受刑中に亡くなった)。

 好ましくないと思うのは、セルビア人地域では若者たちがプリンツィプをロールモデルとみなす場合があることだ。特に10代の男性たちがそう思うとすれば、危険だ。問題を解決したければ、銃を持って、撃つことだと教えることになるからだ。事件をもっと知的に捉えて欲しい。

 例えば、セルビア民族の国家の樹立を願ったプリンツィプだが、もし事件を起こさず、亡くなっていなかったら、政治家や何らかの形での指導者になっていたかもしれない。自分の人生を犠牲にする必要はなく、セルビア人の同胞のためにもっとためになることができたかもしれないのだ。

 暗殺によって、オーストリアによる統治という問題を解決するのではなく、もっと大きな問題をたくさん生じさせてしまった。

 政治家はプリンツィプをモデルとして使うべきではない。セルビアがもしEUに入りたいのであれば、よい方法ではない。

 フェルディナント大公については、暗殺グループは間違った人を殺したともいえるだろう。大公は民族間の緊張を解くことに関心があった。もし皇帝になっていたら、ゆるやかな地方統治や独立を認めていた可能性もある。皮肉なことだ。

―サラエボ事件がなかったら、第1次大戦は起きなかったと思うか。

 思わない。1908年以降、世界は何かが起きるのを待っていたのだと思う。プリンツィプ個人が悪いというよりも、世界中に植民地を抱えていた欧州がいたことが悪いのではないか。1914年、欧州はサラエボ事件によって、自分で自分を撃ってしまったのだと思う。

―教授の目から見て、ボスニア・ヘルツェゴビナに住む人は事件や第1次大戦勃発から100年をどう捉えていると思うか。関心が余りないという人もいる。民族間の対立が消えていないといってよいだろうか。

 関心は低いと思う。1908年にボスニア・ヘルツェゴビナはオーストリア・ハンガリー帝国に併合された。オーストリアはボスニアを1つのまとまりのある国にしようとした。共通した、1つのボスニアというアイデンティティーを作ろうとした。しかし、これが異なる民族間の緊張を、特にセルビア人とクロアチア人との対立を悪化させた。

 宗主国が植民地に住む人に文明を教えてやるなんて、大きな間違いだったのだろうと思う。欧州のほかの地域を見ても、自分には失敗のほうが目に付く。

 ボスニア・ヘルツェゴビナの国民は第1次大戦とははるか昔のことだと思っているし、90年代の内戦の記憶が強い。サラエボ事件を記念する100周年のコンサートが、市庁舎であった。テレビで放送されたが、サッカーのワールドカップの試合を見ている人がほとんどだったと思う。

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(コンサートが開催された市庁舎の建物)
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(柱の一つに「セルビア人の犯罪人による攻撃」を忘れるなというプレート)

 関心の低さを変えたいと思っていた。欧州他国から外国の知識陣がここにやってきて、国際会議を開き、議論が終わったら、はいさよなら、地元には何も残らない、という風にはしたくなかった。国際会議であっても、ボスニアにとっても意味があるものにするのが目的だった。

 第1次大戦、第2次大戦、90年代のユーゴ紛争―。この3つはつながっている。ユーゴ紛争は100年前の戦争がなかったら、発生しなかったのではないか。つなぎ合わせる物語が必要なのだと思う。

 100年前のサラエボ事件では、2発の銃弾がプリンツィプのピストルから放たれた。1992年から95年の内戦では、サラエボだけでも1万人以上が亡くなった。数え切れないほどの攻撃があった。(注:1992年4月から96年2月末まで、サラエボはスルプスカ共和国とユーゴスラビア人民軍によって包囲された。攻撃によって亡くなった人の大部分が民間人であった。)

―オーストリアはサラエボ事件や100周年をどのようにとらえているか。

 ノスタルジアがある。自分が少年時代、歴史の先生がこう言っていた。オーストリアのよき時代は1918年に終わったと。地理的に小さい国になった。ハプスブルク家に対するノスタルジアを多くの人が今でも持っている。

 アナクロだと思ったのは、先のコンサートで演奏をしたのがウィーン・フィルハーモニー管弦楽団だったことだ。曲目の1つが、オーストリア皇帝讃歌の「神よ、皇帝フランツを守り給え」だったことに驚いた。かつての帝国主義の最たるものだ。これが選ばれたと聞いて、ショックだった。

 しかし、実はこの曲はボスニアに住む人のために演奏しているのではないのだろうと思った。オーストリア国民に向けて演奏している。オーストリアの文脈で行けば、プリンツィプは英雄ではない。オーストリアの統治時代はよき時代だった、近代化をもたらしたと考える。

 ボスニアに住む人の一部にさえも「あの時代はよかった」と見る、ハプスブルク家へのノスタルジアがある。ドイツ人による占領や後の戦争に比べればーという意味で。

 私自身は、そういうノスタルジア感情の存在をあまり真剣に捉えていない。国民は普通の生活をしたいだけだ。90年代の内戦からまだ20年だ。トラウマがある。お金はあまりない、失業率が高く、社会的問題も多い。過去のノスタルジアの世界では、すべてがよかったとなる。

―自国が第1次大戦を始めたという認識はオーストリアではないのだろうか?

 議論が分かれるところだ。プリンツィプが大戦を勃発させたという人もいるだろう。大戦の原因については諸説ある。オーストリアとドイツ(ルクセンブルク、ベルギーに侵攻)が始めたのだという人もいる。学者クリストファー・クラークは欧州の主要国家全部に責任があるという。

 誰に責任があって大戦が起きたのかという話よりも、現在の問題をどうするかに力を注ぎたいと思っている。ボスニアに愛情と支援を注ぐべきと思っている。EUへの加盟にも協力したい。統合欧州の一部になってほしい。

 かつての宗主国として、オーストリアはボスニアの歴史に責任があると思う。1970年代以降、多くの移民もオーストリアにやってきた。

ー欧州の中では勝利国だった英国やフランスが、第1次大戦勃発100周年を記念する行事を非常に大々的に行っているが。

 いろいろな記念の方法があるが、英国がいまだに大戦の勝利国として祝うことへの批判があると思う。記念したり、祝うことが何もない国もある。ある意味では、(大きな犠牲を出した)第1次大戦は集団自殺だったように思う。何も祝うようなことはない。たとえ勝利の側にいた国にも、大きな犠牲があった。第1次大戦がなかったら、第2次大戦やホロコーストもなかったかもしれない。

 英仏で記念行事が盛大であるのには理由があると聞いたことがある。公然の秘密だ。2つの大戦で負けたドイツが、現在では欧州を牛耳っている。英仏の影響力は大きく減少した。近年のユーロ危機を救ったのもドイツの力が大きい。ドイツ自身はそんな一人勝ち状態を居心地悪くも感じている。

 英仏は勝利者として自分たちを見せたがっているが、実際はどうか。英国はEUから脱退したがっている。フランスのEUでの地位はかつてと比べて大きく後退している。せめて記念行事で自分たちを大きく見せたいのではないか。

 歴史を現在の政治のために使う、乱用することはやってはいけないと思う。それでも、実際には、頻繁にあるのだがー。

***


会議のフェースブックのページ

ーーボスニア・ヘルツェゴビナのこれまで

6世紀:スラブ人の定住化
14世紀:ハンガリーに抵抗しつつ、ボスニア王国を確立
15世紀:オスマントルコによるボスニア征服。オスマン帝国の支配下へ
1878年:オーストリア・ハンガリー帝国の支配下へ
1908年:併合
1918年:セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国領に
1945年:旧ユーゴを構成する共和国として発足
1992年2月:独立を問う住民投票の実施
4月:本格的紛争
1995年12月:デイトン和平合意発足

(参考:外務省サイト)
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by polimediauk | 2014-07-05 15:44 | 欧州のメディア | Trackback | Comments(0)

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