小林恭子の英国メディア・ウオッチ ukmedia.exblog.jp

英国や欧州のメディア事情、政治・経済・社会の記事を書いています。新刊「英国公文書の世界史 一次資料の宝石箱」(中公新書ラクレ)には面白エピソードが一杯です。本のフェイスブック・ページは:https://www.facebook.com/eikokukobunsho/ 


by polimediauk

イラク戦争開戦に踏み切った英国で、何度も行われた検証作業(上)

 日本民間放送連盟の研究所が出している「海外調査情報 VOL9」(2014年3月)に、「国家機密と報道」というテーマで、英国のメディアについて書く機会を得た。

 ブログでの公開の承諾をいただいたので、その一部(後半)を掲載したい。なぜ後半のみかと言うと、前半は英国や欧州での国家機密の維持の仕方や報道の取り組みなどの話で、このブログですでに同様の内容を出しているからだ。

 集団的自衛権をめぐって議論が発生したことで、日本でも戦争についての関心が高まっている。英国は常に戦争をしてきた国だ。なぜイラク戦争の開戦を防げなかったのか、国内にどんな世論があり、メディアはどうしたかについて書いてみた。

英国の報道機関と規制

 まず最初に、メディア状況について若干説明したい。

 英国では放送業、通信業(ネット企業含む)はOfcomが監督している。事前に規制をかけるのではなく、番組内容が不適切であった、違法行為があったとなれば、罰金が科される場合もある。

 BBCの場合は日本で言えばNHKの経営委員会に相当するBBCトラストが経営陣の給与体制、新規サービスの公的価値などを吟味し、活動方針を決定する。

 放送業全体で、ニュースは偏りなく、バランスがとれたものであることが要求される。

 一方の新聞界は17世紀以来の自主規制の歴史を持つ(最後の事前検閲制度が消えたのは17世紀末)。したがって、報道内容は原則自由である。「原則」というのは、法廷侮辱法、名既存法、公務守秘法、人種差別禁止法などさまざまな法律に違反しないようにすることが求められるからだ。新聞業界の自主団体PCC(Press Complaints Commission)は報道について苦情が出た場合に対処する。

 新聞報道には、放送業のような「偏りなく、バランスがとれた」記事である必要がなく、各紙はそれぞれの政治的立場や価値観を反映した報道を行っている。

権力とメディアの関係

 英国の社会全体で共有されている価値観の1つに報道の独立性がある。何世紀もかけて、事前検閲を可能にする「印刷免許法」(特定の印刷業者のみに出版を許可した)を廃止した歴史がある。

 現在、権力側が報道機関に対し、事前に直接報道を止めるように動く仕組みはなく、その必要がある場合(事前に報道することが分かっていれば)は司法の手に任せる、つまり裁判所に訴える形になる。政治家が何を報道するか、しないかについて、直接関与できないようになっている。

 放送業界の中でもっとも影響力が強いのはBBCだ。

 日々のニュース報道の判断は編集幹部あるいは経営幹部によるが、報道全体に偏向があるかどうかを判断するのはBBCトラストだ。判断の元になる報道基準についてはBBC内で文書をまとめている。

 BBCの報道あるいはそのほかの番組内容について政治家が口を挟むことができないため、もし何らかの形で放送前に圧力をかけたことが発覚すれば、「報道の自由の侵害・介入」となり、その政治家の政治生命が危うくなる。

 テレビも新聞も報道機関としては反権力の姿勢を維持する。権力者に説明責任を持たせ、国民の知る権利を満たすために、日々報道を続けている。

BBCとイラク戦争

 英国では、2003年のイラク戦争をめぐり、その原因や政治的判断について現在まで検証作業が続いている。

 10年余の検証作業を突き動かしてきたのは、国民の中にある、当時のブレア政権(1997―2010年)が開戦理由について嘘をついたのではないか、英国は「違法な」戦争に巻き込まれたのはではないか、という疑念だ。

 BBCのある報道がきっかけとなって、政府が嘘をついたのかどうか、そして合法な戦争だったかどうかを解明するための調査が複数回行なわれてきた。開戦の政治的判断を検証する調査委員会の報告書が年内にも発表されるといわれている(時期は未定)。

 それでも、未だ全貌が明らかになったとはいえない。いくつかの文書が非公開になっている。

BBCの報道が出るまでの経緯

 いわゆる「イラク戦争」は2003年3月に開戦したが、これを「第2次湾岸戦争」と呼ぶ人もいる。というのは、以前に湾岸戦争(1990年、イラク軍が隣国クウェートに侵攻し、91年1月、米英を含む各国による多国籍軍がイラクへの空爆を開始)があったからだ。

 この後には2001年9月11日に米国で発生した大規模同時中枢テロ、このテロの首謀者となるオサマ・ビンラディンが隠れているとされたアフガニスタンへの攻撃(「アフガニスタン戦争」、01年10月)という流れがあった。

 「対テロ戦争」を進めるブッシュ米政権が次の攻撃対象としたのはフセイン大統領政権下のイラクであった。

45分、大量破壊兵器、国連決議

 イラク攻撃の正当性について疑問を投げかける声が出ていたことから、国民を納得させる必要にかられたブレア英首相は、02年9月、「イラクの大量破壊兵器」と題された文書を統合情報委員会(英国の複数の情報機関を統括する組織)に作成させ、議会で発表した。

 議会制民主主義の英国では、政府は議会で政策事項について説明し、議員からの理解を求める。

 文書は、イラクが化学兵器、細菌兵器を含む大量破壊兵器を所持し、核兵器計画も再開させたと書かれていた。「指令から45分以内に大量破壊兵器の一部を配備できる」という箇所が、後に大きな問題に発展する。

 文書の発表翌日の大衆紙サンは「英国人が破滅まで45分」、デイリー・スターは「狂ったサダム(フセイン大統領)は攻撃の準備が整ったー化学戦争まで45分」などの見出しをつけ、国民の恐怖感をあおった。議会での発言が翌日の新聞で大きく報道されるだろう事を官邸側は承知していたと言われる。

 イラクでは国連の核査察チームによる調査が続いており、国連の場では「攻撃をするべきだ」(米国)、「査察を続けるべきだ」(独仏)という2つの大きな流れが出てきた。前者は国際社会からの支持は必要ないと見なし、後者は国連査察で大量破壊兵器が見つからない場合、攻撃する必要はないと考えた。

 02年11月、国連査察に対しイラクがその義務を果たさなかった場合には「深刻な結果」に直面するという国連安全保障理事会決議1441号が採択された。しかし、武力行使の実施については意見が分かれた。

 翌年03年の2月3日、政府は、イラクの大量破壊兵器の脅威と国連査察に対する妨害を書いた2つ目の調査文書を発表した。米国の大学院生の論文の一部をインターネットで拾った内容が入っており、内容がずさんであると批判された。

 そこで、ブレアは開戦の理由を大量破壊兵器からフセイン政権の人権侵害を問題視する方向に戦略を変えてゆく。「イラクではフセイン独裁によって様々な非人道的な行為が行われており、イラク戦争は人道的介入として必要という論理」(「イギリス現代政治史」、資料の詳細については最後に表記)だった。

 前後して、英国では大きな反戦デモが発生していた。争点は、攻撃の明確な理由がないのに戦争を始めようとしていることだった。安易に米国に追随しているという見方が出て、ブレアは「ブッシュのプードル」といわれた。首相支持率も急落した。

 03年2月14日の安全保障理事会で、15の理事国の意見表明の中で、明確に武力行使を指示したのは米英とスペインだけだった。フランスのドバルピン外相は「査察には時間が必要で、武力行使は適当ではない」と述べた。

 翌15日、世界60カ国600都市で200万人以上が参加する反戦デモが行われた(「ケリー博士の死をめぐるBBCと英政府の確執」より)。

 24日、米英とスペインは対イラク武力行使を容認する新たな決議案(第2決議案)を国連に提出した。これに対し、仏独とロシアは査察継続を求める覚書を発表した。

 3月10日、フランスのシラク大統領がこの決議案が採決に持ちこまれた場合、拒否権を行使すると明言し、ロシアも反対票を投ずる考えを明らかにした。米英とスペインが決議案を撤回したのは17日である。

 ここに来て、米英によるイラクへの武力攻撃は不可避となった。

 武力行使には政府与党内にも反対が根強かった。17日、ロビン・クック下院内総務職(議員運営を行う政府委員、閣僚級)が緊急閣議の直前に辞職を表明した。クックは元外相でトップクラスの諜報情報に接する立場にいたが、イラクへの武力攻撃に反対する抗議の辞職だった。

 翌18日、武力攻撃を可能にする政府方針の承認を求める動議(決議案)が下院に提出された。同日夜、ブレアは米国とともにイラク攻撃に参加する決意を熱っぽく語った。「イラクの武装解除を実現するため、必要とされるあらゆる手段を講じる決定を支持する」とする動議が、賛成412票、反対149票で可決された(「ブレアのイラク戦争」、参考)。与党労働党410人のうち、3分の1を占める139人がこれに反対した。政府案に対し、与党内でこれほどの反対者が出たことはない。

 百万人規模で発生した反戦デモの声が届かなかったことで、ブレア政権に対する大きな失望感が出た。その一方で、法案への支持を求めたブレア首相の力のこもったスピーチの効果や、大量破壊兵器の存在を信じる人も多く、複数の世論調査では攻撃支持派と反対派が拮抗した。

2つの争点とBBCの放送

 開戦は「国際法上、違法だったのではないか」、そしてあるはずの大量破壊兵器がなかなか見つからず(結局、見つからなかった)、「首相にだまされたのではないか」という2点が、しこりとなって残った。
 
 03年5月29日放送の、BBCのある番組が「だまされたのではないか」という疑念を再燃させた。

 BBCラジオ4(フォー)というラジオ局の朝の報道番組「Today(トゥデー)」の中で、アンドリュー・ギリガン記者が政府のイラクの脅威についての文書(02年9月末、発表)を取り上げた。

 午前6時7分の放送分で、ギリガンは、文書中の「イラクは45分以内に大量破壊兵器を実動できる」とした部分について、「文書の作成を担当していたある高級官僚」によると、政府は文書に入れる前の段階で「すでに嘘であることを知っていた」、その上で中に「入れた」と述べた。

 官邸側はこの報道が「すべて間違い」とし、訂正を求める電話、ファックスなどをBBCに頻繁に送るようになった。

 6月1日、ギリガンは大衆紙デーリー・メールのコラムの中で、問題の政府文書を書いた統合情報委員会に対し、表現を誇張するよう圧力をかけたのは官邸のアラスター・キャンベル戦略局長であったと名指しした。キャンベルはこれに激怒し、BBCに対し謝罪と情報源の開示を要求した。

 BBCと政府側との間で報道の信憑性をめぐっての対立が激化してゆく中で、7月中旬、国防省顧問で核兵器査察の専門家デービッド・ケリーが自殺する事件が発生した。後に判明するが、ケリーはギリガン報道の情報源だった。

 ケリーの自殺が分水嶺となり、イラク戦争についての公的な検証作業が始まった。

独立調査委員会とはなにか?

 英国では、国全体にかかわり、公的意義が高い事柄について税金を使って調査する「独立調査委員会」の歴史がある。

 例えば、1920年代のBBCの発足には数回の委員会が立ち上げられ、その時々の方針を決めていった。裁判官、学者、政治家などさまざまな人物が委員長となり、知識人が委員会のメンバーとなる。議題とする事柄に関係がある人物を召還して意見を聞き、一般からも広く意見を聞く。メディアが進行過程を逐次報道し、最終的には報告書が出る。この報告書を元に、新たな仕組みを作ったり、既存体制を変更することによって、社会をよりよくすることを狙う。

 ただ、物事は理想どおりには進まないもので、真実を究明するための委員会だとすると、必ずしもそうはならない場合がある。報告書が長大になる場合がほとんどであるため、まともに読む人は少ないとも言われている。結論が国民の予測を裏切るものだと、大きな反感を買い、「税金の無駄遣い」と見なされることがある。政府が公的目的のために行う調査では、税金(国税)が使われるからだ。

 BBC報道の情報源となったケリーが自殺したことをきっかけに、2003年8月、ブレア政権は独立司法調査委員会を発足させた。長期の検証を想定したわけではない。官邸が「嘘をついた」とBBCに報道され、政権側には汚名をそそぐ必要があった。

 政府がブライアン・ハットン判事に対し、「ケリー博士の死をめぐる状況について、緊急に調査すること」を命じて設置された委員会は、判事の名前をとってハットン委員会と呼ばれるようになった。政府が命じたものであるため、国税を使っての調査である。

 委員会は政府による情報操作があったのかどうか、また、なぜ英国は開戦したかまでを吟味するようになったため、イラク戦争の是非を問う側面も持つことになった。 

 BBC側はギリガン記者、BBC幹部など、政府側はキャンベル、ブレア、それに統合情報委員会の委員長でイラク文書の著者となったジョン・スカーレット、通常は表に出ないほかの情報機関の首脳陣ら、大量破壊兵器の専門家、ケリーの遺族ら約70人が委員会の公聴会に召還された。それぞれ、ケリーの死因をめぐる状況について王室顧問弁護士5人による質疑を受けた。

 テレビでの同時放映はなかったが、証言内容を書き取ったものや関連書類など、約9000ページに渡る書類が委員会のホームページに掲載された。中には、通常は30年(当時。現在は20年)経たないと公開されない機密文書もあるなど、すべてを公開して調査を進める方針が貫かれた。 

報告書は情報操作を否定、BBCを批判

 2004年1月28日、委員会は報告書を出した。その結論は政府が「問題となった箇所が間違いと知りつつ文書に挿入した事実はなかった」として、情報操作を否定した。その一方で、BBCのジャーナリズムに不十分な部分があったと指摘した。

 これを受けて、BBCでは、ギャビン・デービス経営委員長が自ら辞任し、ギリガン擁護に徹してきたグレッグ・ダイク会長は経営委員会から辞任を通告された。BBCの経営委員長と会長が同時に辞めるのはBBCの歴史が始まって以来、初めてだ。ギリガン記者は前年、BBCを去っていた。

ジャーナリズムを批判されたBBCは、ベテラン記者による自局の報道体制の見直しを行った。

 その結果、6月23日に公に発表されたのが「ハットン以降のBBCのジャーナリズム」という報告書だ。見直し業務を統括した、元BBC報道局長ロナルド・ニールの名前をとって「ニール・レポート」とも呼ばれている。

 報告書は、BBCの報道の基礎となる価値観を「真実の確立と正確さ」、「公共の利益への奉仕」、「不偏不党と意見の多様性の反映」、「政府やさまざまな利害からの独立」、「視聴者への説明責任」と規定した(NHK放送研究所リポート、参考)。

 例えば、ツーウェーの手法(司会者が質問し、記者がこれに答えるという形で報道して行く)を使うのは熟練記者に限る、ギリガンがケリーとの会話を紙のノートに取らず、電子機器に概要のみを入力していたことから、インタビューは原則録音するなどの記者教育の徹底を求めた。また、編集責任者が匿名情報の情報源の名前を知る権利がある、とした。

 記者は改めて研修を行うよう定められ、継続的な研修を実施するための「ジャーナリズム大学」(カレッジ・オブ・ジャーナリズム)の創設を提言した。

 また、視聴者の立場からBBCの活動を見る経営委員会は、ギリガン報道を支持し続けた経営陣と一心胴体になりすぎていたのではないかという批判から、廃止されることになった。より独立性が高く、公的見地からBBCのサービスを決定する組織として、「BBCトラスト」が2007年から発足した。(つづく)
by polimediauk | 2014-07-12 21:00 | 政治とメディア