小林恭子の英国メディア・ウオッチ ukmedia.exblog.jp

英国や欧州のメディア事情、政治・経済・社会の記事を書いています。新刊「英国公文書の世界史 一次資料の宝石箱」(中公新書ラクレ)には面白エピソードが一杯です。本のフェイスブック・ページは:https://www.facebook.com/eikokukobunsho/ 


by polimediauk

イプスイッチ殺人事件 過熱報道の行方


報道した後で犯人ではなかったら、どうするか?

 年末から年頭にかけて、売春婦連続殺人事件が英国で起きた。その時の過熱報道の是非に関して「新聞協会報」(1月16日付)に書いた。

 (以下はその記事に加筆したものです。)

英・連続殺人事件
 容疑者報道が過熱化 ネット公開の情報利用し

 19世紀の「切り裂きジャック」事件を思わせるような連続殺人事件が昨年秋から年末にかけ、英国で発生した。容疑者として逮捕された男性に関する大量の個人情報が報道され、当局は何回も自粛をメディアに求めた。しかし、個人がウェブサイトで情報を公開することが一般化するなか、法廷侮辱罪を理由にした自粛の実効性と人権の問題が問われた。

 5人の犠牲者はいずれも、英東部サフォーク州イプスイッチの売春婦。昨年10月30日以降、相次いで失踪し、12月中旬までに5人の全裸の死体が近辺で見つかった。この内の一人は、2人の死体が発見された後で、英民間テレビITVのレポーターに取材されており、「身の危険を感じているが、麻薬を入手するために、通りに出て客を取るしかない」と話していた様子を、私自身、覚えている。

 容疑者が逮捕される12月18日前後から、個人的な情報が大量に流された。これには、いくつかの要因がある。まず、死体が売春婦が多い地域の近辺で発見され、報道機関は狭い地域を集中して取材できた。この過程で逮捕前の容疑者にも接触し、独自に多くの情報を入手できた。また容疑者はSNSサイト(MYSPACE)に写真や個人的な情報を公開し、転載も容易だった。

  12月17日付のサンデー・ミラー紙は、37歳の元スーパー店員、トム・スティーブンス氏のインタビュー記事を掲載した。スティーブンス氏は5人の女性全員を知っており、アリバイがなく、「自分が犯人と思われても仕方ない」ことを述べていた。その前週にBBCも、裏づけ取材の一環として、同氏のインタビューを録音していた。

 地元警察は翌日、「37歳の男性を容疑者として逮捕した」と匿名で発表した。当局はあくまでも数人の容疑者の中の一人であること、犯人である確率は50%ほどであることを述べたが、メディアがこの男性の身元を割り出すのに時間はかからなかった。スティーブン氏の自宅の前には捜査官が群がり、通りは通行止めになっていたからだ。

 BBCは逮捕当日から、容疑者の声をテレビやラジオ、ウェブなどで流した。メディア法を専門とする弁護士らは、法廷侮辱罪になるとして、これを批判した。これに対しBBCは放送は「公益にかなう」と反論した。

 12月18日付BBC電子版によると、スティーブンス氏は音声を「放送しないよう要請していた」ため、倫理的な観点から放送の可否を検討。連続殺人事件という状況のなか、容疑者の肉声を録音したテープがあるという「非常に珍しい環境」を考慮に入れ、放送に踏み切った。(この判断はかなり重みのあるものではないかと今でも思う。常に「今回は特別」ということで境界線が押し広げられているのが現状だ。)

 新聞各紙も高級紙・大衆紙を問わず、スティーブンス氏が犯人であることを前提に19日付の紙面を制作した。同氏がSNSで公表する個人情報、写真が使用された。

 ゴールドスミス法務長官は、報道が過熱気味だとして、自粛を数回にわたり求めた。州警察も各紙の編集長あてに書簡を送り、自粛を求めている。

 12月19日、事態は意外な展開を見せる。元トラック運転手のスティーブ・ライト氏(48)が二番目の容疑者として逮捕、21日には起訴されたのだ。スティーブンス氏は保釈されてしまった。最初に容疑者とされた同氏の個人情報を多く露出させたメディアの責任はどうなるのか。

 BBC(22日付電子版)によると、英国法廷弁護士評議会のジェフリー・ボス氏は、「公的利益のために」情報を提供する、という役割をメディアが果たした点を評価している。

 一方、12月22日付のガーディアン紙でコラムニストのマーク・ローソン氏は「例え法務長官や捜査当局が報道の自粛をしても、逮捕された者の隣人や親戚がウエブサイトに情報を出してしまう」ことができる時代になっていることを指摘。「ジャーナリストが無責任に情報を出しているのではなく、多量の情報が既に公開されている」。

 「個人がこれほど情報を公開している現在、一旦非常事態になったからといって、匿名にすることは不可能ではないか」と問う。

 また、重要な問題は、「法廷侮辱罪にあたるかどうかではなく、逮捕されてから、あるいは起訴された後でも無罪になった時に、犯人扱いのメディア報道がその人の人生にどんな影響が及ぶかだ」という。「オフ・レコとされたインタビュー内容が公開され、個人的な出来事が新聞の一面で報道されるなら、一旦容疑者とされてしまったら、全く人権がないことになる」。

 容疑者に関する情報をメディア側が多量に入手しているとき、及び容疑者自身が個人情報を既に公開していたとき、「報道自粛」はどうあるべきなのか、課題を残した事件となっている。

 ライト氏は、12月22日、今年1月2日とイプスウイッチ治安裁判所に出廷した後再拘留中で、次回は5月1日出廷予定となっている。現時点で、氏が犯人だったという証拠は出ていない。(終わり)

(追記)
 タイトルに「報道した後で犯人ではなかったらどうするか?」と書いたが、私もどうしたらいいか、分からないのである。しかし、メディアは罪深い存在になると思う。故意にメディアがそうしているのではないとしても。責任は重い。
by polimediauk | 2007-01-25 03:03 | 新聞業界