小林恭子の英国メディア・ウオッチ ukmedia.exblog.jp

英国や欧州のメディア事情、政治・経済・社会の記事を書いています。新刊「英国公文書の世界史 一次資料の宝石箱」(中公新書ラクレ)には面白エピソードが一杯です。本のフェイスブック・ページは:https://www.facebook.com/eikokukobunsho/ 


by polimediauk

宮台真司氏のメディア評2


「然るべき情報が伝わっていない」

 NHK放送文化研究所「放送研究と調査」(2004年6月号)に掲載された「社会の変容とメディア」の中の、宮台真司さんのインタビュー記事を続けて紹介したい。

 今回はデジタル社会に関しての洞察から始まるが、宮台氏は、日本では、「当然国民に伝えられて然るべき情報が伝わっていない」として、(当時の)現状のままでは、その将来に否定的な見方をしている。

 2005年の現在、ブログの大人気があり、ライブドアが既存メディアの株を取得し、日本のメディア地図に変化が起きそうだ。果たして、どの点が未だ変わらない部分であり、どの部分が既に変わったのだろうか。

 デジタル化の問題からは離れるが、NHKとBBCの番組作りに対する姿勢の違いに関しての言及にも注意したい。

 宮台氏は、NHKでは、万人が分かる番組を作ることを要求されるが、BBCでは、視聴者が「10%しか分からないような番組」でもいい、と言われたというエピソードを披露している。

 これはBBCが放映予定をしている、昭和天皇の番組(2・11のブログで書いたが)にも共通する部分がある。「これが絶対に正しい」という番組を作ろう、万人が賛同する番組を作ろう、という意志が、BBCには最初から、ない。したがって、リサーチを十分にするとしても、BBCが作る昭和天皇の番組は、担当製作者たちによる、「彼らの見方」での昭和天皇像を描くことになるはずだ。「多くの解釈がある中での、あくまでも、1つのバージョン」であることを、BBCも、視聴者も、了解しているーこの部分が、おそらく、日本からすると見えないかもしれないことに、私自身、焦燥感を感じている。


(以下、引用・抜粋です。)

―社会のデジタル化が急速に進んでいるが、その意味をどう考えるか?

 デジタル化は、一方においてダウンサイジングを可能にし、つまり音楽を作ったり映画を作ったり放送メディアのコンテンツを作ったりするときにかかるコストをさげていく一方、もう1つは、分化や「島宇宙化」を推し進めていきます。ダウンサイジング化とほぼ進行する形で受け手の細分化が生じていく、というのがあるわけです。(中略)このデジタル化の1つの利点であるところの細分化をむしろ逆に使ってですね、国民的な関心のあるニュースについて、マルティプル(注「複数の」)リアリティをそれぞれチャンネルが流すことで、多様な入り口出口が構築されればよいわけです。

(中略)

 可能性としては、ダウンサイジング化によって、それこそ市民メディアの勃興が期待できるわけです。しかしそうなっていないんですね、日本の場合はとりわけ。

―現段階では?

 現段階というよりも、システムをいじらない限り、今後ともたぶんそうなるでしょうということですね。日本のさまざまな社会制度や慣行のもとでは、そのポテンシャリティーを使い尽くせない、半分も利用できないで終わる可能性が高いということですね。

 例えば、市民メディアの勃興があるためには、その市民メディアに情報のアクセス権が保証されてなきゃだめなんですよ。ところが記者クラブ制度をはじめ、電波の寡占、新聞の宅配制度、書店の再販や取次店制度などのさまざまな制度的障害によって、デジタルメディアが本来可能にするはずの様々な事象が、出来事が、日本では起きないようになっている。

 例えばデジタルコンテンツって言っても、結局、現在の資本を持っている人間が最終的には権利をすべて握るわけです。実際にそういうふうなつばぜりあいを大手メディアの間で演じているわけです。

(中略)

 ・・・チャンネルがたくさんできればデジタル化によるダウンサイジングもあって、本来ならばそこに多様な市民メディア、市民ラジオ、市民TV,インターネットTV,インターネット放送局が、そうしたものが多様に入り込んで、まさに多様なコンテンツが流れるはずなんですが、日本の場合には残念ながら、チャンネルがいくら増えようとも、基本的には、そこで使われるのは既存のアーカイブスか、アメリカのケーブルTVから持ってきた向こうのコンテンツか、あるいは自分の電波メディアへ流しているものをネットでも流すというそういうことになる。だからコンテンツは決して豊かにならないんです、日本の仕組みでは。

(中略)

 ハードウエアのテクノロジー面での進化は、可能性を開いていますけれども、社会制度はそういう可能性にふたをしているわけで、もうそろそろマインドと制度面を改革し、開放していくことが大事だと思いますね。それはメディアだけじゃないですよ。日本企業はどこでもそうです、建設業からアカデミズムまでみな同じなんですよ。

―デジタル社会の進行とともに生じると言われるデバイド、情報格差の問題については?

 日本の場合には、残念ながら「デバイド」というよりも、むしろそれ以前の「ブラインド」の問題のほうが重要だと思うんですよ、隠されちゃうというね。

(中略)

 根本的な必要情報を知った上で、あるいは、それを知りうるか知りえないかという問題が解決した上でデバイドを問題にすることと、当然国民に伝えられて然るべき情報が伝わっていないというような状況でデバイドを問題にすることは、プライオリティが違うという感じがしますね、それは。

 むしろ、最低限の必要情報さえも伝えられていないことによる、共通前提のなさ、話の通じなさ、あるいは送り手からすると受け手のボリュームの構築のしがたさ、したがってスポンサーからのお金のもらいにくさ、そうしたことが問題だということなんです。

 もう1つは、やっぱりリテラシーの問題が重要です。この場合のリテラシーというのは、ひとつのメディアを見たときに、それをどう受け取るかという判断能力の問題ですね。

(中略)

―メディアの信頼性、公共性の意味するものについて

 日本の国民はメディアをわりに盲目的に信頼するし、メディアもまた簡単に空気を醸成してしまうという部分もありますね。

 さらに、受け手の側がナイーブであるがゆえに、受け手の厳しいまなざしに曝されることがないメディアも、切磋琢磨するチャンスを逸し、明らかに信頼性を欠いた、あるいはその責任にもとるコンテンツが流れていると思います。

―市民の側からは、メディア不信が言われているが

 しかし、問題はかなり矮小化されているいまして、1つはワイドショー的な集団的過熱報道だったりするのですが、問題としてどれだけ重要なのかということについて、きちんと考える土俵がないような気がするのです。

 例えば、主題の切り取りということで言えば、限られた電波メディア、有限の時間リソースの中で何故そのテーマにリソースを大きくするのか。これ、全部価値観が左右する、全く人為的なセットアップですよね。だからやらせ・やらせでないものという議論ではなくて、本質的な議論にしていかなきゃならない。

 つまり、問題は非常に限られた媒体のリソースを常に少数が独占してシェアするということから発しているわけで、しかもそれが全部大手メディアへのぶらさがり構造になっている。これが日本の現実で、メディアだけじゃなくて、まさに日本そのものなんです。

 だからメディアだけが変わるというのは難しいけど、しかし逆に言えばメディアから代わるということも、日本全体を変えるためには重要かもしれませんね。

―NHKについては、公共放送という意味ではどう考えますか。

 ひとつだけ、言いたいと思います。僕がBBCの番組制作に協力した経験から言うと、随分認識に差があると思うんですね。

 NHKの番組に何度も出ていますが、とにかく万人が分かる、誰が見ても分かる番組にしてほしいって言われるんですよね。

 でも、BBCでは逆の経験をしました。BBCはリサーチャーの制度が充実していて、例えば援助交際の番組について僕がネタを提供すると、2週間後に「宮台さん、裏が取れましたので番組やりましょう」って踏み出すんですよ。しかも、かなり専門的な社会学的な仮説についても話していいと言うんです。

 「こんな風な作り方をすると、国内では見た人が10%しか分からないような番組にならないんですか」と言ったら、面白いことを言っていましたよ。「いや、少数者が知っておく必要がある深い情報があり得る。万人が理解できることだけがパブリック・マターではない」とプロデューサーが断言しました。僕は目からうろこでしたよ。

 万人が理解できることは大事です。しかし、万人が理解できない大事なこともたくさんある。それもパブリック・マターだと、僕は思うんですね。デジタル時代というのは、間違いなくそのことの意味を問うてくるし、今後本質的な議論になると思いますね。

―最後に、メディアの役割と課題、可能性について

 メディアの影響力は、これからますます大きくなると思います。

 ただ、メディアの影響と言っても一概には論じられない部分もあるわけです。その手法において、目的において、効果において、それぞれ多種多様な影響力があるわけだから、どういう影響力が減衰し、どういう影響力が増大するのかを見極めるのが大事だと思う。

 それはアーカイブスを見れば分かるように、かつてならば、それこそパブリックな問題において有権者の意思決定の判断材料を提供する、という、メディアの基本的役割をそれなりに果たしていた時代もあったわけだから、逆に弱いものをたたき、強いものにぶら下がり、保身を図り、欲情にこびるメディア、そのようなタイプの影響力は、やっぱり僕は願い下げにしたいと思いますね。

 さらにもう1つ、日本のテレビメディアのまずいところは、放送法に言う不偏不党、これはアメリカの法律をモデルにしたものですけれども、曲解しているわけです。

 不偏不党とは、まずいくつかの意味合いがある。第一に政治勢力に組しないということですよね。もう1つは反論権を保障するということです。この2つでほぼ足りる。

 番組に同じ時間出させろとかいうことは、基本的には関係ない。反論権は同じ番組で保障する必要はない。別のチャンス、同等のチャンスを保障すればいい話です。

 何故放送法が曲解され、許認可行政の間違った放送解釈の下で、おびえる放送局が出てくるのか、本当に恥ずかしいことだと思いますよね。実際に間違った解釈の下で政治的な圧力に屈するわけで、それこそ不偏不党の風上にも置けませんよね。そのへんもちょっと勘違いがあるのかなあと思いますね。

 まあ全体として言えば、感情的であることよりも理性の働きが重要であることを提起するような、欲情にこびるのではない、人々を必要なものに動機付け、ディベートするような。さらに言うならば、火中の栗を拾って、権力に対するチェック機能を果たすようなメディアでなければ、それこそ国民の期待に応えているとは言えないと思うんです。

メディアたるものは、政権の影響力を受けないという不偏不党の保障の下で、ある社会的な理念を提示する責務を持っているし、さらにそれを証明することは、ひとつの重要な憲法上の権利でもあるわけですよ。つまりそれが、メディアが担う表現の自由が持つ本質的な意味のはずなんですけどね。

 メディアの役割は、そうしたことをきちっと果たすことであり、それがメディアの出発点でもあり、可能性の追求ということであるということです。それ以上のものでもないと思います。今一度、メディアの原点を見つめなおすことを期待したいですね。

(引用、抜粋終わり。若干の言葉の編集、注を付け足してあります。)


宮台氏は、1959年仙台生まれ。東京都立大学人文学部社会学科助教授。著書に「制服少女たちの選択」「終わりなき日常を生きろ」「まぼろしの郊外」他。
by polimediauk | 2005-02-16 21:22 | 日本関連