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在英ジャーナリスト&メディア・アナリスト。英国のメディア事情や社会・経済・政治事情を新聞業界紙、朝日新聞社「Journalism」、放送批評懇談会の「GALAC」、経済誌、WEBRONZAなどに寄稿。ニュースサイト「ニューズマグ」(http://www.newsmag-jp.com/)運営。著書は『英国メディア史』(中央公論新社)、『日本人が知らないウィキリークス (新書)』(共著、洋泉社)など。今年6月、一時帰国の予定です。取材執筆、講演などのご依頼は、ginkokoba@googlemail.comにご連絡ください。 ツイッター
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2008年 01月 30日
トルコのスカーフ着用禁止の解除の件で、英字紙「ターキッシュ・デイリー・ニューズ」に一問一答が載っていた。以下は抜粋である。
―スカーフが問題になったのはいつか? トルコ共和国建国(1923年)時にまでさかのぼる。1925年、トルコの建国の父アタテュルクが「帽子法」を発効させた。男性に対し、イスラム教の帽子(フェズ=トルコ帽がその一例)の着用を禁止し、代わりに山高帽を推奨した。「近代化の象徴」だった。女性の場合は法律では禁止されなかった。80年代、地方の保守的な家庭出身の女性たちが大学に入るようになった。これ以前は大学に行くのは都市部のエリート層だった。1989年の法律で、大学キャンパスでのスカーフ着用が正式に承諾されたが、同年、憲法裁判所がこの法律を違法とした。トルコ憲法の原理である世俗主義をおかすことになるから、というのがその理由だ。これが未だに着用禁止の法的根拠になっている。 -与党公正発展党は何故今になって解禁を持ち出したのか? 与党は常に禁止を解除したがっていたが、一期目(2002年から07年)はそうしなかった。自分たちが「イスラム教の政党」ではないことを証明しようとしていたし、世俗主義勢力からの反発を懸念したからだ。昨年7月の総選挙で47%の得票を得て、自信を得た。 ―どこで着用が禁止なのか? 公立、私立を問わず、大学、高等教育機関での着用だ。 ―何故憲法改正が必要なのか? 着用禁止は憲法裁判所の決定が基礎になっているため、スカーフ着用を認可する法律を成立させようとしても、同じ裁判所がまた却下する可能性がある。そこで、スカーフ着用の学生が大学での教育を除外されないよう、憲法に付帯条件をつけるなどが考慮されている。 ―今後どんな動きがあるか? 憲法裁判所は付帯条項さえも認めないだろうと予測する人もいる。世俗主義という「変更できない」憲法の原則を変えることになるからだ。上級裁判所の別の支部「国家委員会」(ステート・カウンシル)のトップが、最近、世俗主義をもてあそぶのは政党の解党理由になる、と述べている。与党にとっては警告だ。世俗主義信奉派団体がデモを起こす可能性もある。 ・・・感想だが、「なかなか大変だなあ、変えるのも」という感じがする。国内が大きく2手に分かれてしまうのだ。(サイレント・マジョリティーも多いだろうけれど。) 参考: http://www.turkishdailynews.com.tr/article.php?enewsid=95065 過去記事: http://ukmedia.exblog.jp/8108284/ 日刊ベリタの無料記事 http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200801302316583 大学教授インタビュー http://ukmedia.exblog.jp/6841637/ 2008年 01月 29日
28日夜、トルコの与野党が、大学でのイスラム教スカーフ着用禁止令の解除で合意をしたが、その詳細がロイター伝で伝えられている。 その前にだが、トルコの国民は99%近くがイスラム教徒だ。しかし、1923年の共和国としての建国(その前は、オットマン帝国と呼ばれた)以来、政教分離を国是としている。 何故そうなったかの説明は長くなるが、欧州列強に負けないためには近代化、急激な西欧化が必要となった経緯がある。そこで、後に「建国の父」と呼ばれるケマル・アタチュルク氏が、これもすごく大雑把な説明だけれど、イスラム教=古い、アラビア語に似た文字表記=古い、として、徹底的な西欧化・近代化をはかる。宗教関係者で弾圧・殺された人も結構いるのである。そして、アルファベットを浸透させようとして、アタチュルク自身が国中を回って、新しい文字を教えたぐらいだ。フェズ(トルコ帽)やスカーフなどこれまでのイスラム教徒としての装束も=古い、ダメなもの、となり、洋服を着るようにという雰囲気が出来た。 (追記:上記の「イスラム教=古い、アラビア語に似た文字表記=古い、として、徹底的な西欧化・近代化をはかる」の説明で、西欧化の説明だけでアラビア語表記が推進されたという説明は正しくないのでは、という指摘を頂き、アンカラ在住のトルコ語研究者からの説明を元に、以下に追加します。既に様々な書物で以下の内容が書かれてあるので、特に個人名を出す必要はないと言われましたので、ご了解ください。) まず、アラビア文字表記は、西欧化・近代化を推進するための国策という面があったが、そもそも、トルコ語の純化運動と言う大きな流れがあった。 「言語学的にアルタイ語系に属するトルコ語をセム語系に属するアラビア文字で表記することは不自然であった。アラビア語では長母音以外の母音は表記されないが、これに対してトルコ語には8つの母音があり、さらに母音調和の原則がある。したがって、アラビア文字でトルコ語を表記するとトルコ語の微妙な特性が十分に表現されないのみならず、トルコ人にとっては難解であり、識字率と教育や学問の普及の障害になっていた」。 「オスマントルコ帝国末期、支配階級や上流階級で話されるトルコ語の語彙には多数の外来語が含まれ、特にアラビア語とペルシャ語の影響が著しかった。これに対して国民の大多数をしめる農民の間で話されていたトルコ語は外来語の影響の比較的少ないものであり、民衆文学として保存されていたが、それでも長い間に本来のトルコ語の単語がペルシャ語やアラビア語の単語に置き換えられていた。これらの外来語を追放して純粋トルコ語作りの動きは、19世紀半ばに民族主義的思想が高揚し、啓蒙思想家Ibrahim Sinasiなどによって始められたが、国家的事業としても推し進められた」。 建国の父と言われる「アタチュルクはこの目的を遂行するために、1932年にトルコ言語学協会を設立している」。アタチュルク自身がアルファベット表記を推進するために国内を回ったのはよく知られている。(以上、追加終わり。) といっても、人々の心から宗教を撤廃することはできず、今でもたくさんモスクがあるし、イスラム教がなくなったわけではないのだけれど(むしろ、根強く存在+熱心なイスラム教徒もたくさんー何しろ、90%以上がイスラム教徒なのだから)、国政の場からは消えた・・・ということである。公務員の女性はイスラム教を表すスカーフをかぶってはいけない。 1980年の軍事クーデターが起きるまでは、大学ではスカーフ着用はそれほど厳しく規制されていなかったようだが、これ以降、事実上禁止となった。スカーフをかぶれないので大学に行くことをあきらめた女性も結構いるようなのである。スカーフ問題が政治問題になってしまい、スカーフの着用=国のイスラム化=政治的な動きと受け止められるようになってしまった。 2002年から政権を担当した親イスラム政党の与党公正発展党(親イスラム政党が政権を担当するまでになったというだけでも、大きな一歩であった)は、スカーフ禁止を解除しようとしてきたが、これまでなかなかうまくいかなかった。軍部、司法関係者、高等教育関係者が、「スカーフ着用は世俗主義堅持を脅かす」として反対してきたからだ。 そこで・・・というのが今回のロイターの記事になる。 ロイターによると、トルコの与野党の2つの政党がスカーフ着用禁止で基本的に合意したことで、今後どうなるか?と心配げに見ているのが、世界の金融市場だそうである。それは、世俗主義者からの反対で、何らかの政治的緊張感が起きると(暴動や反対デモとか)、欧州連合(EU)に加盟を望むトルコにとって、悪いニュースにもなるからだ。「イスラム化が進み、民主化が遅れているトルコはEUには入れない」とか。 両政党の合意の詳細を見ると、禁止解除は大学での女生徒のスカーフ着用に関するもの。公務員の女性や大学の教師陣は、今までどおり、スカーフ着用禁止は続く。従って、「部分解除」なのだ。 そして、許されるスカーフは、端っこをあごの下で結ぶ、「通常のスカーフ」であって、はしっこを頭の後ろで結ぶ、「政治イスラムの象徴」のスカーフではない。結び方でさえ、意味があるのだ。 これまでスカーフ着用禁止解除に反対してきた司法関係者や高等教育関係者は、既に、今回の禁止解除は「違憲である、社会の平和を乱す」と批判している。軍部そのものは何もまだコメントを出してないようだ。 解除には憲法の2つの条項の改正が必要となる。1つは高等教育委員会(YOK)に関わる法律だ。YOKは世俗主義堅持の柱となってきたが、新たな委員長になってからはスカーフに関して柔軟な姿勢を示しているという。―以上、ロイター伝に私の見方を付け加えた。 現時点では両政党の合意なので、実現にはまだ時間がかかる。 http://in.reuters.com/article/worldNews/idINIndia-31648820080129 関連 トルコのスカーフに関する、前のエントリー http://ukmedia.exblog.jp/6841637/ 2007年 08月 31日
今、英国のテレビでは、ダイアナ元皇太子妃が事故死から10周年の追悼式典が生中継中だ。バッキンガム宮殿に近い陸軍近衛騎兵隊の礼拝所で行われた。500人ほどが招待され、出席。ハリー(ヘンリー)王子が母親のことを思う、短いスピーチをした。「最高の母親だった」と。じーんとくる瞬間だ。 次から次へとボーイフレンドをつくり、最期はハロッズのオーナーの息子と休暇に出かけ、パパラッチがいることを承知で毎日水着姿を披露していたダイアナ妃。子供の側からすると、こういうことは関係ないのかもしれない。 招待された参列者の中には、歌手のクリフ・リチャードやエルトン・ジョンやバージンの創立者リチャード・ブランソン氏、テレビ・キャスターのデビッド・フロスト氏などがいた(ブレア元首相、ブラウン首相も)。友人たちであったことは間違いないのだろうけれど、家族+チャリティー団体のメンバーのみなどにできなかったのだろうか。故人は有名人と仲良かったということを示すためか。 別世界の価値観に思える。 今、約1時間ほどの式典が終わった。 ーーーー スカーフ着用をめぐる政治対立の深層 オズダルグ教授に聞く【下】 ベリタ 2007年07月12日掲載 トルコのスカーフ問題の解決策とは何か?著書『トルコのベール問題─公的世俗主義と大衆のイスラム主義』(1998年)などで、フェミニズムの観点から政治の流れとスカーフ着用の意味を追ってきた、アンカラにある中東工科大学のエリザベス・オズダルグ社会学教授にひきつづき聞いた。 ――大学では着用の自由を認めるべき ―トルコの世俗主義は行過ぎていると思うか? 教授: それがまさに私が本の中に書いたことだ。現在、イスラム系政府であることもあって、世俗主義グループの組織化に熱心な人々もいる。例えば、先日、(トルコの首都)アンカラで集会があり、イスラム系グループに対する反対の声をあげた人々がいる。現在の首相が大統領候補になることを希望していたため、軍部をはじめとする世俗主義からの反発が大きなデモ行為に発展した。エルドアン首相の妻はどこに行くのでもスカーフをかぶる。デモは、大統領に立候補するな、すれば問題が起きることを警告していた。 大統領は国家の最高の職であり、国家と一体だ。国家の維持、国家の価値観の維持がこうしたグループにとっては非常に重要となる。非常に保守的なグループだ。 ―しかし、近代的な、政教分離社会では、スカーフをかぶろうがかぶるまいが、自由なはずだ。 教授:そうなるべきだ。イランでは着用が義務だ。世俗主義者たちは、もしスカーフ着用を許せば、トルコ全体がそうなってしまうと懸念する。このグループは支持者を増やしている。 少なくとも大学では着用が自由になるべきだ。そうすれば、もっと自由にこの議題に関して議論ができる。スカーフ着用は必要ないと思うイスラム教徒もたくさんいる。現状では自由な議論ができない。 ―小中学校では宗教の授業はあるのだろうか? 教授:ある。道徳教育と宗教研究と呼ばれている。しかし、学校で教えられている宗教は、本当に宗教的な人からすると、物足りない。表面的だからだ。宗教教育はいらないと考える人もいる。宗教は任意で選ぶ科目であるほうがいいと思う。 ―言論の自由を奪う法律として、301条が国内外でずいぶんと話題になっている。この法律の違反で有罪となったアルメニア系ジャーナリスト、フラント・ディンク氏が、1月末、世俗主義者の青年に殺害された事件は未だ人々の記憶に新しい。トルコの言論の自由をどう評価するか? 教授:言論の自由はもちろんある。しかし、トルコ人らしさを規定する301条は、自分が進めたい特定の議題を持つ人々、特に軍部や民族主義者たちに利用される可能性がある。こうした人々は、ゆるく設定されている301条を使って、(ノーベル賞文学賞の)オルハン・パムク氏やその他の作家など、トルコでは大きな論争を呼ぶクルド人への抑圧やアルメニア人の虐殺問題を自由に話す人々を攻撃するために使っている。 トルコ人らしさの定義は難しい。検察や判事がこの法律をどのように解釈するかによる。いかようにも解釈できる。民主主義を嫌う人、トルコが自由になって欲しくない人、EUに加盟して欲しくないと思っている人が、それぞれの政治的目的を果たすために使う。 ――なぜ首相の妻は着用を止めないのか ―エルドアン現首相はどのような人物か。 教授:イスラム系政党AKPの党首でもあるが、党のイデオロギーはリベラルではない。伝統を重んじる、保守政党と言っていいだろう。結党は2002年だった。 イスラム系政党の政治家たちは、EUへの加盟が自分たちへの自由を保証するものと見ている。自由な社会、といっても宗教の面から自由な社会を目指す。 トルコのイスラム系運動は常にEU加盟には反対だったがエルドアン氏とその支持者はEUへの加盟を達成しようとした。加盟のためには、リベラルにならざるを得なかった。経済の自由化など様々改革を進めた。 ―5月の大統領選を巡り、トルコは大きな政治危機の状態に入った。何故100万人規模のデモが多発したのか? 教授:きっかけはエルドアン首相が大統領候補となることを希望していたからだった。大統領職はトルコでは非常に、非常にセンシティブな問題だ。大統領は世俗主義そのものだ。エルドアン氏の妻はどこに行くのでもムスリムとしてのスカーフをかぶる。これが大きな問題だった。トルコでは公式行事に政治家が出席するとき、妻も出席する。妻がスカーフをかぶるようでは、招待されない。与党は副首相を大統領候補に出したが、これもうまくいかず、11月の総選挙が今月末に前倒しとなった。与党側はこれで心機一転を狙っている。 ―7月末の総選挙はどうなるか。 教授:代わりになりそうな政党がないので、現在の与党が政権をまた握るだろう。(注:実際、そうなった。) ―首相の妻はスカーフをかぶることを止めないのだろうか? 教授:止めないと思う。個人の非常に深い問題だからだ。比較できるものが他にないかもしれない。ムスリムとしてのスカーフは自分のアイデンティティーの一部だ。政治目的で脱ぐわけにはいかない。 女学生の中にはスカーフをかぶることを許されないというので、欧州人権裁判所に訴えた人もいる。支持は得られなかった。欧州の裁判所は、トルコの憲法裁判所が訴えを却下した点に何の問題も見られない、とする判断を下したからだ。 ―裁判に負けたということか。 教授:そうだ。女性たちは大きな望みをかけていたのだが。欧州を見ると、イスラム嫌いが強い。この問題に関してはリベラリズムを期待することはできないのだろう。 私が見たところでは、欧州裁判所がトルコでスカーフをかぶらないということは高等教育を受ける権利を否定された状態であることを、本当に分かっていたのかどうか、疑問だ。私立の大学でもしスカーフ着用が自由なら、そこに行く可能性もあった。しかし、トルコでは私立でも国立でもスカーフ着用を許す大学はないのだから。 大学でのスカーフ着用をまず許可するべきだと思う。大学とは様々な概念を自由に議論をする場所なのだから。公的機関で働く場合に一定の規制があるのは理解できるが、大学でダメといえば、女性が高等教育を受ける権利を否定することになる。多くの人がこの問題に怒りを感じている。 フェミニスト運動の面からすれば、女性が大学に行き、専門職に就くことを望むのか、家庭に入ることを望むのか。欧州のフェミニストたちはトルコのスカーフ問題にもっと目を向けてもいいのではないか。 頭が良く、インテリジェントな女性たちは、宗教的であるという点以外は他の女性と同じなのだ。 ただし、全身をおおい、目だけが見える(イスラム教徒女性が身に着ける)ニカブについては、私は許容しない。公的場所では互いの顔が見えるようにするべきだ。(この項終わり) 2007年 08月 31日
8月29日、トルコの新しい大統領の就任式があった。 大統領が決まるまでに政局は二転、三転した。新大統領は元外務大臣(で、英語が流暢ということで欧州では人気の)アブドラ・ギュル氏である。 トルコにとって、ギュル氏の大統領就任は大きな意味を持つ。それは彼がイスラム政党出身だから。 トルコの国民はほとんどがイスラム教徒だが、1923年の共和国としての建国以来、世俗主義・政教分離を国是としている。 私(トルコに関して新参者)が見たところでは、「国民はイスラム教徒だが、徹底して世俗主義を通そうとしている」部分の苦しさがあるようで、「大変だなあ・・・」と思ってしまう。 ギュル氏の妻はどこに行くのでもイスラム教のスカーフをかぶるという。これは政治家ギュル氏からすると、困ったことになるらしい。妻でさえも。大統領が国の行事に出席するとき、妻が同伴すると、その妻がスカーフをかぶっていては、「困る」ことになる。 ギュル氏の妻は、新しいスカーフのデザインを製作させているという。モダンなスカーフの形を模索中のようだ。 トルコのスカーフ問題に関して、アンカラにある大学の教授(もともとはスエーデンの人)に聞いた話(ベリタでは今年7月掲載)を流してみる。 *** ベリタ 2007年07月08日掲載 スカーフ着用をめぐる政治対立の深層 オズダルグ教授に聞く【上】 イスラム系与党公正発展党(AKP)と世俗主義の擁護者との間で大統領選を巡る対立が政治危機となっているトルコだが、軍をはじめとする世俗派と親イスラム教勢力との闘いは80年前のトルコ共和国の建国以来、継続した動きとなっている。 国是となっている政教分離主義を脅かす存在の象徴となるのが、国民のほとんどがイスラム教徒のトルコで女性がかぶるスカーフだ。フェミニズムの観点から政治の流れとスカーフ着用の意味を追ってきた、中東工科大学のエリザベス・オズダルグ社会学教授に現状を聞いた。 ―都市化とイスラム政党の躍進 ─現在、トルコでは、世俗主義の徹底のため、公務員や大学生はイスラム教徒の女性がかぶるスカーフの着用を許されていないと聞く。教授の著書「トルコのベール問題、公的世俗主義と大衆のイスラム教」(1998年出版)には、トルコの世俗化がさらに進み円熟すれば、宗教が個人的な領域に属することが広く認知され、どこでスカーフを着用していようと問題にならなくなるとする結論が書かれていた。現状をどう見るか。 エリザベス・オズダルグ教授:この本を書いた90年代半ばから終わりにかけては、事態がもっと良くなると思ったので明るい展望を書いたが、今はそれほど楽観的ではない。 ―当時はどのような状況だったのか? 教授:1994年の地方選挙、95年の総選挙で親イスラム系の福祉党が票を伸ばした。総選挙では20%以上の票を得て最大政党となった。右派の政党とともに1996年、連立政権を発足させた。ところが、イスラム勢力の伸張を快く思わない軍部が97年の2月頃から圧力をかけはじめ、6月に権力を手放すことになった。 ―何故福祉党が勝ったのか?世俗勢力が強すぎたので国民はあきあきしていたのか? 教授:それも1つの理由だ。しかし、もっと大きな理由はトルコ社会で起きていた急速な変化だ。都市化が急速に進み、地方から多くの人がやってきて、都市部の労働者階級が増えた。1970年代の初めまでは、人口全体の30%から40%が都市部に住んでいたが、それ以降は4分の3、あるいは70%の人口が都市部に住むようになっていた。地方出身の人々は、伝統的な中流階級の考え方とは異なる後進的な価値観を持っていた。何がトルコかという定義も異なっていた。伝統的な宗教の価値観が政治に反映されることを望み、スカーフ問題はその1つだった。 一般的に、人が地方から都市部に移り住む時、伝統主義を持ち込むだけでなく自分自身の価値観をもっと認識するようになる。新たな都市部の住民たちは、女性たちはムスリムのスカーフをかぶるべきだと考えた。世俗主義者や(建国の父となったケマル)アタテュルク時代を守りたい人とは、衝突することになった。 最初のイスラム系政党「国家秩序党」ができたのは1969年末だった。しかし、1971年の3月には軍部が干渉し閉鎖された。1972年には同じ政党だが今度は「国民救済党」として結党。1973年の総選挙では、国政選挙に初めて参加したにも関わらず、政党は12%の票を得て、大きな支持を得て、連立政権が発足した こうして常にイスラム系政党への支持が続いてきた。この流れをくむのが現在政権を担当する公正発展党(AKP)だ。 ▽「国家の安全保障」問題としてのイスラム勢力 ―5月の大統領選以降、軍をはじめとする世俗主義者とイスラム系勢力支持者との間の対立が特に目立つ。これまでに2度クーデーターを起こし政権交代の鍵を握った軍部が、4月末声明文を発表し、軍は世俗主義の絶対的な擁護者であると宣言した。イスラム系政党の与党から大統領候補者が選出されればトルコ国家が危険な状態になると述べ、与党の動きをけん制する脅しとして機能した。トルコが民主国家なら、何故軍部のこのような力の誇示が許されるのだろう? 教授:政治介入のための媒体を持っているからだ。国家安全保障会議だ。これには、軍の司令官と、首相を含め主要閣僚ポストが参加する。国家の安全保障に関わる問題を討議する。しかし、「国家の安全保障」とは何か?様々な定義があるだろう。もしトルコのイスラム主義者を戦闘的組織と定義すれば、国家の治安への脅威ともなる。超世俗主義者たちはイスラム系勢力をそう定義したがる。 ―イスラム文化の奨励という面ではどうか? 教授:1997年2月、安全保障会議はイスラム教の導師(イマーム)を教育する学校の数を減らすことを討議した。当時の政府が、文化政策の一環としてイマームを育てる学校の設立を奨励していたからだ。軍と世俗主義者は、このような学校の奨励は反動的なイスラム主義がトルコで権力を握ろうとしている証拠だ、と解釈した。そこで、安全保障会議は政府に対しこの問題で圧力をかけた。政府は連立政権だったので、こうした学校の設立を好ましく思わない人も一部にいた。数ヶ月圧力を与え、時の政権が崩壊してしまった。 スカーフ問題は、トルコの世俗主義を巡る対立で象徴的な問題だ。宗教教育の問題でもある。 ―大学ではスカーフ着用の自由はない ―国立の大学ではスカーフをかぶってはいけないことになっていると聞くが? 教授:そうだ。私立の大学もそうだ。全大学が高等教育委員会の監督下にある。スカーフをかぶらないようにというのは規則であって法律ではない。政府機関で働く場合、勤務者には特別規制が課され、イスラム教のスカーフはかぶれなくなる。 実は、1982年以前には大学ではスカーフに関わる規制はなかった。必要がなかったからだ。誰もスカーフをかぶって大学に来る人はいなかった。イスラム復興運動が拡大し、スカーフをかぶる学生が増えたので、大学でスカーフをかぶらないようにという規則が導入された。それが1982年だった。 ―教師もかぶってはいけないのか。 教授:そうだ。教師はもっとかぶるのが難しい。 ―もし学生がスカーフをかぶっていたらどうなるのか。 教授:教師あるいはスタッフは懲罰委員会にこれを報告する義務がある。学生は警告を受ける。もし行動を改めないと、第2、第3の警告が出る。それでもスカーフをかぶり続ければ、大学から追放される。 1980年の軍事介入で政権が交代し、1980年代には一種の解放的な気分があった。最初の選挙は1983年だった。祖国党と呼ばれる政党が勝利した。党首はトルグド・オザルというリベラルな人物で、宗教熱心でもあった。オザル氏はすべてにおいて自由化を進めようとしたが、1993年、心臓病で亡くなった。その後、女学生を擁護するために発言をするほどの勇気がある人はいない。 現在、状況はかつてもよりも厳しい。私が本を書いた時は、スカーフ問題が解決できると信じていた。そうはならなかったが。 ―何故女学生はスカーフをかぶりたいと思うのか。 教授:イスラム教の教えが、女性にスカーフをかぶることを勧めていると解釈しているからだ。身体を覆い、信心深く見えるような装いをすることを宗教上の義務だと思っている。そういう風にコーランを読み、イスラム教の1つの伝統だと思っているからだ。 ところがトルコの一部の人は、特に世俗主義者たちは、スカーフの着用は宗教上の表現ではなく、戦闘的イスラム教を表している、と見なす。「我々とは異なる、非世俗主義的体制を導入しようとしている」、と。学生たちは普通の女性であることを示そうとしているのだけなのに。 ―世俗主義者たちの矛盾 ―スカーフをかぶらない女学生たちは、スカーフをかぶる女学生たちのことをどう思っているのだろうか。 教授:私が書いた本の表紙の写真には女学生が写っていて、スカーフをかぶっている学生も、かぶらない学生も一緒に座っている。学生同士では問題にはならない。 問題は教師たちだ。世俗主義を非常に固く信じている。教師は、スカーフをかぶる女学生を攻撃したり、スカーフを脱ぐように強制する。 ―教師たちは、イスラム教信奉者たちがトルコの近代化の進展を妨げていると見なすのだろうか? 教授:そうだ。そういう論点で議論を進めている。イスラム系グループを「反動者」と呼んでいる。現実に全く即していない。 トルコにも確かに反動者たちはいる。しかし、この大学では、女学生が専門職に就くために近代的な教育を受けている。この点だけをとっても、反動者ではないことが分かる。このような女性を反動者と呼ぶのは、論理が破綻している。 何故スカーフをかぶるのかに関しては、いろいろな説明がある。兄弟や父親に強制されている、(厳しい戒律のイスラム教宗派を国教とする)サウジアラビアかあるいは他のイスラム諸国からお金をもらってかぶっている、など。お金をもらう代わりに住居費の援助を受けている、奨学金をもらっているなど。 実際、こういうことをする団体が存在する可能性はある。 しかし、この本を書くために学生たちと話をし、その後調査を継続すると、学生は自分の意思でスカーフをかぶることを決めていることが分かる。専門職に就くことを強く望んでいるのに、大学ではスカーフ着用禁止令があるという奇妙な事態になっている。 (つづく) 2007年 08月 26日
―新聞社前での銃殺 トルコのアルメニア系ジャーナリスト、フラント・ディンク氏(52歳)は、今年1月19日白昼、イスタンブールにある週刊紙「アルゴス」の事務所がある建物の前で、何者かに銃撃され死亡した。「アルゴス」はアルメニア語とトルコ語の新聞で1996年に創刊。ディンク氏はこの新聞の発行者だった。 ディンク氏はトルコが否定する、第1次世界大戦中のオスマン帝国の「アルメニア人虐殺」に関する記事や発言で、刑法国家侮辱罪301条で起訴され、2005年に執行猶予付きの有罪となるなど、数度の訴追を受けていた。 トルコ警察が翌日逮捕したのは17歳のオギュン・サマスト容疑者だった。地元紙の報道によると、少年は知人の民族主義組織のトップ、ヤシン・ハヤル氏に殺害を依頼されたという。ヒュリエト紙によると、サマスト容疑者自身は、後の警察への供述の中で、ディンク氏が「トルコ人を侮辱したために殺害した」と述べている。 2月上旬になって、サマスト容疑者が、拘束後、トルコの治安機関職員数人と、トルコ国旗の下に並んでいる映像がテレビ放映された。背後には近代トルコ建国の父ケマル・アタテュルクのポスターが貼られていた。国家体制の中に今回の殺害を間接的に支持する動きがあった可能性を示唆する映像として受け止められ、「ディンク氏殺害事態よりも、この映像の方が重い」とする地元メディアの報道が続いた。 ―刑法301条、政府は改正示唆も 第1次世界大戦中、トルコに住んでいたキリスト教徒のアルメニア人の大量殺害を「虐殺」と定義するかどうかは、国によって意見が分かれる。アルメニア人側は、オスマン帝国による殺害や飢えで約150万人が亡くなったと主張し、「虐殺があった」としている。トルコ側は、大量のアルメニア人が内戦や世界大戦の中で亡くなったことは認めつつも、「虐殺ではない」がその公式見解だ。トルコでは、アルメニア人虐殺があったという認識は刑法301の違反で国家侮辱罪の対象になる。 刑法301条は、トルコのEU加盟交渉を開始するために行なわれた一連の刑法改革の一環として、2005年6月に施行されたばかりの新法だ。これまでにこの条項にからんで昨年ノーベル文学賞を受賞したオルハン・パムク氏を含めた60人近くが訴追されている。 しかし、ほとんどが取り下げなどの結果になるため、一説には、トルコのEU加盟阻止を狙い、表現の不自由さが内外に宣伝できるように、検察や裁判所が著名な作家たちを次々と訴追している、という見方もある。 EU加盟を望む現政権は、適用基準の見直しや条項改正を示唆する発言を出している。 ―世俗主義を守れと数百万人がデモ 5月中旬、トルコ第3の都市イズミヤで、イスラム系大統領の誕生に反対するデモに150万人が参加した。「トルコは、永遠に世俗主義国家であるべきだ」、「トルコがイスラム国家になって欲しくない」とデモ参加者は訴えていた。ギュル外相の大統領昇格を目指すイスラム派与党のAKP党をけん制したもので、アンカラでは50万、イスタンブールでも100万人の同様のデモが、これに先駆けて起きていた。 一ヶ月前にも同様の大規模デモがあったが、これは、次期大統領候補として立候補を予定していた、与党党首で首相のエルドアン氏へのけん制だった。軍部が世俗主義の継続が脅かされることに懸念を覚えるという声明を出し、首相は立候補を断念せざるを得なくなった。与党は代わりにギュル外相を立候補させたが、世俗派野党が初の非世俗系大統領の誕生に反対し、議会内で投票をボイコット。大統領選挙は無効となった。エルドアン首相は秋に予定されていた総選挙を7月に前倒し、国内の求心力を高めようと計画しているが、トルコは大きな政治危機の状態にある。 首相や外相夫人はともに熱心なイスラム教徒でどこに行くのでもムスリムのスカーフをかぶる。現在イスラム教スカーフの着用は公的場所では禁止されているため、スカーフ着用の夫人の存在は世俗派からすると、トルコをイスラム教国家にする兆しとして、大きな脅威とも映る。 トルコのタブーは、建国の精神である世俗主義や国家の公定史観を批判すること。「国家の威信に挑戦する声を上げたものは倒される」(トルコ文学の翻訳家モーリン・フリーリー氏)。 トルコは今、表現の自由という観点からは、薄氷を踏むような状況にあるのかもしれない。(つづく・次回のスカーフ問題は、来週の新大統領決定後に出します。) 2007年 08月 24日
―放送内容にも規制 案内をしてくれた映画作家ゼイネル・ドアン氏がかつて編集長だったのが、同じくディヤルバクルにある地方テレビ局「ギュン・テレビ」だ。 元々は1994年、「メトロラジオ・テレビ」として始まり、2001年に「ギュン」(「日」の意味)となった。ディヤルバクル市の人口は約55万だが、近隣に住む150万人の視聴者向けに、一日に16時間放送を続けている。 トルコでの放送は元来トルコ語のみに限られてきたが、少数民族に文化的及び言語上の権利を与えることがEU加盟交渉で必須とされたため、2001年、憲法が修正された。その後のいくつかの改革政策の後で、放送で使用される言語に関する新法が施行され、2004年からクルド語での放送が可能になった。クルド語は「1つの方言」としての位置づけだったが、国営テレビTRTが放送を開始した。 ギュン・テレビを含む民間放送業者数社は早速放送認可を申請したが、様々な書類提出の義務付けなどの条件がつき、申請は直ぐには降りなかった。認可を得ずにクルド語放送をした放送局は罰金を課せられたり、放送免許が取り上げられた。同じくディヤルバクルにある「ART TV」が、2003年8月クルド語のラブ・ソングを放映したところ、「国家の不可分の統一の原則」を侵害したということで、2004年3月、閉鎖に追い込まれている。 ギュン・テレビも定期的に迫害にあっている。あるシンポジウムの中継で、出席していた2人の政治家がクルド語とクルド人のアイデンティティーが認識されるべきだ、と発言したところ、1ヶ月の放送停止にあった。 ギュン・テレビのジェマル・ドアン編集長によると、放送認可が下りたのは、申請から2年後の「2006年3月24日」だった。 放送許可といっても放送時間は非常に限られたものだった。「テレビでは一日に最長45分、1週間では4時間まで。ラジオは一日に最長1時間で、1週間で5時間まで。トルコ語に翻訳する必要も課せられるので、トルコ語の字幕をつけることが必須。ラジオは後で翻訳した番組を放送する」。 放送内容にも規制がつき、ニュース、音楽、伝統文化のみが放送を許される。子供用の番組や映画は禁止だ。テレビの場合、字幕をつける必要もあって許可された時間内に放映するには事実上生中継は難しく、録画・録音された番組のみの放送となる。 「内容を広げるよう、今申請しているところだ。政府の考え方を何とかして変えたいのだが」。 「トルコにいるクルド人はクルド語を話すなと言われてきた。国民がばらばらになるから、と。私はそうは思わない。クルド人の人権の問題なのだと思う」とドアン氏。 ドアン氏は既存のクルド語放送拡充に加え、ネットでの番組配信も将来的に計画していると言う。 トルコに住むクルド人の間で人気が高いのが、デンマーク・コペンハーゲンに本社を置き、ベルギーからクルド語番組を放映している衛星テレビ局「ロッジTV」だ。「鳥インフルエンザの到来を刻々とクルド語で放映したので、母親たちがずい分助かったと言っていた」。 ロッジテレビは昨年秋、一時トルコからは視聴不可能になった。ドアン氏やトルコに住むクルド人の間では、「トルコ政府が通信をブロックした」というのが定説になっている。 クルド語放送のテレビ局と聞いて、24時間クルド語を放送していると思った私は、1日に45分のみ(ラジオは1時間)という規制に驚き、落胆もした。特に、ラジオ番組では後にもう一度翻訳した番組(トルコ語)を放送する、というやり方に滑稽ささえ感じたが、それでも冗談ではなくこれが現実なのだ、と思い直した。それにしても、これで「クルド語放送が許可された」と言えるのだろうか? ―「僕はサムライだ」 トルコ語の通訳を買って出てくれたメティン・オゼリクさんと共に、取材の拠点にしていたクルド文化センターに戻った。オゼリクさんと目が合い、「トルコに住むクルド人って大変だね。言葉を使っちゃいけないし、放送時間だってあんなに短いとはね」と言うと、オゼリクさんはにっこり微笑み、「僕たちはここで生まれ育ったんだ。もう慣れてるから、たいしたことはないんだよ。ずーっとこのままなんだから」。 オゼリクさんは文化センター内にある、ディヤルバクル観光事務所の職員だ。「ディヤルバクルのことを世界中の人に知って欲しい。通訳として助けたい」と声をかけてくれたのだった。米俳優トム・クルーズが出演した「ラスト・サムライ」にすっかり感銘を受け、「僕はサムライだ!」と自己紹介した。日本のサムライのように、誇り高く生きたいのだと言う。 クルド語の規制は「特に1980年代が一番ひどかった。家の中でも、友人同士でもクルド語を話していけない雰囲気があった。今は普通に話せる。学校や病院、銀行、駅、政府の建物の中とか公的な場所では今でも話してはいけないけれどね」。 「それでも状況は大分良くなったし、もっと良くなって欲しいと願っている。母国語や文化を維持することは非常に重要なことだと思っている。僕たちの子供のたちの世代にとってもそうなんだ。これからもっと良くなるー僕は楽観主義者だよ」。 ―消された声 (ディヤルバクルの商店街の一角)ディヤルバクルでは紀元300年頃から作られたという長さ5キロほどの城壁が旧市街を囲んでいる。夜になると城壁の一部に明かりがつけられ、少年たち数人がサッカーをしている様子が、ホテルに戻る車の窓から見えた。 通りには小さな店が建ち並ぶ。金物屋、乾物屋、駄菓子屋などの店内には裸電球がつき、日本で言うと戦前を思わせるような雰囲気があった。 ギュン・テレビのドアン氏はその日午後8時から、クルド語放送があると言っていた。ホテルのテレビからギュン・テレビのチャンネルが映ることを確認して、時を待った。 時間通りにチャンネルをつけて見た。画面の様子から、あるトピックに関して街頭インタビューをしていることが分かった。しかし、不思議なことに音声がほとんど出ないのだ。画面も粗い粒子が流れまともに顔かたちが判別できない。私は他のチャンネルを回してみた。全て画面は通常通り映っていた。私はチャンネルをもう一度ギュン・テレビに合わせた。コマーシャルになっても、「ザー、ザー」という音が出るばかり、画面の識別不能は変わらなかった。どこかで誰かがスクランブルをかけているような画面だった。 もちろん、「たまたま」このチャンネルだけをホテルにあるテレビが映し出さなかったのかもしれない。しかし、「もし」これが何らかの形での番組遮断だったとしたら、検閲されるとはこういうことか、ある番組の視聴を不可能にさせるとはこういうことか、と思った。何とか画面の動きを識別しようと目をこらしながらも、ある番組、あるテレビ局の放映がブロックされた時の恐ろしさが胸に迫る思いだった。 ―「パラノイア」 在ロンドンの非営利団体「カーディッシュ・ヒューマンライツ・プロジェクト」が出版した『トルコのクルド人』の中で、著者ケリム・イルディズ氏は、「文化面や言語の面でトルコ政府が行った譲歩は一見画期的であるが、よく見るとEU加盟のためのリップサービスに過ぎなかった」と指摘する。 トルコは未だに国家主義を推進することに力を入れており、クルド人の文化的・言語上の権利を拡大させれば、トルコ共和国が分裂してしまうという「パラノイア」に捕らわれている、と言う。 トルコ当局はクルド人の文化的・言語上の権利の拡大をすれば、クルド人反政府武装組織に力をつけさせ、反政府武装攻撃を加速させると考える、と見ている。これに対し、著者は、むしろ文化的状況を緩和すれば、クルド問題に関する「平和的、恒常的」解決につながる、と主張する。 この本のメッセージはどうやらトルコ政府あるいは民族主義者たちには届かないようだ。 2月、ディヤルバクル市のある地方自治体のトップが、自治体の職場内でクルド語も含めたほかの言語の使用が可能になるべきだと発言した。 これは、トルコの外に住む人からすれば、それほど大きなことのようには聞こえないだろう。 しかし、「国を分裂させるような価値観や考え方は危険であり、特にトルコ民族が住む国がトルコという公式見解を揺るがせるようなアイデンティティーの表現は、例えそれがいかに平和的でかつ穏健なものであっても、国家の品位を脅かす」(『トルコのクルド人』)とするトルコでは、国家の存在を危うくする問題発言となる。この件は裁判に持ち込まれ、審理が継続している。 昨年11月、EUが発表した、EU加盟のためのトルコの改革進展報告書は、ディヤルバクルを含む南東部で人権侵害が続いていると指摘した。トルコ語が母語でない子供たちへの言語教育が不十分で、特にクルド人が母語を学ぶ教育機関が現在存在しないことに懸念を寄せる。一方、クルド人が集中して住む地域から離れると、私自身が取材した中では、クルド人への文化的抑圧を問題と考えている人は少なかった。 EU加盟交渉を機に改革がさらに進展することに、トルコのクルド人たちは一筋の望みをかけている。(つづく) 2007年 08月 23日
トルコのファンは日本に多いようだ。私がトルコに興味を抱いたのは欧州に住んでからだ。 新たな大統領が近く決まる予定(紆余曲折の過程を経て、秋の総選挙が夏に繰り上げられたりなど、大騒動となっている)で、成り行きが注目されている。 オンラインのベリタと雑誌ベリタの最新号(4号)に、「トルコ、表現の自由の行方」というテーマで数本記事を書いた。若干情報を足したものを流してみたい。 トルコで、日本式あるいは欧州式の表現の自由はあるか?と人に聞くと、聞く相手によって答えは違う。どうしてこうも違うのか、と思うほど、違う。 一般国民の(トルコ人の)間では、特に政治運動に関わらなければ、それほど表現の不自由を感じている人は少ないのかどうか?現地で知識人の数人に「欧州並みの表現の自由はある」と断言され、ロンドンでトルコ通に聞くと、「かなり限定されている」と言う。 いずれにしろ、現地での会話を伝えたい。 世俗主義の徹底が 表現の自由のあしかせに 母語を禁じられたクルド人、 射殺された記者 今年1月末、アルメニア系トルコ人ジャーナリスト、フラント・ディンク氏がイスタンブールで民族主義の若者に射殺された。トルコではタブーとなっている、第1次世界大戦中のオスマン・トルコによるアルメニア人虐殺があったと書いたことが引き金となった。 葬儀には言論の自由が踏みにじられたことへの悲しみと怒りにかられた、約10万人のイスタンブール市民が集まった。 欧州連合(EU)加盟をめざし民主化に向けた改革実行中のトルコで、「表現の不自由さ」が生じるのはアルメニア人問題だけではない。 少数民族クルド人は母語の使用を数十年にわたり厳しく制限され、90%以上がイスラム教徒のトルコで、ムスリムのスカーフの着用は公的場所では一切禁止。国是の世俗主義が表現の自由の足かせにもなっている。トルコが一員となることを熱望するリベラルな西欧社会の価値観が許されない国内の現状と背景を探ってみた。 ―ディヤルバクル ![]() チグリス川に臨むトルコ南東部の都市ディヤルバクルは、トルコからの分離を求める反体制組織クルド労働者党(PKK)がかつて活動拠点としてきた場所だ。つい最近まで、観光ガイドブックが「行かない方がいい」、「行くなら十分に注意するように」と表記していた。 1980年代半ば、政府はディヤルバクルを中心とした南東部に非常事態宣言を出し、政府軍及び反政府組織加担者など5万人近くが命を落としている。 PKKの指導者アブドラ・オジャランは1999年に逮捕され、PKKは停戦宣言(2004年に破棄)を出した。これに呼応して政府は2002年に非常事態宣言を解除したが、今年もディヤルバクルを中心に何度かPKKの一派による列車爆破、警察への発砲などが発生している。 空港に迎えに来てくれた、クルド文化センターの映画作家ゼイネル・ドアン氏は、「妹の家があいているので、そこに泊まって欲しい」と勧める。既にホテルを予約してあるからと言っても、「キャンセルすればいい」と言う。丁寧に断っても繰り返すので、何故かと聞くと、「安全じゃないから・・・」。 あまりの用心深さに、これは女性が一人で旅をしているためなのか、あるいはこの地方特有の歓待方法なのか一瞬戸惑ったが、反政府運動に関わりのない市民、外国人旅行者でも決して例外とはされず、何らかの事件に巻き込まれる可能性を考慮してのドアン氏の発言だった。 全世界で約3000万人いるとされるクルド人は独自の文化と言語を持つ民族だ。トルコ(約1500万人)、イラク(400万人)、シリア(100万人)、イラン(700万人)にまたがって住む。クルド人はトルコ全体では人口の20%を占める。 1923年建国のトルコ共和国は、トルコ国家としての単一のアイデンティティーを作ることを重要視し、非トルコ人の国民の同化策を進めた。 1920年代から30年代にかけて起きたクルド人の反乱はトルコ軍によって鎮圧されたが、同化に意を唱えるクルド人、反乱に関係したと見られる村人たちは処刑されたり、住んでいた村から強制移動させられた。 トルコ憲法によれば、「トルコの国民はトルコ人」。公式言語はトルコ語のみが認められ、クルド語教育や放送などは厳しく制限を受けた。1980年代の軍政時代にはさらに文化的状況は厳しくなり、クルド語の教育、放送、出版が禁止された。 トルコが加入を望む欧州連合(EU)の民主化要求にならい、近年は教育や放送条件が緩和されたが、自由にクルド語が教えられ、テレビやラジオで聞けるかというとそうではない。 クルド語の教育、メディアに関わる人たちを訪ねてみた。 ―クルド語は外国語扱い ![]() マザハル・アクタシュさんは、長年教師として勤務してきた中学校を昨年退職し、仲間と共にクルド語の調査研究をする団体「クルディ・デル」を立ち上げた。「クルド語の学習が許可されたのは、ほんの2、3年前」という。 アクタシュさんが10代だった1960年代後半、クルド語の自由な使用を求めて、10万人近くが政府に署名と嘆願書を送ったという。「関係者は牢獄に連れて行かれた」。 「図書館には基本的にクルド語の本はなかったが、もしあったとしても、「クルド語はトルコ語の一部だ」と書かれていて、『いつかはトルコ語に吸収される』という文脈だった。政府の息がかかった人が書いたのかもしれないね」と笑う。書店にはたまにクルド語の本が出ることもあったが、政府側が「反政府的意図がある」として没収したという。 「一ヶ月ほど前に友人がバスに乗っていた。バスの運転手がクルド音楽をバスの中でかけた。乗客の中にはトルコ人がいて、バス停の近くにいた兵士にこれを報告した。乗客全員と運転手が警察署に連れて行かれ、運転手は罰金を払った」。 しかし、クルド人が圧倒的多数派のディヤルバクルでは、兵士もクルド人ではないか、何故反クルド的態度をとるのかと聞くと、アクタシュさんは「確かにクルド人が多いが、トルコ共和国の兵士として訓練を受ければ、精神はトルコ人と同じになるんだ」。 クルド人でもクルド語を話したくないという人もいるという。「クルド語を話したがために父が牢獄に連れて行かれた、という人もいる。こういう人は話したがらない」。 「クルディ・デル」は有志からの募金で運営されている。クルド語を成人向けに教えるコースも提供し、様々な方言があるクルド語を統一するための辞書作りにも取り組んでいるという。 アクタシュさんは、教師時代、自分も生徒たちもクルド人でありながら、学校では全てトルコ語で教えることを余儀なくされた。母語が自由に使えない事態は「頭に来る。自分の言葉が話せないのはつらい。悲しい。泣くしかない。自分の言葉を話したいし、教えたい」 現政権の改革路線のおかげで、「今では(街中で)クルド語を話しても良くなった。テレビやラジオの放送もある。私はこれは成功だと思っている」 ▽不当な扱いの撤廃めざすクルド語市民メディア ![]() M・エミン・イルディリム氏は、クルド語の新聞「アザディヤ・ウエラット」の編集長だ。編集長になってからは2年ほど。ディヤルバクル近辺では最初のクルド語の日刊紙だ。販売部数は約1200部。 元々、「ウエラット」という週に1回発行された新聞で1992年に創刊されたが、1年後には「政府の圧力」で閉鎖された。政府側は「反政府組織クルド労働者党(PKK)のプロパガンダとなっている」と主張した。1994年からは現在の名前で再出発した。 「他の新聞との違いは、ライターとオーナーが一般市民であり、市民のためのメディアであること」とイルディリム氏。自分自身も大学院生で、電子工学を勉強している。これからもジャーナリズムを続けたいという。 「アザディヤ・ウエラット」紙には20人の記者がいるが、顔ぶれは頻繁に変わる。「プロパガンダ紙になっている、として政府が様々な圧力をかける」からだ。「常に政府側からは不平不満が出る。罰金を払わされる」。書かなくなる記者もいるという。 政府側は何が不満なのか? 「PKKのアブドラ・オジャラン指導者(逮捕後、終身刑となり受刑中)の写真を大きく載せたり、政府批判をすると問題になる」 「私はPKK支持でも政府支持でもない。しかし、オジャランを『指導者』と書いただけで『プロパガンダ』と言われてしまう。トルコでは言いたいことが言えない」 「クルド文化や言語は禁止されるべきではない。非常に重要だし、この新聞には大きな使命があると思う。(クルド語の教授は学校では教育課程の中に入っていないので)、新聞を通じて、クルドの文化、民話、言葉そのものを教えるという役目も担う」。 本当にPKKの機関紙ではないのかと、PKKとの関係を聞くと、イルディリム氏はどう言おうかと一瞬迷っているような様子を見せたが、思い切ったようにこう述べた。 「この地域ではPKKに息子を出した人が必ず周囲にいるのが普通だ。この点から、支持するのは自然だ。PKKに関係しているという疑いで多くの人が投獄されてきたことも指摘しておきたい。重要なのは、(クルド人の分離・独立を求める)オジャランを支持する署名が300万集まったことだ」。 イルディリム氏自身、何故この新聞に関わっているのだろう?「クルド人に対する不当な扱いが起きている。私の心がこうした状況に何かを感じる。私は人々のために役に立ちたい」。 緊張した面持ちで話をしてきたイルディリム氏に、編集室の様子を見せてもらった。 午後8時頃になっていたが、数台のコンピューターが置かれ、書きかけの原稿、資料、辞書などが散在していた。既に他のスタッフは帰宅した様子だったが、女性が一人だけ残っていた。 イルディリム氏と共にカメラに向かってもらいながら、「イルディリム氏は、厳しい上司ですか?」と聞いてみた。二人ともが笑い出す。「上司ではないんですよ」と女性。「ここには誰も上司はいないんです。みんなが平等だから」とイルディリム氏。やっと顔がほころんだ。(つづく) 2007年 01月 24日
市民10万人が集まったことの衝撃 (体調を崩したのと少し調子が良くなると外に出かけている内に大分間が開いてしまい、大変恐縮です。) 欧州に住んでいるとトルコのことが気になり、昨年末トルコに行ったせいもあって、知識は少ないのにますます気になっている。 と思っていたら、アルメニア人の虐殺に関して書いたジャーナリストが銃殺された。 読売新聞から拾ってみたい。 記事に民族主義者ら反発?トルコで編集者銃撃され死亡
トルコのジャーナリスト殺害、葬儀に市民10万人 葬儀に集まった人々のほとんどが生粋のトルコ人で、「我々はみんなアルメニア人だ」と書いたプラカードを持った・・・というエピソードにほろっとした。 イスタンブールは私が見たところトルコの中でも最も国際的な都市で、結構「クール」な人も多かった。 「私たちは西欧人と全く変わらないんだ」「表現の自由は西欧と同じぐらいあるんだよ」「イスラム教徒って言ったって、みんな自由なんだから。拝みたい人は拝みたければいいし、そうしたくない人は心で思っていればいいんだよ。アルコールだって飲むか飲まないかはその人の自由なんだ」と言っていた、イスタンブールに住む人たちは今どうしているか。 殺されたジャーナリストの葬儀に10万人が集まったと言うのはどうやって数えたかは分からないが、これは相当大きい。かなりの衝撃だったことになる。実際に行かなくても心はそっちに行っている人もかなりいるだろうから。よっぽど衝撃だったのだ。 BBCによると、トルコの新聞は各紙この殺害を非難したという。 ここ2週間ほど、コンピューターに向かうのがつらかったので、横になりながらトルコの作家オルハン・パムクの「雪」と「私の名は紅(あか)」(和訳)を読んでいた。トルコのことが知りたくて読んでいたのだが、今回の銃殺はまるで「雪」の一場面のようだった。クーデターが起きて、いろいろな人が銃殺され、民族主義者やイスラム教原理主義者がそれぞれ対立する。(小説の好きな方は、書店でめくってみてください。「私の名は・・・」の方を特におすすめしますが・・・。) ジャーナリスト殺害の容疑者はーー10代の若者らを集め民族主義組織を結成していたという。トルコ政府が否定する20世紀初頭の「アルメニア人虐殺」についての言動を繰り返していたディンク氏を敵視し、「政府が(同氏に)何もできないのなら、我々が排除する」と手下に語っていたーーという箇所が上の記事の中にあったが、こういう感情、こういう動きがトルコでは非常にリアルに存在しているのが、2冊の小説を読んだ限りでは、そして私の短い旅行から得た印象ではやはりそうなのだ、と思ったりもした。 これが何か良い動きにつながるといいのだが。 < 前のページ次のページ >
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