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小林恭子の英国メディア・ウオッチ ukmedia.exblog.jp

英国や欧州のメディア事情、政治・経済・社会の記事を書いています。新刊「なぜBBCだけが伝えられるのか」(光文社新書)、既刊「英国公文書の世界史 一次資料の宝石箱」(中公新書ラクレ)など。


by polimediauk

 10日、英スコットランドのグラスゴー高等裁判所で、一つの判決が言い渡された。被告はリー・ミルン氏(40歳)。罪名は「故殺」。日本の法律でいう「傷害致死」に近い概念で、直接手を下さなくとも、自らの行為が死を招いたと認められた場合に適用される。被害者は妻のキンバリー・ブルースさん(旧姓、享年28歳)だ。

 キンバリーさんは2023年7月27日の夜、スコットランド東部の都市ダンディーを走る幹線道路A90の高架橋から飛び降り、複数の車両に轢かれて亡くなった。自ら橋の欄干を乗り越えての死だった。

 通常であれば、こうした死は「自殺」として処理される。夫が刑事責任を問われることはない。しかしこの裁判で陪審は、キンバリーさんの死はミルン氏による長年の虐待が直接の原因であると判断した。

 スコットランドで初めて、ドメスティックバイオレンスの加害者が、被害者の自死について刑事責任を問われた画期的な事件となった。


何が起きたのか

 事件当夜、ミルン氏とキンバリーさんはダンディー市内にいた。ふたりはすでに別れており、ミルン氏にはキンバリーさんへの接近を禁じる保釈条件が付いていた。にもかかわらず、その日ふたりは行動をともにしていた。

 法廷で上映されたCCTV映像や証言が、その夜の経緯を明らかにしている。

 午後9時15分ごろ、ダンディーの幹線道路キングスウェイ沿いにあるオールド・グラミス・ロードの駐車場で、ミルン氏が運転する車が急旋回してスリップした。キンバリーさんは助手席から降りて歩き出したが、ミルン氏は車を彼女の方へ走らせ、進路をふさぐようにして停止した。

 それから約45分後、ふたりはキングスウェイ沿いのスーパーマーケット付近にいた。

 目撃者の女性は、店の外で口論するふたりを見かけ、「父娘のけんかか」と思ったという。買い物を終えて戻ると、ミルン氏がキンバリーさんを壁際に追い詰めていた。「彼女は怯えて縮こまっていました。ほとんど身動きが取れない様子でした」と女性は証言した。CCTVにも、彼女が壁の陰に身を隠す様子が記録されていた。

 その後、ふたりは再び車に乗ったが、キンバリーさんは助手席からハンドルを引っ張り、車は急旋回して停止した。キンバリーさんは車を降りて逃れようとし、ミルン氏は徒歩で追いかけた。キンバリーさんはキングスウェイ沿いの高架橋へ向かい、欄干を乗り越えた。

 ミルン氏は後に、キンバリーさんの母親のもとを訪れてこう話した。「橋まで追いかけて、手を掴もうとした。でも彼女は自分を見て首を振り、飛び降りた」。

 キンバリーさんはその場で複数の車両に轢かれ、死亡が確認された。


被害者の自死を加害者の責任にできるか

 ドメスティックバイオレンスの被害者が、追い詰められた末に自ら命を絶つことは、決して珍しいことではない。しかし、そうした死が法廷で加害者の「犯罪」として裁かれることは、世界的に見てもきわめてまれだ。

 被害者が自ら死を選んだ以上、加害者を刑事訴追することは難しい——そう考えられてきたからだ。被害者の「意思」と加害者の「行為」の間に、法的な因果関係を証明することが困難だとされてきた。

 しかし、ここ20年の間に、この司法上の「壁」を次第に突き崩す動きが続いている。

 ここでいう「壁」とは、被害者が自ら命を絶った場合、その死を加害者の犯罪として立証することの難しさ——すなわち、自死という「本人の意思」と、加害者による虐待行為との間に刑事責任を認めるだけの因果関係を証明できるのかという問題である。

 英国でこの壁を初めて崩そうとしたのは、2006年にロンドン南西部のサウスオールで起きた事件だった。夫は長年にわたり妻を殴打・虐待し、妻は最終的に首を吊って亡くなった。夫の虐待が妻の自死を招いたとして、検察は異例の故殺訴追に踏み切った。

 しかしこの画期的な試みは、控訴審で棄却された。それでもその判決が、法律解釈の扉を少しだけ開いた。

 初めて有罪判決が出たのは2017年、イングランド中部スタッフォードシャーの裁判所でのことだ。男性が元交際相手の女性を故殺したとして有罪となり、禁固10年の判決を受けた。この女性は「もう戦う力が残っていない」との遺書を残して命を絶っていた。

 しかし、昨年1月には法律の限界を示す事例がイングランドで起きた。

 ランカシャー州フリートウッド出身の美容師の女性は、2022年7月、交際相手の男性による2年間の虐待の末に命を絶った。彼女が残した遺書にはこう記されていた。「私は殺された。ゆっくりと」。この男性が「私を殺した」。生後9か月の娘を友人の家に預け、その傍らに遺書を残して鉄道線路の上で亡くなった。

 この男性は暴行および強制的支配行為については有罪となったが、故殺については無罪とされた。陪審は、加害男性の行為と女性の死の間に有意な因果関係はないという弁護側の主張を受け入れた。弁護側は、女性が精神疾患の診断歴を持ち、男性と交際を始める前にも自殺未遂があったことを強調したとされる。

 スコットランドでは、今回が初めての訴追であり、初めての有罪判決となった。

 女性の権利を擁護する活動家たちは、英国全体でも6件しかこうした訴追が行われていないことを、「衝撃的な実績」と批判している。


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 英国の司法制度

 英国はイングランド・ウェールズ、スコットランド、北アイルランドという三つの独立した司法圏から成り、それぞれ異なる法律と裁判制度を持つ。それぞれの司法圏で起きた判例は、他の司法圏に自動的に適用されるわけではない。

 イングランドとウェールズは地理的には別々だが、同一の法律と裁判制度を共有しているため、一つの法域として扱われる。

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見えにくい暴力の実態

 ドメスティックバイオレンスの特徴の一つは、その実態が外から見えにくいことだ。暴力は密室で行われ、被害者は恐怖や経済的依存、あるいは「愛情」ゆえに声を上げられない。加害者はしばしば、周囲に対しては「普通の人間」として振る舞う。

 今回のキンバリーさんとミルン氏のケースも、外からは見えにくい関係だった。

 ふたりは2021年末にオンラインで出会い、交際を始めた。キンバリーさんの母リンさんは法廷で、娘がミルン氏と出会った当時「花開こうとしていた」と証言した。娘にとってミルン氏は「白馬の王子様」のような存在だったという。

 ふたりは2022年9月に結婚した。しかし検察によれば、暴力は関係の早い段階から始まっていた。

 最初に確認された暴行は2022年初頭のことだ。ミルン氏はキンバリーさんの携帯電話を無断で確認し、交際前の男性とのメッセージを見つけると激高した。キンバリーさんは後に警察にこう話している。

 「夫は私をひどい言葉で呼び、両手で首を絞めてキッチンの壁に押しつけました。しばらくして右前腕に持ち替え、また首を締めつけました。数秒後に手を離し、泣きながら謝り始めました」。

 暴行のあとに謝罪する——これはドメスティックバイオレンスに特有のサイクルだ。加害者は暴力をふるい、後悔を演じ、被害者に「許し」を引き出す。その繰り返しの中で、被害者はいつしか逃げ出すことができなくなっていく。

 ミルン氏も暴行のたびに謝罪した。数か月後に髪をつかんで地面に叩きつけたときも、「自分はそういう人間じゃない」と言い訳をした。

 2022年末、キンバリーさんが夫の浮気を問い詰めると、ミルン氏は頭を殴打し、キンバリーさんは意識を失って倒れた。別の機会には部屋に立てこもらなければならない状況に追い込まれた。

 「夫は何度も私の肋骨を殴り、痛いからやめてと懇願しましたが、彼は聞こうとしませんでした。怖くてその夜は外に出られず、あまりの恐怖に枕の下にナイフを隠して眠りました」。

 翌日、地元の病院で治療を受けながら、キンバリーさんはミルン氏にメッセージを送っている。「昨夜あなたは私を怒鳴りつけ、意識を失うほど首を絞めた。本当に何も感じないの?」

 暴力は身体的なものにとどまらなかった。ミルン氏はキンバリーさんを監視し、行動を制限し、精神的に支配した。キンバリーさんには精神的な疾患の診断歴と入院歴があったが、ミルン氏はその脆弱性を知った上で、彼女を支配し続けた。


判決

 グラスゴーの高等裁判所でドラモンド判事は被告にこう告げた。

 「あなたはキンバリーさんと別れていた。その日、彼女が苦しんでいることも知っていた。それでも彼女に怒鳴りつけ、物を投げつけた。彼女が極めて脆弱な状態にあるときに、さらなる虐待を加えた。あなたの行為の結果、彼女は絶望の淵に追い詰められ、橋の欄干をよじ登り、命を落とした。あなたには、虐待行為そのものへの責任だけでなく、彼女に死をもたらした責任がある」。

 禁固8年で、釈放後は3年間、保護観察付きで社会復帰することになる。

 裁判終了後、被告が2024年に幼い少年2人への性的暴行でも有罪判決を受け、性犯罪者登録簿に登録されていたことが明らかになった。

 ドメスティックバイオレンスの被害者が自ら命を絶つとき、その死は「自殺」として記録される。加害者は、最大の証人を永遠に失う。密室の暴力は、被害者の死によって完全に隠蔽される——これまで、そういう構造があった。

 今回の判決は、被害者が自ら死を選んだとしても、その選択が加害者の行為によって引き起こされたものであるならば、加害者は刑事責任を免れないことを示した。

 英国全体でこうした訴追はわずか6件にとどまる。しかし今回のスコットランド初の有罪判決は、長年動かなかった法律の扉を、また一つ開いたことになる


# by polimediauk | 2026-04-13 16:31 | 英国事情