
「マノスフィア(Manosphere)」。
あまり聞きなれない言葉だが、「男性(man)」と「領域、世界(sphere)」を結びつけた新語で、男性の視点から社会やジェンダー問題、恋愛、結婚、女性との関係などをとりあげるオンライン・コミュニティの総称だという。
一部のマノスフィアでは極端な女性蔑視、性差別がまん延し、「女性嫌い(ミソジニー)」や陰謀論的な発想もある。
この言葉を聞いたことがない人もその存在を知るようになった1つのきっかけは、今年ネットフリックスで配信された英国のドラマ「アドレセンス」ではないだろうか。13歳の少年が同年代の少女を殺害する話を丹念に追い、あっという間に人気となった。
4月に発表された英国の教員労働組合(NASUWT)の調査によると、ソーシャルメディアで悪影響を受けた少年たちによる女性職員に対する暴力的な言動は珍しくないという。英国でミソジニストを自称するインフルエンサー、アンドリュー・テイトの動画を見た少年たちが「女性職員を怒鳴りつけ、廊下をふさいで通られないようにした」(ある教師)ことがあったという。
マノスフィアのはじまりとその発展
伝統的な男性らしさを主張し、反フェミニスト的発想を持つブログ、オンライン・フォーラム、ポッドキャスト、ソーシャルメディアの世界を「マノスフィア」と呼ぶようになったのは、2000年代末ごろのようだ。
そのルーツは1970年代の「男性の権利運動(Men's Rights Movement=MRM)」と言われている。
これはフェミニズムの広がりに呼応する形で生まれ、男性の視点から社会制度やジェンダー問題に異議を唱えた。代表的な人物は米活動家ワレン・ファレル。
2000年代に入ると、「ピックアップ・アーティスト」(Pick-Up Artist=PUA)が登場する。インターネットを通じて広まった女性を「口説く技術(ゲーム)」を体系化し、実践・共有する男性たちである。その一人が米著述家ニール・ストラウスである。その著書「The Game」で、男性たちとの共同生活を通してナンパ技術を学ぶ様子を描いた。
こうした人物を「アーティスト」と呼ぶとは、なんとすさまじい言いかえだろうか。
その後、社会の中でますますネット利用が進む中、マノスフィアは様々な種類に分派していった。
現在、大きな支持を得ているのが米ポッドキャスターのジョー・ローガン。主として男性のオーディエンス向けにマーシャルアーツ、ドラッグ、ニュース、陰謀論などを取り上げている。保守派論人としてはカナダ人の心理学者でユーチューバーのジョーダン・ピーターソン。
英米の二重国籍を持つインフルエンサー、テイト、米インターネットストリーマーのアディン・ロス、米作家マイロン・ゲインズらは自己啓発、フィットネス、お金の儲け方、デートの仕方などを指南する。
極端なグループとしては、MGTOW(ミグタウ)がある。MGTOWとは、「Men Going Their Own Way(我が道を行く男性たち)」の略である。男性が社会から孤立することを支持し、男性に課せられた社会的役割・義務を拒否。個人の自由と人生を決定する基本的権利を重要視する。
自らを「インセル(Incel=Involuntary Celibate=望まない禁欲者、非自発的な独身者)」と称する男性たちもいる。
米ワシントン州認定メンタルヘルスカウンセラー、長野弘子氏によると:
「インセル」とは、「恋愛や性的関係を望んでいるにもかかわらず、異性と結ばれる機会を得られない状況にある者を指す。日本語における「非モテ」と似たニュアンスを持つが、インセルはより強いコンプレックスを抱え、女性に対して極端な敵意をむき出しにするケースが多い。(ニューズウィーク日本版コラム、4月21日付)
そのイデオロギー、専門用語
米英での事例を挙げてきたが、マノスフィアの男性たちの考え方の根底にあるのは、西欧社会ではフェミニズムが行き過ぎており、その一方で男性はまっとうな暮らしをすることができず、差別されているという思いだ。
専門用語の1つが、「レッドピル」。これは映画「マトリックス」(1999年)が起源で、「青い薬(ブルーピル)」を飲むと、幻想の中で幸せに生きることができるが、「赤い薬(レッドピル)」を飲むと、不都合な真実に目覚める。
そこで、マノスフィアでは現代のリベラル社会やフェミニズムが語る「男女平等」や「恋愛観」は幻想であり、「真実の性差(性淘汰、恋愛格差など)」を理解することが「レッドピルを飲む」という比喩で表現される。例えば、「恋愛市場では容姿が良い男性や金持ちだけがモテる」などを真実として主張する。
また、「80:20の法則」もある。本来は全体の80%の成果は20%の原因から生まれるという統計的な法則だが、レッドピルの文脈では、「上位20%の魅力的な男性が、全体の80%の女性からモテる」、つまり、「残り80%の男性は、恋愛市場で相手にされない」という解釈になる。
女性蔑視的表現としては「femoid」(フェモイド)やその略称「foid」(フォイド)がある。これは「female humanoid(女性型人造物)」を短くしたもので、女性を「感情のない機械」や「プログラムされた存在」のように見なす侮蔑語である。
主にインセルなどの過激な男性中心のネットコミュニティで使われるスラングで、女性一般を否定的に語るときに使われる。女性を人間扱いせず「機械のような存在」と表現することで、自己防衛や怒りの対象としているともいえよう。
インセルたちが「セックスをしすぎる女性」の意味で使うのが「ロースティーズ(Roasties)」。
「Awalt(all women are like that)」(女性はみんなそんなもの)はすべての女性を「性行為をたくさんする、玉の輿目当ての人間」と定義する考え方だ。
また、「Cavemanning(ケイブマニング)」とは「洞窟男(caveman)みたいにふるまうこと」で、原始的・強引・支配的な男性的行動様式を指す。
石器時代の男性像(筋肉質・寡黙・支配的・力で物事を解決する)をモデルにしたような行動を、現代のデートや恋愛関係で意図的に真似ることを意味する。
女性に対してちゅうちょなくリードする、口よりも身体的行動で引っ張る(例:手を引っ張る、腰に手を回す)、優しさや共感よりも自信・支配力・肉体性で魅了するスタイルを指す。
その影響力は
英国でマノスフィアのインフルエンサーとして最もよく知られているのが、Xで1000万人余のフォロワーを持つテイトだ。
元プロボクサーのテイトは、弟のトリスタンとともに男らしさの復権とお金儲けのノウハウを教えるサイトを通じて富を築いた。極端なミソジニストで、女性は男性の所有物と言ったこともある。2023年、ルーマニア滞在中にレイプ、人身取引などの容疑で逮捕されたが、人気が衰えていないようだ。
慈善組織「ホープ・ノット・ヘイト」が行った調査(2023年)によると、英国の16-17歳の男子の79%がテイトの発信コンテンツにアクセスした経験があった。同年齢層の男女に聞いたところ、テイトについて好意的な見方をしていたのは女性では1%だけだったが、男子だけに限ると52%に。
好意的な見方をする理由を聞くと、テイトは「男性を本当の男性にしたがっているから」「よいアドバイスくれるから」だった。
テイトはオーディエンスに「誰もお前の気持ちを分かってくれる人はいない」と「真実」を語り、低賃金の仕事にはまる「奴隷になるな」と呼びかける。ではいったいどうやたら、テイト兄弟のようなぜいたくな暮らしができるかを指南するのである。
過去の事件は?
2014年5月、米カリフォルニア州 サンタバーバラで22歳のエリオット・ロジャーが、自身の「女性に相手にされないこと」などへの怒りを動機として、無差別に殺傷行為に及んだ。
事件の直前、ロジャーはYouTubeに「報復」と題した動画 を投稿し、「Elliot Rodger’s Manifesto(犯行声明文)」と呼ばれる141ページに及ぶ文書をメールで知人らに送信した。
動画や犯行声明文の中で、ロジャーは「22年間、女性から一度も愛されたことがない」「性的関係がないまま成人したことへの屈辱」「女性に対して復讐したい」と語っていた。6人を殺害した後、自殺により死亡。インセル文化の象徴的事件だった。
2018年4月には、カナダ・トロントで 車両突入による無差別大量殺傷事件が発生した。加害者アレク・ミナシアン(当時25歳)は、歩道に車で突っ込み、10人(ほとんどが女性)を殺害し、16人に重軽傷を負わせた。
ミナシアンの供述によると、恋愛や性行為ができないことに対する怒りがあったという。事件直前にFacebookで「インセルの反乱はすでに始まっている!」と投稿した。2014年のロジャー事件に影響を受けたと供述している。数年後、ミナシアンは有罪となり、終身刑が科せられた。
筆者はロジャーやミナシアンの犯行を弁護する気は毛頭ないが、ドラマ「アドレセンス」の主人公も含め、なんと寂しい、怒りに満ちた人生かと思わざるを得ない。
みなさんはどう思われるだろうか。
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(アンドリュー・テイトについては、筆者のコラムでも書いています。ご参考まで。)