英国の貴族の物語「ダウントン・アビー」の最終作となる映画「ダウントン・アビー/グランドフィナーレ」が公開中だ。
舞台はイングランド北部のヨークシャー。物語は1912年に始まり、最終作では1930年までの時代が描かれる。貴族一家とその世話をする使用人たちのドラマが交互に織り込まれる。
ドラマの時代背景を探る試みの第2回目として、貴族たちの日常生活に注目した。華やかなドレスや舞踏会、広大な邸宅の光景の裏には、厳格なルールと莫大な経済的負担が隠されていた。
ドラマをご覧になった方なら、こうした日常の華やかさと厳しさの両面に、あらためて頷けることだろう。
「カントリーハウス」は貴族の真の家
大邸宅ダウントン・アビーは、ヨークシャーにある「カントリー・ハウス」として設定されている。カントリーハウスとは、16世紀以降、農村・田園地帯に貴族・地主層が建設した大邸宅のことだ。
英国の貴族にとって、カントリー・ハウスこそが自分たちの権力と地位を示す場所だった。ロンドンに所有した「タウン・ハウス」は社交シーズン用の「別宅」に過ぎず、真の家は地方の大邸宅だった。今回の映画の中でもグランサム一家がタウン・ハウスに滞在する様子が映し出される。
貴族の富と権力は、何世代にもわたって所有してきた広大な土地から生まれた。その土地を管理し、小作人や使用人を統治する場所が、カントリー・ハウスという位置づけである。
貴族は自分の領地の「パトロン」として、教会の維持、貧民救済、地域の雇用創出などの責任を負っていた。これが自分たちの正統性の根拠でもあった。
貴族のライフスタイルには、狩猟(キツネ狩り、鳥撃ち)、乗馬、釣りなど、広大な土地が必要な娯楽が含まれていた。これらは「紳士のたしなみ」とされ、都市ではできないものだった。「ダウントン・アビー」には長女メアリーが乗馬姿で狩猟に参加する様子が何度か登場するので、覚えていらっしゃる方も多いだろう。
「カントリー」というと、日本では「田舎」と訳されることが多いが、英国の「カントリー」には、「自然豊かで伝統的な、真正な英国らしさの源泉」という肯定的なイメージがある。英国の詩や文学では、田園地方こそが美徳と伝統の宝庫とされ、何百年も同じ土地を所有していることは、成り上がりではない古い家柄の証だった。
ロンドンなどの都市は汚染され、道徳的に堕落した場所と見なされ、地方の方が「健全」というイメージがあった。
ドラマの舞台となるヨークシャーは、イングランド最大の州(日本の県に相当)だ。広大な田園地帯と荒野が広がり、大規模な邸宅を構えるのに理想的な地域だった。
同時に、ヨークシャーには繊維工業や炭鉱もあり、伝統的な土地所有と近代産業が並存していた。「ダウントン・アビー」の設定でも、グランサム伯爵夫人のコーラ(アメリカ人)の持参金や、鉄道との関わりなど、近代資本主義との接点が描かれている。
また、ヨークシャーはロンドンから列車で数時間で、その距離は十分に地方的でありながら、必要に応じて都会に行ける絶妙な位置にあった。
移動する生活 ヨークシャーからロンドンへ
1912年当時、貴族の一家がヨークシャーからロンドンへ移動するとき、主流は鉄道だった。ヨークシャー(例えばヨークやリーズ)からロンドンのキングス・クロス駅(主要な中央駅の一つ)までは、急行列車で約4〜5時間程度。当時の蒸気機関車は現代ほど速くなかったが、最も効率的な移動手段だった。
利用するのはファースト・クラスで、豪華な座席、食堂車でのフルコース、個室など、快適な旅ができた。貴族に同行する使用人(侍女、従僕など)は、通常セカンド・クラス(簡素な座席)かサード・クラス(最も質素な座席)に乗った。荷物を担当する使用人は、貨物車両に近い場所で荷物と一緒に移動することもあったという。
自動車は長距離移動にはまだ実用的ではなく、当時の道路の多くは未舗装だった。もし自動車でヨークシャーからロンドンまで行くとすれば、10時間以上かかった可能性もある。時間がかかったばかりではなく、故障のリスクも高く、途中で修理が必要になることもあった。
貴族が自動車を使うのは、駅への送迎、近隣への訪問など主に地元での短距離移動だった。「ダウントン・アビー」でも、駅と邸宅の往復に自動車が使われている。
ロンドンでの滞在
貴族がロンドンに行く際は、宿泊を伴った。多くの上流貴族は、ロンドンに別邸としてタウン・ハウスを所有し、場所はメイフェア、ベルグレイヴィア、ナイツブリッジなど、ロンドン西部の高級住宅街に集中していた。
タウン・ハウスの規模は3〜5階建てが多く、使用人部屋、厨房、食堂、応接室、寝室などを備えていた。地方の邸宅ほど大規模ではないが、それでも立派な建物である。
ロンドンの邸宅には、少数の使用人(執事、家政婦、料理人、メイドなど)が一年中常駐していて、主人が来る準備をしていた。
ロンドンに自分の邸宅を持たない貴族や、邸宅が使えない場合は、高級ホテルに宿泊した。
「シーズン」という生活様式
ドラマの中で繰り返し描かれているように、1910年代から1920年代の英国上流階級の生活は、「シーズン」と呼ばれる厳格な社交暦によって規定されていた。一年は明確に区切られ、貴族たちは季節ごとに居住地を移動し、それぞれの時期に応じた社交行事に参加した。
ロンドン・シーズン 華やかな社交の季節
最も重要なのが、4月から7月頃までの「ロンドン・シーズン」だった。この時期は議会の会期と重なっており、貴族たちは地方のカントリー・ハウスからロンドンの邸宅に移り住んだ。高級住宅街の邸宅は、何ヶ月も空いていた後、突如として活気づいた。
シーズン中、上流社会は連日連夜の社交行事に明け暮れた。舞踏会(ボール)、晩餐会、オペラや演劇の鑑賞、園遊会(ガーデン・パーティー)。そして、ロイヤル・アスコット競馬、ダービー、ヘンリー・レガッタ(ボートレース)、ウィンブルドン・テニス、チェルシー・フラワー・ショーといった伝統的な行事が次々と開催された。
貴族たちは、昼間は競馬場や社交クラブで、夜は舞踏会や晩餐会で顔を合わせ、政治、ゴシップ、そして結婚の話題に花を咲かせていた。
シーズンの真の目的 結婚市場
しかし、この華やかな社交の背後には、極めて実利的な目的があった。シーズンは単なる娯楽の場ではなく、未婚の若い男女が適切な結婚相手を見つける「市場」だったのである。
上流階級にとって、結婚は個人の恋愛感情だけで決められるものではなかった。家と家の結びつき、土地や財産の継承、血統の維持などの要素を慎重に考慮し、「釣り合いの取れた」相手を選ぶ必要があった。同じ階級、できれば同等かそれ以上の財産を持つ家との結婚が理想とされた。
「ダウントン・アビー」の長女メアリーが、シーズン中に何人もの求婚者と出会い、家族がそれぞれの候補者の家柄や財産について論じる場面は、まさにこの結婚市場の現実を描いている。
デビュー 社交界への入場券
結婚市場に初めて顔を出す未婚女性たちは、社交界への「デビュー」として特別な儀式に臨む。この儀式に参加する女性たちを、正式にはデビュタント(debutante)と呼ぶ。
17歳から18歳になった上流階級の未婚女性は、シーズンの開始前または開始直後に、バッキンガム宮殿で女王(または国王)に拝謁し、正式に社交界にお披露目された。
デビューの日、若い女性は母親または既婚の親族女性(通常は既にデビューを経験した者)に付き添われ、宮殿に向かった
正装は厳格に規定され、床まで届く純白のドレス、頭には三枚の白い鴕鳥の羽飾り、長い白い手袋、そして真珠のネックレス。ヴェールをつけることもあった。この白い装いは、女性の純潔と未婚であることを象徴していた。
宮殿の謁見の間で、女王の前に進み出たデビュタントは、深々と膝を曲げてお辞儀をした。このお辞儀は、単に膝を曲げるだけではなく、背筋を伸ばしたまま、ほぼ床につくまで沈み込む優雅で難易度の高い行為だった。女性たちは何週間も前から、専門の教師についてお辞儀の練習を重ねた。一瞬のバランスの崩れや、ドレスの裾を踏んで転倒することは、一生の恥とされた。
女王が軽く会釈で応えると、女性たちは後ずさりしながら退出した。この瞬間から、彼女は正式に「社交界にデビューした」と認められ、舞踏会などの社交行事に参加する資格を得た。
シーズン中の試練
デビューを終えた彼女たちには、試練の日々が待っていた。シーズン中、彼女たちは何十もの舞踏会に出席し、適切な結婚相手、つまり、同じ階級で、経済的に安定し、家柄の良い若い男性、を見つけることが期待された。
母親や叔母たちは、娘たちを有望な若い男性に引き合わせ、ダンスの相手を見つけ、晩餐会では適切な席順を確保するために奔走した。若い女性たち自身も、美しく着飾り、会話の技術を磨き、ピアノや歌といった「淑女のたしなみ」を披露して、求婚者を惹きつけなければならなかった。
経済的負担
シーズンに参加することは、家族にとっても莫大な経済的負担だった。ロンドンの邸宅の維持費、毎晩異なるドレス(同じドレスを二度着ることは恥とされた)、宝石、舞踏会を自宅で開催する費用、使用人への給料。これらすべてが重なり、現代の価値で言えば数千万円から億単位の出費になることもあった。
「ダウントン・アビー」では、グランサム伯爵が娘たちのシーズンの費用を心配する場面がある。1920年代には、多くの貴族家が経済的に困窮し、華やかなシーズンを維持することが困難になっていった。それでも、「適切な結婚」のためには、この投資を惜しむわけにはいかなかったのである。
伝統の終焉と継承
この伝統は、1958年にエリザベス2世によって正式に廃止された。女王自身が、何百人もの若い女性が列をなして宮殿で形式的なお辞儀をするだけの儀式を「時代遅れで無意味」と感じたと言われている。英国では、宮廷でのデビューは終わり、民間の舞踏会も一部を除いてほとんど姿を消した。
ウィーンで生き続ける伝統
しかし、興味深いことに、似たような伝統は欧州の他の国々、特にウィーンでは今も盛んに続いている。2022年、筆者はパートナーとともにウィーン市庁舎が開催した舞踏会に参加し、まさに英国のデビュタントを思わせる儀式を目撃した。
正装で会場に入る階段を上っていくと、ところどころに撮影担当者がいた。筆者とパートナーは階段を上る途中で何度か立ち止まり、カメラの前でポーズをとるよう要請された。

究極の階級制
舞踏会の会場では中央に踊るためのスペースがあけられており、その周囲に複数のテーブル席が設置されていた。テーブル席の椅子に座ろうとすると、「ここに座ってはいけない」といわれた。テーブル席をすでに予約した人のためのものであることが分かった。
しばらく待っていると、白いドレスを着た若い女性たちとタキシードを着た男性たちが、まず単独でフロアに登場した。

オーケストラが伝統的なワルツを奏で始めると、男女のカップルが練習を重ねた優雅な振付で踊り始めた。隊列を組み、完璧なタイミングで回転し、フロア全体を埋め尽くした。
筆者も含め、周囲の人々に許されているのは、ただその様子を見守ることだけだった。生まれついた特権階級の者だけが、先に踊ることを許される。この冷酷な現実に、筆者は欧州の階級社会の極致が目の前にあることを痛感した。
開幕のダンスが終わると、「Alles Walzer!(皆さん、ワルツを!)」という掛け声が響き、ようやく一般の参加者もダンスフロアに加わることが許された。この瞬間、会場は一気に活気づき、何百人もの人々が踊り始めた。
開幕の儀式は、かつての英国のデビューと本質的に同じものだった。白いドレスの若い女性たちは、この開幕のダンスを通じて正式に社交界にお披露目され、「デビュー」を果たしたのである。ただし、ウィーンの伝統は英国よりも開放的で、オペラ座舞踏会のような格式高いものから、学生や職業団体が主催する手頃なものまで、年間450もの舞踏会が開催され、さまざまな階層が参加できる。
それでも、開幕のダンスに選ばれることは大きな名誉とされ、若い人々は何ヶ月も前からダンス教室に通い、完璧な演技を目指して練習を重ねるという。
英国では失われた伝統が、ウィーンでは文化遺産として大切に守られていた。英国は民主化の中で階級的な儀式を廃止したが、ウィーンは伝統を民主化し、幅広い人々が参加できる文化行事として生き残らせた。
華やかさの裏にあったもの
1910年代から1930年代の「ダウントン・アビー」の時代、シーズンとデビューは、上流階級の未婚女性にとって人生を左右する試練だった。華やかなドレスと舞踏会の裏には、結婚という重圧、家族の期待、そして階級制度の厳格なルールが存在していた。
このような贅沢で華やかな生活を維持するには、莫大な財力が必要だった。しかし、この世界は永遠には続かなかった。
次回は、なぜこの華やかな世界が崩壊していったのか、その政治的・経済的背景を探ってみたい。税制改革、世界大戦、経済恐慌など、貴族社会を襲った激動の時代を追う。




