小林恭子の英国メディア・ウオッチ ukmedia.exblog.jp

英国や欧州のメディア事情、政治・経済・社会の記事を書いています。新刊「英国公文書の世界史 一次資料の宝石箱」(中公新書ラクレ)には面白エピソードが一杯です。本のフェイスブック・ページは:https://www.facebook.com/eikokukobunsho/ 


by polimediauk

イングランド銀行の歩み

 週末、鉄鋼大手コーラスが英国で3000人規模の人員を削減するという報道が出た。27日には、自動車業界への政府の高額支援策も発表された。毎日悪いニュースばかり出るので、伸びていた労働党の支持率が止まってしまったと言う。

 事態は急展開しているが、「英国ニュース・ダイジェスト」1月22日号に、イングランド銀行(英中央銀行)の話を書いた。8日、政策金利を0・5%引き下げ、年1・5%とすると発表し、1694年の創立以来最低の金利となったことに合わせて書いたものだ。以下はそれに若干補足したものである。内容は「イングランド銀行とは」という概要で、資料は主にイングランド銀行のホームページを参考にした。Bank of England Museum, ウェブサイト
http://www.bankofengland.co.uk/about/index.htm

創立から315年
 英中央銀行の歩み


―オランダがモデル

 イングランド銀行(英中央銀行)が創立されたのは17世紀末の「大航海時代」にあたる。時のイングランド王国は世界をまたにかけた貿易活動の拡大のための資金作りや欧州内の覇権争いに勝つための戦費を捻出してくれる銀行が必要になっていた。モデルになったのは1609年に創立されたアムステルダム銀行で、この銀行はアムステルダム市、政府、オランダ東インド会社に資金を貸し付け、硬貨の製造を行い、後に民間企業への貸付も行なっていた。オランダの繁栄の陰には中央銀行の存在があったとされる。

 1694年、スコットランド人ウィリアム・パターソンが創業したイングランド銀行が営業を開始した。国民から集めた120万ポンドが運転資金となった。王国の財政は悪化しており、イングランド銀行は年8%の利率で貸し出しをし、管理費として4000ポンド請求したという。
以降、現在までの300年余の歴史の中で、イングランド銀行は政府の財政政策を支援する銀行として、金融体制の安定を維持するための「銀行の銀行」として、また紙幣の供給を調節しながら経済の安定維持に貢献する重要な金融機関として機能してきた。

―高い評価を受けたイングランド銀行の独立

 1997年、労働党政権が成立すると、ブラウン財務大臣(当時)が金利を決定するための運営責任をイングランド銀行に移譲すると発表した。伝統的に政策金利などの決定は財務省が行っていた。翌年から施行されたイングランド銀行法によって、銀行の金融政策委員会が、政府が設定するインフレ率(インフレ目標、関連キーワード参考)を達成できるように金利を決定することになった。同銀行法により、これまでイングランド銀行が持っていた銀行業務監督権は新たに設立された金融サービス庁(FSA)に移管された。財務省、イングランド銀行、FSAの3機関が、国の金融・経済体制を支える体制になった。

 1975年には27%にまで上昇したインフレ率は2003年以降、目標値となった2%前後で推移した。「ニュー・レーバー」政権下で好景気が長期続いたこともあって、イングランド銀行の独立が効を奏したと高く評価された。ブラウン財務相(当時)の株は大いに上がったのだった。

―ノーザン・ロックの教訓か?

 しかし、2007年秋、住宅金融大手ノーザン・ロックが資金繰り難に陥り、取り付け騒ぎが起きると、イングランド銀行や財務省、FSAなど金融当局に対する国民の批判が高まった。信用不安を解消するための当局の処理は後手に回り、ノーザン・ロックは国有化されてしまった。「そもそも、銀行監督業務をFSAに移管してしまったことが問題だ」とする声が上がり、キング総裁に対しても「行動が遅い」、「市場の動きを十分に理解していない、学者エコノミスト」(市場関係者)と言われた。

 世界的金融危機の影響が昨年秋から本格化すると、イングランド銀行は大胆な金利引下げを迅速に行なうようになった。10月時点では5%だった金利は今年1月、「銀行史上初めての」1・5%にまで引き下げられた。今回の低金利が消費を刺激し、好景気に向う契機となるかどうかは不明だ。今年のGDPは昨年比で2.5%減(「キャピタル・エコノミックス」社調べ)と予測されている。イングランド銀行の動きに大きな期待がかかる。

―主な業務

―通貨の安定
―金融体制の安定
―紙幣発行
―政策金利の設定
―外国為替、ゴールドの備蓄管理等

―豆知識

*ニックネームは「スレドニードル通りの老婦人」:1797年に出版された政治風刺画の中で、イングランド銀行が時のピット首相が気を引こうとする老婦人として描かれたことに由来する。ゴールドが入った整理ダンスの上に座った老婦人は1ポンド札を貼り付けたドレスを着ていた。スレドニードル通りはイングランド銀行の所在地。

*「糸と針」の不思議:通りの名前がスレドニードルThreadneedle(糸・針)と呼ばれるようになった理由には2説ある。針を作る職人たちがここで商売をしていたという説と子供たちの遊びの呼称だったという説。後者は、子供2人が手をつないでアーチを作り、ほかの子供たちがアーチの中を走って通り抜け、これが針に糸を通す仕草に似ている、というもの。

*王室の肖像は昔はなかった:エリザベス女王の肖像が描かれたお札は私たちにとっておなじみだが、国王あるいは女王の肖像が紙幣に印刷されるようになったのは1960年代からだ。

*軍隊が守っていた:1780年から1973年まで、銀行の建物は毎晩、ピケット隊と呼ばれる銀行護衛隊が警備していた。

―キング銀行総裁のプロフィール

 マービン・キング(Mervyn King)氏は、1948年、イングランド南部バッキンガムシャーで生まれる。父親は鉄道会社で事務員として働いていた。子供時代から頭脳明晰で知られ、ケンブリッジ大学を1969年、優秀な成績で卒業。ケンブリッジ大、ハーバード大、ロンドン・スクール・オブ・エコノミックス(LSE)などで教鞭をとる。LSE時代に書いた税金に関する論文が政府の目に留まったと言われ、1991年、43歳でイングランド銀行にチーフ・エコノミストとして就職。1998年に副総裁、2003年6月から現職。任期(最初の5年間の任務は昨年終了し、6月から二期目に入っている)は2013年まで。金利決定では保守派とされ、金融引き締め姿勢を維持してきたが、昨年来の金融危機で金利引き下げをせざるを得なくなった。サッカー・クラブのアストン・ビラの熱心なファン。2007年、20年来の知人のフィンランド出身の女性と初婚。

―イングランド銀行の歴史

1694年:ウィリアム3世とメアリー2世の勅令により、イングランド王国政府の銀行として設立される。
1725年:手書きだった紙幣の一部が印刷されるようになる。
1734年:現在の敷地に移動。
1793年:対仏戦争で財政赤字が膨らむ。
1797年:戦費がかさみ、金(ゴールド)の備蓄が激減したため、政府はイングランド銀行に対し、金での支払いを1821年まで禁じた。
19世紀:大英帝国の拡大に伴い、「世界の銀行」として国際投資で利子を稼ぐ。
1844年:金の備蓄に裏付けられた紙幣の発行をイングランド銀行の占有権とする。
1855年:紙幣が完全印刷化。
1870年:金利政策決定に責任を持つようになる。
1914年―18年:第1次世界大戦中、政府の借り入れ管理を支援。
1927年頃まで:紙幣は「ホワイト・ノーツ」と呼ばれ、表は黒字印刷、裏は空白だった。
1930年代頃まで:一部民間銀行が紙幣発行を続けた。
1931年:英政府、金本位制度から離脱。
1931年:ゴールドと外国為替の備蓄が財務省に移管される。
1946年:国有化される。
1997年:インフレ目標達成のため、政策金利を決定する権利を移譲される。
1998年:イングランド銀行法により、経営陣が総裁1人、副総裁2人、ノン・エグゼキュティブ・ディレクター16人の陣容となる。

―関連キーワード

INFLATION TARGETTING:インフレ・ターゲット。中央銀行が、金利の調整などを通してインフレ率を一定の目標の数値内に収めようとする金融政策を指す。政府が設定した現在のインフレ目標は2%。インフレ率は消費者物価指数(CPI)を見る。目標となるインフレ率を上下1%越えると、イングランド銀行総裁は財務大臣宛てに申し開きの公開書簡を書く。2007年4月16日、キング総裁は当時のブラウン財務相宛てに公開書簡を初めて書いた。
by polimediauk | 2009-01-28 03:07 | 英国事情