小林恭子の英国メディア・ウオッチ ukmedia.exblog.jp

英国や欧州のメディア事情、政治・経済・社会の記事を書いています。新刊「なぜBBCだけが伝えられるのか」(光文社新書)、既刊「英国公文書の世界史 一次資料の宝石箱」(中公新書ラクレ)など。


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「イブニング・スタンダード」の買収劇

 とうとう大雪となった。今週はずっと雪になりそうだ。ロンドン市内でもバスが全部止まってしまった(後で一部再開)。

 英国経済の今後を見る上で、邦字紙「英国ニュース・ダイジェスト」のミスター・シティーの経済コラムが欠かせない。いくつか前のコラムに、景気が悪くなると、外国人労働者に怒りの矛先を向けるようになるという予測が出ていた。昨今の製油所でのストライキを思い浮かべると、本当にそのように事態が動いている。最新のコラムでは「リスクをとるのは誰か?」がテーマである。

http://www.news-digest.co.uk/news/content/view/4567/98/

 先月、旧ソ連国家保安委員会(KGB)の元スパイだった人物アレクサンドル・レベジェフ氏が、夕刊紙「イブニング・スタンダード」紙の株75.1%をわずか1ポンド(約120円、ここ数日のレート)で購入すると報じられた。国外の出身者が英国の新聞を所有するのは珍しくはないが、ロシア、しかも元スパイの経歴を持つ人物となると前代未聞だ。182年の歴史を持つ新聞が廉価で買われてしまった理由や資産家の個人が新聞の顔となるパターンを持つ英新聞界に注目した記事を「英国ニュース・ダイジェスト」最新号(電子版は3日発刊)に書いた。以下はそれに若干補足したものである。

元KGBが夕刊紙を所有
「イブニング・スタンダード」の敗因


―アレクサンドル・レベジェフ氏とは

 1959年生まれの49歳。ロシアの大手銀行ナショナル・リザーブを傘下に置くナショナル・リザーブ・コーポレーションの会長。国営航空会社アエロフロートの株30%も保持。ロシアの国会議員、旧ソ連国家保安委員会(KGB)の元スパイ。米フォーブス誌の世界の長者リストに入っており、推定資産は金融危機以前で35万ドル(約3112億円)。モスクワの知識層家庭で育つ。高等教育機関で経済学を勉強し、1980年代、KGBに勤務。1998年、英国で情報収集活動に従事。ソ連崩壊後は銀行業で財を成す。スニーカーやヨット遊びを好む。友人は米俳優ケビン・スペーシー、ジョン・マルコビッチで、ゴルバチョフ元ソ連大統領とも親しい。調査報道で知られる新聞「ノボヤ・ガゼッタ」の株を49%保持。

―衝撃を呼んだ安価での買収劇
  
 ロンドン市内を歩くとあちこちで見かけるのが、「イブニング・スタンダード」紙の販売スタンドだ。駅構内に設けられたスタンドも多く、観光あるいは通勤でロンドン内を動く人にとっておなじみの光景だ。

 182年の歴史を持つスタンダード紙だが、近年は他の英国の新聞同様、読者の新聞離れや広告収入の減少に悩んでいた。先月、ついに1ポンド(約120円)という廉価で、ロシアの富豪で旧ソ連国家保安委員会(KGB)の元スパイ、アレクサンドル・レベジェフ氏に買収されることになった。無料同然の値段で、しかも「元スパイ」に買収されるとはー。右派大衆紙デーリー・メールの編集長で、スタンダード紙の上級編集長も兼ねるポール・デーカー氏はスタッフに対して「人生で最も悲しい日だ」と漏らすほどの衝撃だった。

―無料紙の洪水が打撃に

 イブニング・スタンダード凋落の一因は、無料紙の台頭にある。ネットが普及し、私たちはニュースをタダで消費することに慣れてしまった。無料新聞の洪水がとどめの一撃となった。英国で先陣を切った1999年発行の朝刊無料紙「メトロ」は文章も読みやすく、通勤の電車の中で全部読めてしまう。あっという間に市民と広告主たちの支持を得るようになった。

 実はメトロの発行元はスタンダードと同じくアソシエーテッド・ニューズペーパー社(アソシエーテッドの親会社は大手メディア企業デーリー・メール&ジェネラル・トラスト社=DMTG社)。アソシエーテッド社はメトロの人気にあやかり、今度は昼に発行される無料紙「スタンダード・ライト」の発行を開始し、次にスタンダード紙と同様の時間(午後から夕方)の無料紙発行を目論んだ。

 メトロの人気をうらやましく見ていたのがメディア王のルパート・マードック氏だった。タイムズ、サンなどを発行するニューズ・インターナショナルを傘下に置くマードック側はアソシエーテッド社に対抗する夕刊無料紙の発行を計画。2006年8月30日、アソシエーテッド社が夕刊無料紙「ロンドン・ライト」(試験的に発行していた無料紙「スタンダード・ライト」を改名)を発行し、9月4日にはニューズ社が「ロンドンペーパー」創刊で対抗した。。両紙合わせて約100万部の新聞が、ロンドン新聞市場に流れ込んできた。無料経済紙「CITY AM」もこれに加わり、新聞大洪水現象が起きた。

 無料紙参入前のスタンダードの発行部数は50万部ほどだったが、昨年、20万部台まで落ちた。専用プリペイドカード「エロス」の導入やコスト削減などの努力は起死回生には至らなかった。年間のロスは1000万ポンド(約12億円)以上と推察されている。

―個性の強い新聞経営者たち

 英国では富豪家や上流階級層が新聞を所有するという事例が多い。20世紀初頭、「デーリー・メール」を創刊したのは出版業で巨額を築いたノースクリフ卿だった。現在もテレグラフはホテル経営などで財産を築いたバークレー兄弟が所有し、先述のマードック氏は米メディア複合企業ニューズコープのトップで、英国の複数の新聞をグループの傘下に置く。アソシエーテッド社の親会社となるDMGT社の会長は、デーリーメールを創刊した一家の末裔になるロザミア子爵である。

 こういった先達にも負けないほどの莫大な資産を持つレベジェフ氏は果たして落ち目のスタンダードを生き返らせることができるのか、それとも短期で逃げ出すことになるのか(一説には、「3年が勝負」と言ったらしい)。お手並み拝見というところだ。

―イブニング・スタンダード紙の歩み

1827年:企業家チャールズ・ボールドウィンが「スタンダード」紙を発刊。ライバルは高級紙タイムズ。
1857年:朝刊になる。
1859年:夕刊版が発行開始。翌年、「イブニング・スタンダード」と改名。国際報道、特に戦争報道で部数を伸ばす。
19世紀末から20世紀初期: 経営者の交代続く。「デーリー・メール」がライバルになる。
1915年:既に5紙を所有していたエドワード・フルトンが買収し、新所有者に。「紳士のために紳士が書く」コラムとして「ロンドン市民の日記」を開始させた。
1923年―26年:「デーリー・エキスプレス」紙の所有者ビーバブルック男爵がフルトン所有の複数の新聞を買収後、イブニング・スタンダード以外の新聞をロザミア子爵に売る。
1933年:ビーバーブルック男爵がイブニング・スタンダードの唯一の所有者に。
1936年:ムッソリーニ伊ファシスト党党首を戯画化した風刺画を掲載したため、イタリアでの取材を禁じられる。
1964年:ビーバーブルック氏、死去。息子のマックス・エイトケンが引き継ぐ。
1980年:ビーバーブルック家が所有するエキスプレス・ニューズペーパーズ社がスタンダード紙を、アソシエーテッド・ニューズペーパーズ社が発行する「イブニング・ニューズ」紙と合併させる。
1985年:アソシエーテッド社がスタンダード紙を100%所有。「ロンドン・スタンダード」紙に改名。翌年「ロンドン・イブニング・スタンダード」紙に。さらに翌年「イブニング・スタンダード」紙に改名。
1987年:新聞王ロバート・マックスウェルが競争紙として「ロンドン・デーリー・ニューズ」紙を創刊。5ヶ月後、戦いに敗れ廃刊。
2006年:新聞王ルパート・マードックが無料夕刊紙「ロンドンペーパー」を創刊。数日後、アソシエーテッド社が創刊予定だった無料夕刊紙「ロンドンライト」を出版開始。スタンダードは無料紙の洪水に押されて発行部数が下落。
2008年春:ロンドン市長選で保守党議員(当時)だったボリス・ジョンソンを支援。「イブニング・ボリス」と呼ばれる。
2009年1月:ロシア人富豪アレクサンドル・レベジェフがイブニング・スタンダードの75.1%の株を取得へ。事実上の所有者に。
(資料:ガーディアン他)

―著名な新旧新聞所有者

―ノースクリフ卿(1865年―1922年)
アイルランドの首都ダブリン近辺で生まれる。授爵前の名前はアルフレッド・ハームズワース。英国の大衆紙(タブロイド)ジャーナリズムを作った人物とされる。ジャーナリストから雑誌、新聞発行者に転換。一般大衆のための新聞として、1896年、弟のハロルド(後のロザミア卿)と共に「デーリー・メール」を発行。当時の日刊紙の半分の値段で売る。世論形成に絶大な影響力を持った。第一次世界大戦前夜、ドイツが英国に戦争をしかけるという記事を掲載し、後、世界大戦を招いたと批判された。メール紙の右派保守系スタンスは今でも人気を誇り、サン紙に次ぐ発行部数220万部を誇る。英国大衆紙の父とも言える。

―ビーバーブルック男爵(1879年―1964年)
本名はマックス・アイトケン。カナダ生まれの実業家、政治家、作家。銀行業でキャリアを成し、英国移住後、ロールス・ロイス社の株を売ってロンドンの新聞業界に参入する。ロンドン・イブニング・スタンダード、デーリー・エキスプレスを取得。1918年、情報大臣として入閣。経営不振の新聞の活性化させる腕に優れた。王室にも影響力を持ち、1930年代、エドワード3世に米国人のシンプソン夫人との交際をやめるよう説得しながら、2人の交際を自分が所有する新聞で仔細に報道した。第二次世界大戦後、供給大臣として入閣。メディア界のみならず政界でも活躍した。

―ロバート・マックスウェル(1923年―1991年)
チェコスロバキア生まれの新聞王。貧困家庭に育つ。独ナチ軍によって家族のほぼ全員を殺害され、17歳で英国に逃れる。軍隊経験の後、出版業界で働き出し、裕福なビジネスマンになる。1964年、労働党国会議員に当選。1980年代までにデーリー・ミラー、サンデー・ミラー、スコットランドのデーリー・レコードなどを所有。後、自社の年金を流用しているのではないかという疑いが出るようになった。(1990年代後半には従業員らが資金流用問題で訴訟を起こす。)1991年、カナリー諸島でヨット遊びをしていたマックスウェルの死体が大西洋で浮かんだ。溺死とされたが、死に至るまでの経緯の全容は判明していない。

―ルパート・マードック(1931年―)
 世界で最も著名なメディア王と言えばこの人。米メディア複合企業ニューズ・コープの会長。オーストラリアのメルボルン生まれだが国籍は現在米国。父親が複数の新聞を所有しており、新聞業への愛情は若い時から培われていた。大学卒業後、オーストラリアの地方紙の買収を始め、後、米国、英国新聞市場にも参入。英国ではタイムズ、サン、ニューズ・オブ・ザ・ワールド、衛星放送BSkyB、米国ではFOXテレビ、映画会社20世紀フォックス、香港のスターテレビなどを傘下に置き、そのネットワークは巨大。自社新聞を通じての世論扇動がよく指摘されている。各紙の編集方針にもよく口をはさむと言われている。その影響力にあやかろうとブレア前首相が親交を深めていた。

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FREE NEWSPAPER: 無料紙。Free paper, freesheetと言うことも。広告によって成り立つ無料の新聞を指す。1995年、スウェーデンで始まった無料新聞「メトロ」は世界中で人気となり、現在までに欧州、アジアを中心に約20カ国の約2000万人が読む。「20ミニッツ」など別の名前だが同様の形で発行される無料新聞も増えた。駅構内や道路脇に立つ販売員が通行人に配るのが一般的な配布方法だ。英国では、欧州メトロの上陸を察知したアソシエーテッド・ニューズペーパーズ社が1999年から同じ「メトロ」という名前で(ロゴなどは別)発行を開始した。英国版メトロは現在一日に約130万部発行されている。
by polimediauk | 2009-02-03 02:58 | 新聞業界