村上春樹のイスラエル・スピーチの不思議―ある視点
20代で村上氏を読み出して、彼がいなかったら、多分今こうやって文章を書いていない位、影響を受けては来たのだけれど、ここ数年、もしかしたら、村上春樹はどこかがずれているのではなかろうか?と思ってきた。
私は文学に関してうとく、映画を観ても、人とは全く違う視点で見てしまうこともあるので、「私のほうがおかしいのだろうな」と思って過ごしてきた。
あれ?と思ったことの最初は「ノルウェーの森」だった。「ハードボイルドワンダーランド」がとても好きだったのだけれど、どこか「違う」感じがした。「ノルウェー」は大ベストセラーになった。
地下鉄サリン事件のことを書いた「アンダーグラウンド」を買おうと思って立ち読みしていたら、本当にほんの小さなことなのだけど、ある欧米系の人が中に出てきて、その人が「ジョン(ジョナサンかもしれないが、とにかく英語系の名前)さん」として表記されていた。ずい分前のことなので、記憶に間違いもあるかもしれないが、この時私は、「違う」と、また思った。この時の思いを上手に説明できないが、ジョンは「ジョン」であって、「ジョンさん」(ファーストネーム+さん)としてしまうと、日本語体系の中にこの人を引きずりこんでしまうというか、「日本人が想像するところのジョン」になってしまう感じがした(本は買わなかった)。
それ以降、氏の非常にこなれた日本語の翻訳本が出る度に、これはいわゆる「村上化したフィッツジェラルド」、「村上化したトルーマン・カポーティー」なのではないか?と思い、違和感を感じるようになった。
その後もいくつかあったが、最近のケースでは、英国でも彼の文学が人気になり、昨年ぐらいに、BBCが特集を組んだ。プロデューサーが村上氏にインタビューをするのだが、何と、声を出すことに合意が出ず、ある声優がインタビューで村上氏が言ったことを読み上げた・再生したのである。
これはかなり変わっているな、と思ったけれども、「作家として、自分のイメージを大切にしたい」ということなのだろうという解釈も出来る。それだけ自分の仕事に真摯な人なのだ、と。
先日、「海辺のカフカ」を読んだのだけれど、最後まで読んで、頭は疑問符で一杯になった。作家としては何度も読んで欲しいのかもしれないし、読者に結末や意味するところを自由に想像して欲しいのかもしれない。思い起こせば、昔の「ねずみ男」の存在も含め、常に読者に想像の余地を残しておくことがあったようだった。だとすれば、今回もそうなのだーそれにしても、ここまで疑問符が一杯つくようだと、これはひょっとしたら、村上氏は別世界に飛んでいってしまったのではないか?あるいは、あまりにも人気作家なので、「ここをこうしなさい」という人がまわりにいないのだろうか?つまるところ、カルトの作家なのだろうかー?
思いは乱れたが、最初にも書いたが、私は文学作品を殆ど読まないので、きっと経験や想像力が足りないのだろうなあ・・・と思ってまた日が過ぎた。
そして、イスラエルの文学賞でのスピーチのことを知った。
この件に関しては、既に日本語に訳していらっしゃる方がいるし、また、一部ブログでは称賛されているらしい。称賛・・・というのが本当に不思議だった。
というのも、一部では、村上氏がイスラエルに行って、「ガザ空爆を批判した」という解釈があるらしい。しかし、私にはどう見てもそうは読めないのだ。
私がこのスピーチのことを知ったのはエルサレムポストの記事だったが、「卵と壁」に例えて話す・・というのがどうもこそばゆい感じがした。途中まで読んで、どうしても読む気がなくなってしまうのだ。
私がこのスピーチがおかしいと思うのは、まず、何を言おうとしているのか、殆どよく分からないこと。何十年も続く紛争を卵と壁に例えるのも、ぴんと来ない。村上氏は英語が分かり、米国で教えていたこともあるぐらいだから、イスラエルのことも知っているだろうし、紛争のことも十分知っていると思うのだが。
読んでいると、airy, fairy・・つまり「ふわふわ」(非現実的・空想的)としていて、意味がないように聞こえる。リアルな思い、リアルな痛み、怒り・・なんでもいいが、リアルな感情が伝わってこない。
言葉を使って書く人が何故?と思う。英語を知っている人が何故?
このエアリー、フェアリーな感じは、平和の大切さを叫んでいれば、世界に平和が訪れる・・と考える人にどこか似ている。
・・・と私は思っている。