ツイッターで気づいたこと
携帯を使ってイッターをやるようになってから、情報の取り方がずい分変わった。
①まず、第一報はツイッターから得ることが多くなった。特定の言葉を検索しているわけではなく、興味のある分野の人のフォロワーになっていると、情報が集まってくる。ラジオやテレビ、新聞などの媒体でのニュース情報はツイッターからずい分後の話になることが多い。
②わざわざPCを開けてニュースを探す、トピックを拾うことがなくなり、携帯を通じて瞬時に情報を取るようになった。
③関心のあるトピックに関して論評などを読みたい時は、ウェブサイトで探して、じっくり読む。翌日の新聞では新たな視点が入っていたり、分りやすい別の書き方をしているもののみを読むー新聞は第一報ではなく、あくまで確認と別の視点のヒントを得るための媒体に。
④テレビのニュース解説番組をほとんど見なくなったー例えばBBCの夜の番組「ニューズナイト」(午後10時半より)など。朝のBBCの「TODAY」もほとんど関知しなくなった。前は、例えばニューズナイトに出演する識者の意見を聞くのがとても参考になったのだが、既にツイッター、ウェブサイト、ラジオで知りたい視点にアクセスできるので、テレビの前に座って話を聞く必要がほぼなくなった。「ニューズナイト」や「TODAY」のフォーマット自体が、古いように思えてしまう。例えば、TODAYは毎朝3時間(月曜から金曜)である(土曜は7時から9時)。あまりにも長すぎないだろうか?複数のトピックを形を変えて繰り返す構成になっているが、これはこの時間帯にラジオをつけた人全員がちゃんと主なニュースが何かを分るようにしているためだろうけれど、例えば司会者陣が高齢だったりして、どうもピンと来なくなった。高齢者がいてもいいのだけれどーー自分も高齢だしーー一定のバックグラウンドを持つ人が司会になるので、見方が固まってしまうー。もっとフレッシュな視線が欲しい。
⑤そして、日本語のツイッターを読んでいて気づいたのだけれど、どうも「勝手にフォローするな」「フォローするなら、一言挨拶をしてほしい」といっている人が一部にいるらしい・・・。私はいくつかのソーシャルメディアに登録しているがあまり熱心に更新しておらず、それは、実は何を書いていいか分らなかったからだった。「友達」でないといけない、というのも、窮屈だった。ツイッターは、気軽にフォローしてもいいし、フォローしたくなくなったら、勝手に停止すればいい。ゆるい感じがいいと思う。
神田敏晶さんという方が、いろいろツイッター論を展開している。以下はその一部。
コミュニティは住民の連帯意識、twは、それぞれが自立の一戸建てかな。だからアソシエイト(ゆるやかな仲間意識)と表現しました。当然、2010年はtwはコミュニティだと考えている人の反発があります。コミュニティはモノフォニック(単声的)ですが、twはポリフォニック(多声的)な世界観。
http://twitter.com/knnkanda/status/7216207194
さらに言及すると、twitterはデカルトの「我思う、ゆえに我あり」を誰もが、感覚的に感じ取ることができる。デカルトの方法序説を実現している。自己の覚醒こそが、実はtwitter革命 #twrevo http://j.mp/4DmkcA
http://twitter.com/knnkanda/status/7216505335
Googleはバイキング形式のバフェスタイル(セルフサービス),twitterは、回転寿司である。目の前の瞬間から選び取る感覚。取りこぼしたものもRT寿司として再度回ってくる。
http://twitter.com/knnkanda/status/7216862589
twitterは単なる情報受発信ツールではなく、人類の行動そのものを数秒遅れで共有できる情報プラットフォーム。 #twrevo
http://twitter.com/knnkanda/status/7217140805
・・・と思っていたら、米メディア教授のジェフ・ジャービス氏が、「ツイッターをもしどうしても定義したいんだったら、『ジョーク』かな」と書いていた(1日付)。
さて、来年の今頃は、一体どんなことになっているだろう?