カトリック神父の性的虐待問題の衝撃
カトリック教会:神父の性的虐待次々発覚 バチカン窮地に
http://mainichi.jp/select/today/news/20100403k0000m030065000c.htm
(引用)【ローマ藤原章生】カトリック教会神父による子供に対する過去の性的虐待が、3月以降に米欧で相次ぎ発覚している。しかもローマ法王ベネディクト16世(82)が虐待を知りながら見逃していたとの疑惑も報じられ、法王の辞任を求める抗議デモが起きるなどバチカン(法王庁)は窮地に追い込まれている。元記事はもっと長いので、関心のある方は見ていただきたい。
騒動の直接のきっかけは、アイルランド政府の調査委員会が昨年11月に出した報告書だ。それによると、アイルランドでは1930~80年代にかけ、学校など教会運営の100以上の施設で、数百人の神父や尼僧が少なくとも2500人の未成年者に性的虐待を加えた。9年がかりでまとめた報告者は「組織的な隠ぺいがあった」と結論付けた。
また、ドイツのシュピーゲル誌によると、ベネディクト16世の生地ドイツでも75年から83年にかけ、西ベルリンのイエズス会系の名門校で約500件の性的虐待があった。
被害はドイツの他の都市や、スイス、スペイン、オランダでも続々と発覚している。(引用終わり):
この問題は、西欧カトリック教会の存続を揺るがす大きな危機ではないかと思っている。何しろ、(多くは子供の・中心は男児)信者の信頼・信仰を利用して性的虐待を続け+虐待者を警察に出すよりも、むしろ覆い隠そうとしていたからである。信頼・信仰が最も肝心な部分だとしたら、この裏切りは相当重い。
そして、カトリック神父は生涯独身(他者と性的交渉を持たない)ということになっているのだけれど、これも関係してくるだろう。もちろん、性的交渉を持たない=だから子供信者への虐待につながったとは必ずしも言えない。「それとこれは別だ」とカトリック教会がいうのも分かる。それでも、(これは私が信者ではないから言えるのだろうけれど)、性的欲望を止めることは何か人間にとって不自然すぎることではないのかどうか、信仰ゆえにそうした欲望を抑えるのは、神に身をささげるという観点からはいいのかもしれないが、それにしても、一度ここで、どうするべきか考えてもいいのではないか?―虐待をした神父は全体のほんの一部ではあろうけれども。
男子児童(とその親や信者)の心と体の傷がまだ残る中、信頼を取り戻すには、聖職者が信頼を裏切る行為を行った時、教会内で処理するのではなく、世俗の機関に引き渡すことや、子供を作る以外の目的での性行為も人間の自然な行為として肯定するなど、教義や習慣の大きな変更があるべきだと思う。・・というのは簡単で、これを変えるには長い時間がかかるのかもしれないが。
本当に胸がいたむ出来事である。ローマ法王の退位運動を行う人の気持ちが分かるような気がする。実現することはないかもしれないが、「けじめ」をつけてほしいという気持ちが底にあるような気がする。相当の強い思いがー。生半可の改革では信頼感は取り戻せない。決して、法王庁の一部が言ったように、単なる「メディアによる攻撃」ではない。(今の法王がドイツ人なので、常に攻撃はされてきたのだけれども。)
カトリック教会の避妊の考え方(参考)
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1010478325
性に対する考え方
貞潔に反する罪(Offenses against chastity)として,淫行(lust)[2351],自慰(masturbation)[2352],姦淫(fornication)[2353],ポルノ(pornography)[2354],売春(prostitution)[2355],強姦(rape)[2356]
http://www.catholic-teachers.com/2.htm
ウィキペディア日本語の同性愛とカトリックに関する説明によると、「同性愛行為は自然法に反する罪深いものだとされる」。男児への性的虐待はこの意味でもかなり罪深いことになろう。