小林恭子の英国メディア・ウオッチ ukmedia.exblog.jp

英国や欧州のメディア事情、政治・経済・社会の記事を書いています。新刊「英国公文書の世界史 一次資料の宝石箱」(中公新書ラクレ)には面白エピソードが一杯です。本のフェイスブック・ページは:https://www.facebook.com/eikokukobunsho/ 


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英国で名誉毀損法、見直しへ ー米政府も立腹か

 「名誉毀損の観光旅行」(libel tourism)という表現を聞いたことがあるだろうか?英国外に拠点を持つ被告、原告が名誉毀損裁判を英国で行う現象を指している。これが英国ばかりか米国でも問題になり、英国の名誉毀損裁判の判断が米国民に適用されないようにという法律が成立する一歩手前まで来ている。

 ことの経緯を、新聞通信調査会「メディア展望」(8月号)、新聞協会報(7月27日付)に書いた。以下はこれに補足したものである。

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 英国・イングランド地方の名誉毀損法の改正を求める声がメディア界を中心に高まっている。裁判費用の高額化が言論の自由や研究の妨げになっている上に、 英国外に拠点を持つ被告、原告が名誉毀損裁判を英国で行う、いわゆる「越境訴訟」(名誉毀損の観光旅行=libel tourismとも言われる)が目に付くようになったからだ。 

 7月上旬、英政府は、名誉毀損法の見直し作業に着手する方針を発表した。来年早々、改正法案を議会に提出する予定だ。議員立法による改正法案が既に上院で審議中だが、政府法案の提出で、名誉毀損法の抜本的見直しが実現する可能性が出てきた

 英イングランドの名誉毀損法で名誉毀損と見なされる陳述(statement)とは、「ある人物を憎悪、嘲笑または侮蔑の対象として明るみに出す」「社会的地位を低下させる」「会社あるいは職業生活での名誉を貶める」などを指す。名誉毀損に値するかどうかは原則陪審団が判断する。

 名誉毀損裁判の高額化を改めて実感させたのが、科学ジャーナリスト、サイモン・シン氏と英カイロプラクティック協会の事件だった。

 2008年、シン氏は、「ガーディアン」紙のウェブサイトのコラムで、カイロプラクティックの治療の効果を疑問視し、同協会はシン氏を名誉毀損で告訴し た。今年4月、控訴院が記事は名誉毀損には当たらず「正当な論評」であるとする判断を示し、協会は告訴を取り下げた。勝訴までの2年間、シン氏は仕事が激減した上に、裁判費 用20万ポンド(約2600万円)を負担する羽目になった。勝訴を喜びながらも、シン氏はジャーナリストや研究者が名誉毀損訴訟の高額さゆえに「本当に言いたいことを言えない状況」に、大きな懸念を示した。

 名誉毀損裁判は、ジャーナリストやメディア側に大きな金銭的負担を課す。法廷に出頭して弁護するまでの準備段階で弁護側には「少なくとも5万ポンド(約670万円)」(英誌「エコノミスト」の試算)の費用負担が生じる。オックスフォード大学の 08年の調査では、同地方の名誉毀損訴訟費用の高さは欧州一だ。潤沢な資金を持たない小規模のメディアは名誉毀損で訴えられるのを恐れて、報道を自粛する 場合もあるといわれている。

 一方、ここ数年、英国外での出版活動に対して、英国内で名誉毀損訴訟が起きるという奇妙な例が目に付く。

 03年、米国人作家がテロの資金繰りに関する本を米国で出版した。この本の中でテロリストへの資金供給者として名指しされたサウジアラビアの実業家が、05年、この本が名誉毀損であるとして英国で告訴し、勝訴した。07年には、ウクライナの富豪が同国内に設置されたウクライナ語のウェブサイトに掲載され た記事が名誉毀損に当たるとして英国で訴訟を起こし、勝訴している。

 前者の場合は、英国でもこの本が少数ながら(23冊のみ)ネットを通じで購買でき、後者の場合はネット上でウクライナ語の記事に英国内からもアクセスできた。これでイングランドでの訴追が可能となったのだ。

 7月中旬、米上院司法委員会は、名誉棄損をめぐる海外の裁判所での司法判断が米国民にそのまま適用されないようにする法案を上院で議論することを決定した。(補足:法案は7月末までに上院・下院を通過し、8月上旬、大統領が署名をして、法律として成立。)

 イングランドの名誉棄損法は、米国の場合と比較すると原告に有利と言われている。米国では憲法修正第1条で保障された言論の自由がジャーナリストを擁護す る上に、原告側が被告の論評に「悪意があった」と証明する必要があるからだ。一方、イングランドでは論評の真実性に関し、被告に立証責任が伴う。

  イングランドでも、名誉毀損訴訟をめぐって、報道に「公益がある」と見なされれば、訴追を免れる「レイノルズ弁護」(1999年)があるものの、弁護理由 としては「十分に機能していない」と報道の自由のための運動団体「インデックス・オン・センサーシップ」はいう。レイノルズ弁護とは、94年、サン デー・タイムズ紙が当時のアイルランド首相アルバート・レイノルズ氏に関する疑惑を報道した事件で、「重大な疑惑が特定議員に生じ、公益があると判断さ れた場合、正当な手続きを踏んでいれば、結果的にその疑惑が立証されなくても、報道する自由がある」という司法判断を指す。

 英政府は来 年の法案提出に向けて広く意見を募る予定だ。損害賠償額に上限を設定する、勝訴の場合の弁護士報酬を大きく減少させるなど、高額化傾向を止める方策や、出 版物の少なくとも10%が英国内で配布されていない限り、訴追を受け付けないなど、「名誉毀損の越境訴訟」をなくするための歯止め策が議論に上りそうだ。


*米国の法律に関する情報は以下

http://www.govtrack.us/congress/bill.xpd?bill=s111-3518

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(名誉毀損は名誉棄損という表記もあるようです。ここでは名誉毀損にしました。)
by polimediauk | 2010-08-11 17:10 | 英国事情