小林恭子の英国メディア・ウオッチ ukmedia.exblog.jp

英国や欧州のメディア事情、政治・経済・社会の記事を書いています。新刊「なぜBBCだけが伝えられるのか」(光文社新書)、既刊「英国公文書の世界史 一次資料の宝石箱」(中公新書ラクレ)など。


by polimediauk

ガーディアンはどうやって社説の論調を決めたか 「はてなダイアリー」ブログより


個々のジャーナリストが、議論の上で判断する

 英総選挙の投票が済み、明日の朝4時ごろまでには大半が判明するようだ。

 選挙の間、各新聞の社説はどのように書かれたのか?

 英国の新聞の社説の論調には、社主の意向が大きな影響力を持つ。読者は、社主がどんな政治的見解を持っているかを承知して読んでいる。(タブロイド紙サンのように、長年保守党支持だったのに、途中から現政権の労働党支持になった、というメディアもある。)

 しかし、社主がおらず、スコット・トラストという信託によって経営されている英ガーディアン紙は一体どうやって統一見解を定めているのか?統一見解というものが、そもそもあるのだろうか?

 まずガーディアンのこれまでのスタンスだが、編集長のアラン・ラスブリジャー氏が昨年10月のロンドンでの会合で語ったところによれば、「ガーディアンはリベラル精神の新聞」。特にどの政党寄りでもないことを示唆した。(彼によれば、である。)現在の労働党よりももっと左派だとも言われている。

 「はてなダイアリー」というブログ http://d.hatena.ne.jp/flapjack/ で、flapjackさんがガーディアンがどうやって選挙中の論調を決めたかを紹介している。

 内容はラスブリジャー氏がブログ上で書いたものらしい。以下はflapjackさんの翻訳だ。


5月3日の一週間ほどまえのお昼時間に、ガーディアン本社ビルから、100人ほどのジャーナリストが本社ビルの面するファリンドン・ロードをわたって、向かいに立つ同新聞社の文書庫+カンファレンス・センターに、一時前にはいっていった。これは組合のミーティングでもないし、ストライキでもなかった。これは、編集スタッフのだれもが、投票日直前の社説でガーディアンがとる論調について、自分の意見をできる機会であり、選挙前の恒例の「儀式」だった。

強力な社主のいる新聞では、選挙時に意味のあることは2つしかない。

一つは、社主からの直接の電話での指導がなければ、ボスの心を正しく読むことだ。

もう一つは、もし、お前はそこそこ値のするバーガンディ・ワインとかそういう話題以外について社主と話したことがあるだろうとほのめかしをされたら、それに対して抗議しておくことだ。選挙に関する発言は絶対に、自分自身の意見であるように見えなければならない。

ガーディアンには、そうした社主がいない。ある意味では、ずいぶん気楽である。当てのない推測をする必要がないからだ。けれども、他のほとんどあらゆる点については、もっと難しい。というのは、自分たち自身で、自分たちの考えをきめなければならないからだ。それは具体的には、いかに下っ端であろうと、いかに政治とは関係ない部署で働いていようとも、ジャーナリストであるならば、考えをもてるように、議論のフォーラムをつくることを意味する。

ある意味では、この会合は、編集オフィスにおける日々の編集会議の延長線上にある。私の知る限り、イギリスではガーディアンでしかやってないことだが、この編集会議では、職員ならばどのジャーナリストでもはいってきて、その日の新聞に対する批判や次の版についてのアイデアをもって発言してよい。

先週火曜日の特別会合では、30名ほどのジャーナリストが発言した。そのうちの3分の一ほどが、日常的に政治に関する記事を書いている人たちだ。残りは、整理部員であったり、記者であったり、スポーツ記者であったり、コラムの筆者であったり、デスク編集者であったり、海外特派員であったりだ。

社説を書く人々のほとんどもそこにいた。部屋のあちこちにちらばって、ある者はメモをとっていた。前もってみなに明確にされていたのは、その会合で出席者による投票はないということだった。そして、その会合の目的は「論調を定める set a line」することではなかった。むしろ、可能な限り十分な議論をもつことで、編集スタッフのなかでの議論の重心がどのあたりにあるのか、社説を書く人々が感覚をえることが目的であった。出席したほとんどの人たちが同意しているが、この会合では、真に充実した、刺激的でかつ知的な議論がもたれたのである。

数日後、社説を書く人たちは、編集長及び副編集長と一時間ほどの会合をもち、火曜日の大きな会合であげられた問題をもう一度慎重に考えた。それをもとにして、第一稿がかかれ、社説を書く人たちのあいだで回覧され、コメントがふされた。フィードバックが反芻されて、そのうちのあるものは、最終稿のなかに組み込まれ、それが今朝(つまり5月3日)に紙上にでた。


ここまでが、ラスブリジャー氏のレポートの翻訳の一部で、以下がflapjackさんの意見だ。

社説は、投票による民主主義によって社内のなかでその論調が決定されるわけではなく、個々のジャーナリストが自分の考えをもちながら、しかし、ガーディアン全体として訴えたいと考える価値・物事の判断をくだす、その焦点であるということだ。その新聞が全体としてどのような判断をくだすか、それがかかわるトピックのなかでもっとも重要なものが、総選挙直前の社説というもので、そこで、その国の政治に関する全体状況について、大きな状況認識をはっきりとさせる。その状況判断は、新聞によって異なるものであって、どれが一概に絶対的な真実であるかはだれにもいいようがない。それは人それぞれが考えざるを得ない。そうした大局的状況判断のレベルと、それとむすびついた個々の報道のレベルで、市場競争している新聞もあるわけだ。いわずもがなのことだが、日本の大新聞はおしなべて選挙に際してそうした大局的状況判断を示す機会を公正中立とかいって自ら放棄している。それはそれで一つのあり方ではある。


 (引用終わり)

 (追記) flapjackさんはイギリス在住ご経験のある方ということ。最後の方で「人それぞれ」という表現が何度か出てくるので、ことさらそう感じた。イギリスに住むと、Aもあるし、Bもある、Cもある・・・という考え方が体になじんでしまうようだ。(余談だが、この精神からいくと、ライブドアに対する、一連のバッシングは非常に不思議だった。政権を取ったわけでも、NHKを買収したわけでもない。メディアの一部を所有しただけ。見たくなければ、聞きたくなければ、ライブドアの関連するメディアに触れなければいい。ライブドアが日本のジャーナリズムの全部を背負っているわけでもない。様々な意味で極端であったとしても、「それはそれ」・・・。しかし、日本にいると、巻き込まれてしまう部分があるのかもしれないが。)

 
by polimediauk | 2005-05-06 05:58 | 政治とメディア