小林恭子の英国メディア・ウオッチ ukmedia.exblog.jp

英国や欧州のメディア事情、政治・経済・社会の記事を書いています。新刊「なぜBBCだけが伝えられるのか」(光文社新書)、既刊「英国公文書の世界史 一次資料の宝石箱」(中公新書ラクレ)など。


by polimediauk

日本のメディア・出版界に聞く②-1 中公選書・編集長「電子出版の時代だからこそじっくり読む本を」

 日本のメディア・出版界に聞く②-1 中公選書・編集長「電子出版の時代だからこそじっくり読む本を」_c0016826_18382947.jpg先日、『英国メディア史』という本を、中央公論新社が創刊した「中公選書」シリーズから出させていただく機会を得た。このとき、担当者として面倒を見てくれたのが、前中公新書ラクレ編集部長であった、横手拓治・現中公選書編集長である。

 横手氏は約30年の編集者経験があり、850冊余の雑誌や本を出してきた、プロ中のプロ。手がけてきた分野は漫画以外のすべてという。

 仕事をともにした書き手も多数だが、中公新書ラクレの時代では、『リクルート事件・江副浩正の真実』(「当事者がすべてを語った、現代史の証言にしてすぐれたノンフィクション」と言われている)や、渡邉恒雄氏の『わが人生記―青春・政治・野球・大病』などが記憶に新しい。一方で、『世界の日本人ジョーク集』(77万部)『となりのクレーマー』(26万部)ほかベストセラーも生みだしている。また、ご自身も書き手で、筆名にて近代文学の評論を2冊刊行しており(河出書房新社『宮澤賢治と幻の恋人』ほか)、2012年2月には理論社より子供向けの本を出版する予定だ。

 編集者のプロとして、現在の出版業界をどう見ているのだろう? そして、なぜ「選書」をやろうと思ったのだろうか? 都内で横手氏にじっくりと話を聞いてみた。

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―中公では選書がいままでなかったのですか?

横手氏:中公選書というのはありませんでしたが、中公叢書と自然選書があり、前者は現在でも続いています。なお、類似のシリーズとしては、他社で双書、選書、ライブラリーの名称が付くものがあり、人文系の版元を中心に、教養書シリーズとしていくつか刊行されています。

 いま日本の書籍出版の中心ともいえる「新書」は、縦長の小さな、いわゆる新書サイズ。定価も3桁で廉価版です。これに対して、選書、双書(叢書)、ライブラリーと言っているシリーズは、基本的に四六(しろく)判です。昔からある、単行本の標準形です。

―中公選書もこの四六判なのですね?

 多少変形して、手に持ちやすく小さくしていますが、四六判です。本の判型は、書籍の場合、シリーズ分けのポイントの一つですが、文庫は小さい「文庫」サイズ、新書は縦長のサイズ。ともに軽装廉価本となります。これに対して、四六判とは、「普通の単行本の大きさ・体裁の本」と思ってくれればいいでしょう。

―読むほうは、サイズに一定のカラーが付いているとして解釈しがちです。たとえば、大きいサイズの本は、「じっくり読む本だろう」とか。

 中公選書に関していえば、その通りです。私は文庫編集を6年、新書編集を10年やり、そのうえで選書の刊行を行うわけですが、文庫・新書といった廉価軽装本とは違う方向性で、「じっくり読む本を作ろう」というのが選書編集の前提です。世界中どこでもそうですが、価格を安くしてたくさんの人に売るというのはペーパーバック。日本では、あるいは新書がこれに当たるのでしょう。これに対して、「じっくり読ませる」ものとして四六判の選書があるわけです。

 そして、中公選書はすべて一次コンテンツで、書き下ろしが中心。一次コンテンツとは、最初の本、という意味です。文庫やアンソロジー系の書籍は、一度刊行されたものを、形態を変えて再刊するわけで、これらを二次生産物といいますが、その点で違います。中公選書は「じっくり読ませる」ことと、「最初の本」にこだわります。

―今回の創刊にはどのような意図があったのでしょうか?

 90年代から00年代にかけて、ネット社会が急速に進展しました。印刷物の制作がメインだった旧来の出版社の人間は、みな脅威を感じています。ネットでは情報の伝わりが早く、しかもコストが低い。また、フェイスブックなどでもわかるように、コンテンツが短く、細切れです。ワンイメージで「伝えること」が成立してしまう。

 こうした潮流に対して、選書を創刊することを通じて、長いものの制作活動に、却ってこだわりたいと思っているのです。長いというのは、400字×300枚とか500枚といった分量のコンテンツです。全体の構成力がないと書き上げられません。ネット的なワンショットの文章をいくら積み重ねても、構築できないのです。そうした構成力のあるコンテンツが制作できるのは、紙の時代にコンテンツを作ってきた人間の強みです。短い、早い、ワンイメージ、といったものへのアンチテーゼは、選書だというわけです。

 選書を出すのは、電子出版の時代だから「ゆえ」という受け身のものではありません。電子出版の時代だから「こそ」なのです。長くて構成力のあるもの、時代が変わっても古びない普遍的なものを作る。制作過程でも、一人の著者とじっくり付き合いながら、本へと仕上げていく。小林さんの『英国メディア史』もそうでした。短く、早く、イメージ重視のメディアが広がっているから「こそ」、本づくりの原点に立ち返ることが必要だ、と考えたわけです。

―出版業界のいわばコンサバティブな動きとして、原点回帰しようという流れがあって、その答えの一つが、選書というわけですか。

 実は選書、双書という形は、いま静かに業界で立ち上がっています。筑摩書房や河出書房新社にて、近年、創刊が相次いでいますし、ほかにも創刊予定をいくつか聞いています。みんな人文系の中堅版元ですが、その位置にある他社で、似たような発想をする人がいるのでしょう。そうした発想が出てくる時期となっているのかもしれません。

―アマゾンが黒船としてやってきて、日本語の電子書籍地図が激変するといわれています。旧来の出版社は変化を強いられるでしょう。選書創刊が原点回帰的な流れとしてあるのなら、ほかにもいろいろな動きがありそうですね。

 電子の世界を通じて、桁違いの、たくさんの出版コンテンツが入ってくるでしょう。しかし、いまのところ、そこで登場するコンテンツのほとんどは、旧来の出版社によって最初に送り出されたもの、つまり紙の時代の制作物です。それがデータを電子化されて二次生産しているだけなのです。電子出版は、現時点では、何も創造してはいない。ただ流通させているだけです。

 電子の世界のコンテンツクリエーターが、最初から、本当に良質な作品――文学としても、教養としても――を作ったというのはまだ見いだせない。グーグルでもアマゾンでも、紙の時代にわれわれが作った本を、廉価で出しているだけです。

―コンテンツを作るのは、(コストや時間が)かかりますものね。

 「最初の本」である一次コンテンツというのは、結局、細かな人間どうしの遣り取りを経ないと、成せないものだと思います。永遠に終わらないかと思えるほどの、実務の繰り返しです。クリエーター+編集者というのは、どうあってもアナログな関係、リアルで具体的な人間関係です。そこでの細かな協同作業を経ることでしか、一次コンテンツが出来ないとしたら、紙の世界で、日々対人交渉で修業してきた編集者は、業態としては生き残るはずです。ただし、個人は選別されるのでしょうが。

―紙のコンテンツを作ってきた人が、デジタルのコンテンツを作り出す、ということはあり得るのですか?

 もちろんあり得ます。紙はなくなるとは思いませんが、たとえ紙がなくなっても、電子の世界で一次コンテンツを発表すればいいのですから。出口が紙か電子かというのは、本質的な問題ではありません。一次コンテンツの創生、クオリティーの追求、そのこと自体が問題です。これを本質的に担っている編集者は、デジタル時代でも必要とされると思います。

 これに対して、出版社という存在はどうでしょうか。中長期的には合従連衡で整理されるか、性格が激変すると思っています。

―いまや、伝統的な存在だった出版社も、生き残りがテーマのようですね。

 いま、会社をあげて電子出版、電子出版とやっているところがあります。それより、いまこそ、一次コンテンツ・メークにマンパワーとカネ、社員の時間を投下したほうがいい、と私は思っています。あと、一次コンテンツのキープにもね。

 それから、文庫やアンソロジーに力を入れるのも首をかしげます。遠からず電子出版に移行する時代に、再刊にすぎない二次生産本にこだわるより、旧来の出版社のほうにいまなお一日の長がある、一次生産本にこだわるべきです。出版社が力を入れるのは、やはり「最初の本」ですよ。

―さきほどの「一次コンテンツの創生」ですが、そのときに編集が重要になるという点について、くわしくお願いします。

 現実に、いまネット上では、小説や詩、エッセイや論評のたぐい、そして写真、コミックなどヴジュアル作品の一次コンテンツが溢れています。素人が自分の書いた作品、作った作品を、そのままネットで公開している。ただ、それが大きなベストセラーになった例ってありますか? ないと思います。ネットで発表しても、自分自身と、近い人たち、たとえば自分の友人しか見ないわけですよ。もちろん例外はあるでしょうし、例外的事態が今後、起こる可能性は否定しません。でもそれは例外が起きた、というに過ぎない。例外はどこまでも例外です。

 小説でもノンフィクションでもコミックでも、広く読者に開かれていくためには、制作過程に、作者以内の他人が介在しなければならないと思います。それは力のある作品を生み出すさいの、本質的なことがらだと思っています。

 いまネット社会が広がり、個人が公に何かを発表しようとすると、すぐできますね。誰かを介さなくてもできる。すごく簡単です。ただ、そうしたコンテンツには、必ず何かが足らなくなります。読者という他者へ通じるものを作りだすためには、制作過程で他者感覚を入れて作っていくプロセスが必要なのです。他者と出会って、自分のなかのクリエイティブなものが客観的になっていく作業が、です。私たち編集者は、そのあたりに関わるわけです。

―編集を入れるとなると、コスト問題もありますね。

 そうです。ネット時代を迎え、コスティングの問題は重要です。たとえば、今回、小林さんを著者に迎え『英国メディア史』を作りました。ネットで見解をざっくり述べるのと違い、相当な作業をして頂いた。編集した私も、なかりの読み込み作業をしたし、校閲関係者など、たくさんの人の手を経ています。これはすべてコストに跳ね返る。ネットで自分の見解を述べるだけならタダですが、本にする一次コンテンツを作るとなると、生半可なことではない。労力とコスト。それをどうするかです。クオリティーを犠牲にすれば、いくらかは安くやれます。でも、そのぶん、出来上がったものの価値は確実に落ちるのです。

 とはいえ、タダメディアのネットが広がるなか、紙の時代と同じコストを掛けているのは……。

―ビジネスとして成り立ちませんよね。

 そうだと思います。コストを掛けるところは掛けても、知識、経験、人脈などを広げ、総合的なスキルアップによって個人の能力を高くし、なるべくコストに反映させないようにする努力は、不断にしていかないと、わたしたち編集者も生き残れません。

 ブランドにしがみついていると大変な目に遭います。読者や著者が必要なのは、ブランド自体であり、そこにたまたま所属する編集者ではないからです。

―再販制はどうですか。

 日本の出版社は再販制度に守られてきたといわれます。ただ、再販制度よりも私が本質的だと思うのは、東販・日販といった大手取次に口座を開ける特権です。それに出版社が守られてきた、というほうが重要だと思っています。

 かつて、たとえば小林さんがイラスト集を出版したいと思ったら、イラスト作品を持って出版社に日参したはずです。編集者に会って、何度もダメ出しをされたでしょう。そして狭い門をくぐってゴーサインを得ると、やっと本の形に制作されます。それが大手取次を介して全国の書店に届けられ、読者が見て、いいなと思って買ってくれる。この流れでした。大手取次は、口座を開いている出版社としか取引をしません。これが一種の壁となって、そのなかで出版社が守られてきた。

―出版社が、ですか?

 そうです。いきなり「ビジネスしたい」と大手取次に行っても、口座を開くには、条件面ですごく高い壁があります。これに対して、中央公論新社とか文芸春秋といった出版社はすでに口座を持っている。明日にでも、小林さんが作ったイラスト集を納品できます。その違いというのは、すごく大きかった。

 アマゾンがこれを崩しつつある、といっていい。大手取次を通さなくても、いまでは、アマゾンなどヴァーチャル書店を通じて、本は自在に販売できる。離島でも海外でも、宅配で届けることができます。(②-2に続く)
by polimediauk | 2011-12-23 18:35 | 日本関連