小林恭子の英国メディア・ウオッチ ukmedia.exblog.jp

英国や欧州のメディア事情、政治・経済・社会の記事を書いています。新刊「なぜBBCだけが伝えられるのか」(光文社新書)、既刊「英国公文書の世界史 一次資料の宝石箱」(中公新書ラクレ)など。


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日本のメディア・出版界に聞く③-1 英「エコノミスト」東京支局記者が語る震災報道の衝撃

 昨年秋、日本に滞在したときにインタビューさせてもらったメディア・出版業界の方々の中で、オンレコで内容をブログ掲載してもよいと言ってくれた3人の方の声を紹介してきた。今回は、その最後にあたる。

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 英ニュース週刊誌「エコノミスト」東京支局のケネス・クキエ(Kenneth Cukier)記者(写真、右)は、日本のビジネス・金融問題を担当している。その前には「エコノミスト」のロンドン本社でテクノロジーや通信問題について書いてきた。「エコノミスト」の前には「ウオール・ストリー・ジャーナル・アジア」(香港駐在)、「インターナショナル・ヘラルド・トリビューン」(パリ駐在)などを経験している。 http://www.economist.com/mediadirectory/kenneth-neil-cukier

 インタビューはオリンパスの粉飾決算がらみで英国人社長が解任されて間もなくの頃に行われた。東京事務所に先に到着して待っていると、クキエ記者は約束の時間にほんの少し遅れて姿を見せた。聞けば、元社長とのインタビューで、原稿を書いていたという。一仕事を終えたばかりのすっきりした表情をしたクキエ氏は、東日本大震災の報道の様子や日本のメディアについて語ってくれた。

                 ***

―「エコノミスト」の締め切りまでの1週間の流れと、今回の東日本大震災をどうやって報道したかを教えてください。


クキエ氏:締め切りは毎週水曜日になります。英国時間の木曜までに原稿が印刷所に送られて、金曜日には新聞の形になって(注:「エコノミスト」は自分たちの媒体を「新聞」と呼ぶ)、駅の売店や購読者のもとに届けられます。

 地震が起きたのは金曜日の昼でした。そこで、すぐに私たちは(自分とヘンリー・トリックス東京支局長)は、地震発生の第一報を書きました。最初はほとんど何も情報がなかったのですが、そのうちに段々新しい情報が入ってきたので、原稿をアップデートしていきました。地震の悲劇があって、津波の犠牲者が発生し、当日の夜には今度は過熱した原発の問題が発生しました。こういうニュースをまず東京で、金曜日に書いていたわけです。

 私自身はまず家族が無事だったかどうかを確認しました。余震が何度もありまししたし、4ヶ月の赤ん坊と4歳の子供がいたので、家族の安否を確かめるのが最優先でした。

 私たちのオフィスは銀座にありますが、ビルの外に出てみると、たくさんの人が六本木から渋谷方面に向けて歩いていました。赤信号のところで止まっている様子などを見ていましたが、がんばろうという雰囲気、我慢しようという雰囲気が感じられましたね。

 週末の土曜と日曜に、私たちは1日に2本の原稿を書きました。まず前の晩に起きたことを入れた話を朝書いて、午後にもそれまでに分かった情報で新たな原稿を作りました。

―その原稿というのは、ウェブサイト用に書いたということですね?

 そうです。朝1本書いて、午後も1本書くというパターンを1週間ほど続けました。他の人はもっと書いていましたけれども、とりあえず、「エコノミスト」のウェブサイトに利用者が来れば、何か読むものがあるように、現在の動きが分かるように、と思っていました。

 週明けの月曜日の朝、編集会議が開かれました。そこで、誰かが現地に行くべきだという話になり、その役が私に回ってきました。うちに帰って荷物をまとめて、現地に向かいました。

―現地には誰かと一緒に行ったのですか?

 そうです。いま「エコノミスト」があるこのビルの中で働いているオーストラリア人のジャーナリストと一緒に、お昼12時頃、車で出かけました。福島めがけて東北道を走っていましたが、福島ではメルトダウンが起きていたので、東京から1時間走ったところで新潟方面へ。新潟に着いたのは午後10時か11時だったと思います。それから山形に向かい、午前3時か4時ごろ到着。そこで一晩を過ごしました。寝たのは3-4時間ぐらい。7時には南三陸に向かっていました。国際救援センターを目指していたのです。

―いつもとは違う仕事ですね。

確かに。

―「エコノミスト」は分析・解説記事で知られています。今回は分析記事を書くのは難しかったのでは?

 確かに分析記事で知られていますが、外に出て取材をするのも私たちの伝統の1つです。ロンドンの本社で、忍耐強く省察を試みるという伝統からすれば、現地取材はあまり目立たないですが。どんなジャーナリストも、現地に行って目撃したいという思いがあるはずです。

 例えば、2008年に、チベットで暴動がありました。そこにいた唯一の西洋のジャーナリストが「エコノミスト」の記者でした。過去8年間、チベットに行きたいと申請を出していたのですが、その記者は当局にいつも断られ続けてきました。しかし、その年には中国政府から渡航許可を得たのです。暴動があるとは思っていなかったのですが。もちろん、当時は、誰もそんなことが起きるとは思わなかったのです。(注:ウィキペディアによると、2008年3月10日、中国チベット自治区ラサ市において、チベット独立を求めるデモをきっかけとして暴動が発生。「エコノミスト」のジェームズ・マイルズ記者がその場にいた。)

―当初、どのぐらい現地に滞在したのですか?

 私は6日間、行っていました。陸前高田に行って、大船渡にも行きました。それから青森にも。どこに行っても、目にしたのは破壊でした。特にひどかったのは、陸前高田でしたが。

―あれだけの破壊を目にしたら、1人の人間としても影響を受けたのではないでしょうか。

非常に深い影響を受けました。いまはこんなことを話すときではないかもしれませんが、あの光景を見てから、私の人生観が、そして私自身が変わりました。生涯、忘れることはないでしょう。

―本当に?

 もちろんです。

 いかに自然が破壊的になるかを目の当たりにしました。信じられないぐらいの破壊力です。人生とはいかに説明がつかないものなのかー。陸前高田では、町中から5キロほど離れたところに田んぼがありました。倒壊した家や木々や枝が散らばっていました。ここにいた家族が、その生活が、根こそぎバラバラにされたのだということがよく分かりました。その家だけでなく、ほかの人の家でもまったく同じことが起きていました。家族の誰かがそこで亡くなったり、消えてしまったのです。

 人間には、自分には制御できないことがあるのだということをしみじみと感じました。人生は非常にでたらめなのです。そこで私は、「心配する必要はないー私の人生の終わりの時が来たら、もうそれから逃れることができない」、と思いました。

 ある民家が無事で、ある民家がまったく無傷のままだったのは何故なのか。理由はないのです、単にそういう結末になったというだけです。「自分がやるべきことをやれ、そこでゲームオーバーになったら、それはそれなんだ」ーそう思うことができました。

―来るべき時が来たら、すべてが終わり、と。

そうです。それと、日本的な心の持ちようにも救われました。「これが人生だ、何かが起きたらこれを受け入れ、進んでゆく」という考え方です。自然災害を体験したことがある国だからこそ、一種の国民的な性格になっているのでしょう。そして、日本国民のタフさ、無私の精神にも感銘を受けました。

幸運にも津波を生き残ったある人に取材しました。全てを失った人でした。家が流され、屋根の上にあがって生き延びたのです。いまは妻と一緒にカナダに移住している人ですが、今でもメールで連絡を取り続けています。

ジャーナリストとして、何が起きたかの報道することは、道義的な面からも意味がありました(目に涙がたまる)。震災は感情に訴えかける出来事でした。報道、ジャーナリズムという手法だけでなく、詩によって表現したほうがもっと実情が伝わったかもしれないと思います。

―日本のジャーナリストや小説家の中で、「今回起きたことを表現するには時間がかかる」、「自分の中で言語化するにはもっと時間が必要だと思った」、と書いているのを読んだことがあります。

 そういう思いはよく分かります。今回も、また震災以前の別のときにも、「時が熟していない」、「言葉がまだ準備できていない」、あるいは自分自身がもっと考えを熟成する必要があるなどの理由で、言語化をためらう経験をしたことがありました。

「言葉でいかに伝えるか」

 現地にオーストラリア人のジャーナリストたちと行ったときに、車で回っていたのですが、同乗していたのがオーストラリア人の写真家でした。この写真家は、10分おきぐらいに車を止めさせて、外に出て行って、写真を撮っていました。

 このとき、私はメモ帳を手にして、車の後部座席に座っていました。周りの光景を見て、メモを取りながら、考えていました。写真家だったら、車の外に出て、シャッターを押します。そこで仕事は終わりで、人々は写真を見て、感動するでしょう。そこで私は自分に誓ったのです。よし、ここで見たことを熱をこめて書くぞ、と。読んだ人に忘れられない強い印象を残すような記事を書くぞ。と。

 1枚の写真が数千語の文字に匹敵すると人は言います。そこで私は言葉を使って、強い印象を残す文章を書こうと思いました。読み手に何が起きたかを本当に伝えることが使命だと思いました。

―それほどまでに記者個人として強く感じたのであれば、「エコノミスト」では記事は無記名で、「1つの声」として書くので、こうした点に限界を感じなかったのでしょうか。

 それは大丈夫でした。締め切りの話に戻りますが、次の号が出る頃には、震災発生から一週間が過ぎていました。既に読み手はたくさんの写真や動画をテレビや新聞で見たり、記事を読んだりしているわけです。ドラマを越えた何かを読者のために提供する必要がありましたので。

 トリックス支局長は東京にいて、情報収集に力を入れていました。私は現場にいて、何が起きているか、人々の反応を探る作業をしていました。

 記事の中に、もっと感情的な要素を入れたいと思ったのは確かです。でも、最終的にバランスよくできたと思っています。この大きな人間の悲劇に心を動かされなかった人はいないだろうと思います。自然が引きおこした・・・(言葉に詰まる)・・・自然の破壊です。心で感じて、頭でも感じるわけですね。何が起きているのか、何が起ころうとしているのか、再建策は何か、当局がどうやって避難民を扱ったのか。

 私が衝撃を受けたのは・・私たちが作り上げた文明が破壊され、流されてしまったことです。バラバラにされて、無になるほどめちゃくちゃにされてしまいましたー。

 これを口に出すのは厳しいようですが、最後には、あなたが誰であろうと、どこからきて、身分証明書に何が書いてあろうと、最後には、すべてが瓦礫になってしまう。木やダンボールの一部、壊れたガラス、瓦礫の山―そんなものが最後には残っただけなのですーそんなことを考えていました。(つづく)
by polimediauk | 2012-01-08 07:12 | 日本関連