英新聞界を大きく揺るがせた無料新聞の波 ―その発祥と成長の経緯から、将来を探る
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英国の新聞界を大きく揺るがせた無料新聞の波
-その発祥と成長の経緯から、将来を探る
英国でも、日本同様、企業、地方政府、中央政府の各省庁、公的及び民間団体、そして個人によるさまざまな無料の出版物が発行されているが、本稿では、新たな市場を創出したという意味で画期的な無料新聞に焦点を当ててみたい。
現在、ロンドン近辺のみに限っても、英国では平日一日に約160万部の無料新聞が発行されている。英国の無料新聞(=無料紙)の生成から発展の経緯、そして今後を分析してみる。
―「無料新聞」とは何か?
本稿で言及する英国の「無料新聞」(フリーペーパ、フリーシート)だが、大きな特徴として、これが正真正銘の新聞であることが挙げられる。この点は欧州各国でも同様である。広告掲載が主になって、これにニュース情報「も」掲載されているといった類の発行物ではない。紙面構成も日本で言うと朝刊全国紙を思わせる体裁になっている。有料新聞にしてみれば、ライバルと目される位置に立つ。
有料新聞と大きく異なるのは、短時間で読めるように、1つ1つの記事が通常の新聞よりは短くかつ読みやすい文章になっている点だ。「20分で読める」のが謳い文句だ。通勤時に電車の中などで読み終えてしまうことを想定している。有料新聞はブランケット判と呼ばれる、朝刊サイズの大判が多いが、無料紙は小型タブロイド判が基本だ。
配布方法は、毎朝、駅の外で配布員が直接手渡すか、駅構内に置かれたラックに山積みにされる。通勤電車の中で無料紙を読み終えた乗客が車内に新聞を残しておくと、新たに乗車してきた人がこれを座席から拾って読むという光景はおなじみとなった。
想定読者は年齢が20代から40代後半の仕事を持つ人々だ。一定の可処分所得を持つ層になるので、こうした層にアピールする物品やサービス(例えば携帯電話、化粧品、娯楽、旅行など)の広告がメインとなる。
―英「メトロ」の創刊は1999年
1990年代半ば、スウェーデンで無料新聞「メトロ」が創刊された。その後、欧州を中心に世界各国で無料紙の発行が広がってゆく。現在、メトロ・インターナショナル社(本社:ルクセンブルグ)が発行する無料紙「メトロ」は世界の1000都市以上で発行され、約1700万人が読む。
英国では、スウェーデンの新聞の英国上陸を察知したアソシエーテッド・ニューズペーパーズ社が、1999年、英国版無料朝刊紙「メトロ」をロンドンで創刊した。発行部数の長年の下落に悩んでいた英国の新聞界は、当初、「無料紙=中身がない新聞」という見方をしており、「メトロ」を脅威とは見ていなかった。
ところが、毎朝、駅構内の新聞ラックに置かれている「メトロ」があっという間に無くなる現象が起きた。読者の大きな支持を受けて、アソシエーテッド社はロンドン市内の発行部数を増やすとともに、地方都市版も次々と発行した。
創刊から5年後、「メトロ」は100万部前後の発行物に成長した。英国の当時の発行部数の最大は大衆紙「サン」(約300万部)で、これに同じく大衆紙「デイリー・メール」、「デイリー・ミラー」(いずれも約200万部前後)が続いた。「メトロ」は英国で4番目に発行部数が多い新聞となった。
ちなみに、英国の新聞は、大雑把に言うと「高級紙」(「タイムズ」、「ガーディアン」、「デイリー・テレグラフ」、「インディペンデント」など)と「大衆紙」に分かれる。前者に最も近いのは日本では全国紙である。後者は文章がより読みやすく、ゴシップ、娯楽関係の記事が多い。発行部数の面からは大衆紙が圧倒的な位置を占める。例えば、「サン」が300万部を出していた頃、高級紙は4大紙の部数を合わせても300万部を切るほどであった。
―無料が好まれる背景
「メトロ」を支持する理由として読者が挙げたのは、「無料であること」、「小型で持ちやすいこと」、「読みやすい」、「報道が中立」であった。これは、有料新聞に対する反対票でもあった。当時、高級紙は大判で、混雑した電車の中では広げにくかった。また、英国の新聞は編集部の政治方針や価値観を明確に表に出す。「中立なニュース」はあまりない。このため、「新聞報道は偏向している」とする批判を招く原因ともなっていた。
「無料」は英国メディアを理解するうえでの重要なキーワードでもある。
というのも、英国のニュース市場で大きな存在となる英国放送協会(BBC)は、日本のNHKの受信料に相当するテレビ・ライセンス料を運営費として、国民に幅広い娯楽・情報番組を無料で放送している。BBCのニュースサイトにアクセスすれば、動画も含めたニュース情報が無料で入手できる。
さらに、英国の新聞界は、長年にわたり、自社ウェブサイト上の記事を過去の分も含めてすべて無料で提供してきた。インターネット上でも無料でさまざまな情報が提供されており、ネットが普及するにつれて、いつしか、「ニュース情報=無料で得るもの」という感覚が出てきた。こうした中での無料新聞の発行は、多くの英国民にとって時代感覚に適応した動きであった。
広告主にしてみれば、若者層、通勤客層に対象を絞って出稿できる無料新聞「メトロ」は、好景気を享受していた英国で、効率的な、魅力ある媒体であった。
小型判で人気となった「メトロ」は、部数下落に苦しむ高級紙の体裁にも影響を及ぼした。
2003年、「インディペンデント」紙が大型判と小型判を平行発行。後に小型判のみに移行した。小型判には「大衆紙」、つまりは低俗な新聞というイメージがついていた英国で、思い切った転換であった。同紙の小型判化は「斬新」と評価され、部数を一挙に伸ばした。「タイムズ」もまもなくして小型判化し、後に、「ガーディアン」は縦に細長い「ベルリナー判」に変更した。
2005年には、ロンドンの金融街シティ近辺で配布される、経済・金融専門の朝刊無料紙「CITY AM」が創刊。今年年頭時点で約10万部を配布し、想定読者は35万人という(ウェブサイトより)。
2006年、朝刊無料紙「メトロ」の人気にあやかろうと、発行元アソシエーテッド社は今度は夕刊無料紙の発行を計画した。
「サン」や「タイムズ」などを発行するニューズ・インターナショナル社もこれに参入し、同年夏、「ロンドン・ペーパー」を創刊した。数日後、ア社も「ロンドン・ライト」を創刊し、ロンドンの新聞市場に新たに100万部を超える新聞がなだれ込んだ。一つの通りの両脇にライバル紙の配布員が並び、競うようにして通行人に新聞を手渡す光景が見られた。
無料紙の乱立で窮地に陥ったのが、創刊から180年余の歴史を持つ有料夕刊紙「イブニング・スタンダード」であった。
スダンダード紙は駅構内の専用ブースで新聞を1部50ペンス(当時の値段で約80円)で販売してきた。決して高い値段ではなかったが、朝刊無料紙「メトロ」の市場参入や、ネットの普及によって読者の中に強く根付いた「ニュースは無料」という固定概念が災いし、苦戦を強いられるようになった。その上に新たに夕刊無料紙2紙が入ってきたことで、スタンダード紙の販売部数は40万部から20万部に半減した。専用プリペイドカードの導入やコスト削減も功を奏さず、2009年1月、ロシアの富豪で旧ソ連国家保安委員会(KGB)の元スパイ、アレクサンドル・レベジェフ氏に1ポンドという廉価で買収された。
2008年秋、米投資銀行リーマン・ブラザース破綻をきっかけとした金融危機以降、英国経済は不景気に向かった。広告収入の激減に英メディア界は苦しみ、「ロンドンペーパー」と「ロンドンライト」は09年秋、廃刊となった。
―「スタンダード」も無料化、新たな有料化の動き
レベジェフ氏は、2009年10月、「スタンダード」紙を無料化した。買収直前には年間10億ポンド相当の負債を抱えていたとはいえ、もとは有料で、長い伝統を持つ新聞の無料化は、少なからぬ衝撃を持って受け止められた。
レベジェフ氏が買収後、すぐに手をつけたのは、スタンダード紙の新たなブランド化であった。
まず、高級層向け雑誌「タトラー」の編集長をイブニング紙の編集長に就任させた。高額のマーケティング費用を費やして(「今まで読者の意向を無視した紙面づくりをして、ごめんなさい」などの文句が入った謝罪広告が著名)注目度を高めた。当初は有料新聞のままだったが、「ロンドンペーパー」、「ロンドンライト」が消えた後で、無料化に踏み切って部数を伸ばした。
筆者は、無料で新聞を読むことに慣れた読者がいたことが成功の大きな理由の一つではないかと思う。朝刊無料紙メトロの後の時間帯に、ロンドン市場には無料紙はなくなっていた。夕方、帰りの電車に乗る通勤客は、ラックからさっと拾える新聞となったスタンダード紙をついつい手にしてしまうのだ。「朝はメトロ、夕方はスタンダード」というパターンができあがった。
買収直前は17万部ほどを販売していたスタンダード紙だが、現在は70万部近くが配布されている。同紙は、無料紙の回し読みが習慣となった約150万人のロンドン市民にリーチしているという(ウェブサイトより)。読者の74%は上流から中流層で、15-44歳は69%、全体の62%が男性だ。不景気とはいえ、これほどターゲットが絞られている媒体は、広告主にとって魅力的な存在だ。
一方、「メトロ」のほうだが、アソシエーテッド社の親会社DMGT社の2011年度年次報告書によると、同紙は8200万ポンド(約106億円)の収入を上げている。これは前年度比14%増。「メトロ」は英国全体で140万部近くを配布しており、ウェブサイトを訪れるユニーク・ユーザー数は440万人に上る(昨年9月時点)。これは前年同期比47%増である。
無料化がトレンドとなる中、2つの派生した動きが発生した。
1つは、長く続いた部数の下落で背に腹をかえられなくなった新聞各紙が、デジタル版の有料化を始めたのだ。まず、「タイムズ」などニューズ・インターナショナル社傘下の新聞が、ウェブサイトの閲読を2010年7月から有料化し、かねてから、サイト上で無料で読める記事の本数を限定してきた経済高級紙「フィナンシャル・タイムズ」は無料閲読の本数を減少させた。また、最後までサイト記事の無料閲読の方針を維持してきた「ガーディアン」も、携帯機器で閲読するアプリの有料化、タブレットでの閲読の有料化などを段階的に導入している。
もう1つの動きは、レベジェフ氏がスタンダード紙の次に買収したインディペンデント紙が、2010年10月末、弟分の新聞として「i(アイ)」を創刊したことだ。
「i」は無料ではないが通常の高級紙の5分の1の価格(一部20ペンス)で販売され、1つ1つの記事が短くて読みやすい。小型タブロイド判で、視覚を重視している点なども「メトロ」を始めとする「20分で読める」無料紙に非常によく似ていた。「インディペンデント」は現在、約17万部を発行しているが、「i」はすでに24万部を超えている。読者は本紙よりも「i」を好んでいるのである。
英国での無料紙隆盛のさまを見ていると、将来の新聞の姿が見えてくるようだ。ネットが普及した現在、読者はもっと安い値段で新聞を入手したがっている。より短くかつ読みやすい記事を求めていることも判明した。電車に乗ったときに、窓の外を眺めるよりは、何かを読むことを選択する人がかなりいるのは心強い。
無料新聞の人気は、有料新聞を発行する新聞社に対し、「人々は違った形で新聞を読みたがっている」ことを告げているようだ。放送業界のように運営経費を広告や助成金でまかないながら、コンテンツ自体は無料(か廉価)で提供するという方法を新聞業界がまともに考えてみるときが来たのかもしれない。少なくとも、読者はそう言っているように見える。広告にのみ頼るようでは不景気の折に経営が不安定になりやすいため、この点への考慮が肝要だがー。(終)