ロンドン五輪④ 1908年の五輪とは
前者はローマが開催を返上したためロンドンとなり、後者は第2次世界大戦で中止あるいは延期されていた大会が実現したもの。「困った時のロンドン頼み」で主催地となった経緯が共通している。英国は、過去116年間、継続して選手を送ってきた国でもある。
果たしてどんな大会になったのか、過去の大会の様子を振り返ってみたい。(「英国ニュース・ダイジェスト」1360号掲載分に補足。)
―1908年大会総括
1906年、イタリアのベスビオ山が噴火し、当初開催予定となっていたローマが開催を返上。これを引き取ったのがロンドンであった。
英国と国力を増大させていた米国とが互いをライバル視し、関係が険悪化した。これを納めるために米選手団に随行中の司教が「重要なのは勝利することよりも参加したこと」と説教を行った。近代五輪の創始者クーベルタン卿がこれを五輪精神として広めていったという。
この大会でマラソンの走行距離が42・195キロメートルに設定されている。メダル獲得の最高は英国(146)で、2位は米国(47)だった。
―大会のハイライト
①「ドランドの悲劇」を見せた伊走者
マラソン競技で、コース最終地点であった競技場に最初に到達したのがイタリア人選手ドランド・ピエトリであった。
暑さと疲労で数回にわたって倒れ、係員に抱えられながらゴールしたピエトリ選手が勝者とされたが、米国がこれに抗議。ピエトリ選手の勝利は取り消され、ジョニー・ヘイズ米選手が金メダルを獲得した。ヘイズはテーブルに乗せられ、競技場を練り歩いたが、聴衆はヘイズを勝者とは認めなかったという。米国と主催国英国との関係はこれもあって悪化した。
クーベルタン卿が五輪は「参加することに意義がある」という主旨の米司教の説話を友人たちに繰り返したという。
閉会式にピエトリが登場すると聴衆は大きな歓声をあげ、アレクサンドル王妃が特製のゴールド・カップを授けた。米国関係者の反英感情はますます強くなってしまった。
②綱引き 英国に負けた米国チーム
米国チームにはなじみのない競技で、突き出た釘などがついた靴の使用は規則で禁じられていた。そこで米チームは普通の靴を履いて参加した。
英国のチームは北部リバプールの警察官たちで構成され、警察官が履く、ごつく、重い靴を使用した。まるで子供対大人の競技のように、あっという間に結果が出た。英チームの圧倒的勝利である。
米側は英側の靴が不当だと抗議したが、英側は警察官が日常的に履く靴だと説明した。英側は2回戦を申し出たが、米側は、英側が別の不当な手段を使うと考え、申し出を拒否して、競技場から立ち去ってしまった。
綱引き競技の金メダルはロンドンシティー(金融街近辺)警察が、銀はリバプール警察が、銅はロンドン警視庁のチームが獲得した。英国チームの独壇場となった競技であった。
③400メートル競争

接戦となったのがトップを走るハルズウェルと米国のジョン・カーペンター選手。当時、トラックには個々の走路を区別する線が引かれていない状態だったが、カーペンターは追いつこうとして、ハルズウェルのトラックに入り、抜かれないようにした。聴衆はカーペンターがずるいことをしたと見て抗議の声を上げだした。全員が英国人であった審査スタッフは競技を無効とし、カーペンターを反則、失格とさせた。米国チームの統括者はこれに激怒し、2日後に予定されていた再競技に米チームを出場させないことに決めた。
当日、ハルズウェルは1人でトラックを走り、金メダルを獲得した。ハルズウェルにとって最後の五輪だった。1915年、第1次大戦中に戦死したからである。
④水泳 世界初が続々と
100メートルの水泳競技では、5つの世界記録が出た。選手の質が高いことの証明でもあろう。
5つの新記録の中で、3つを打ち立てたのはランカシャー州の炭鉱労働者の息子ヘンリー・テイラーであった。地元の川で泳いで力をつけたテイラーは、クロール泳法の原型となった泳法「トラジオン・ストローク」を駆使して、金メダルを受賞した。
ダイビングが五輪競技に初めて入り、高所から水中にダイブする女性選手の姿は多くの聴衆の耳目を集めた。ダイビング競技用のプールは、もともと、ルアー釣りのコンテストに使われたものだった。
⑤アーチェリー:最高齢の女性の金メダリスト
アーチェーリー競技に女性が参加したのは1904年のセント・ルイス大会である。ロンドン大会では38人の女性選手が競い合った。
女子金メダルは53歳の英国人女性シビル・ニーウォールが獲得。彼女は五輪のこれまでの金メダリストの中で、女性では最高齢となる。
女子銅メダルは同じく英国選手のシャーロット・ドッド。ドッドは類まれなるスポーツ選手で、ウィンブルドン・テニスの女子シングルスで5回優勝した上に、ゴルフ、ホッケー、スケートでも優れた才能を見せた。兄のウィリアム・ドッドも五輪選手で、男子金メダルを44歳で達成した。兄弟が五輪の同大会で金メダルを獲得する最初の例となった。
ちなみに、本大会の最高齢の参加選手はライフル射撃で金メダルを得た、60歳のスウェーデン人オスカー・スワーンであった。(次回は「1948年のロンドン五輪」)
(参考:London Olympics 1908 and 1948 by Janie Hampton、英各紙ほか)