小林恭子の英国メディア・ウオッチ ukmedia.exblog.jp

英国や欧州のメディア事情、政治・経済・社会の記事を書いています。新刊「英国公文書の世界史 一次資料の宝石箱」(中公新書ラクレ)には面白エピソードが一杯です。本のフェイスブック・ページは:https://www.facebook.com/eikokukobunsho/ 


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ライブドア考 日刊ベリタより

 オンライン新聞日刊ベリタ(www.nikkanberita.com)に、無料記事としていくつかメディア関係の記事が載っていたので、紹介してみたい。

 1つめはライブドア。ライブドアに関しては様々なことが書かれ、現在でも日本では継続して報道が続いていることだろう。

 日本の外にいると、細かいニュアンスまではよく分からないが、「どうしてライブドアが国民的議論になるのか?」「どうしてこれほどまでに熱が入った議論になっているのか?」に興味が湧いた。

 「お金でなんでも買おうとする」「メディアの公共性への不理解」ということでライブドアを批判すれば、では既存のメディアはどうなのか、あるいは海外に進出している日本企業の一部が「お金を盾に」という目で見られている部分はどうしたらいいのか、市場原理主義・マーケットエコノミーを日本は信奉しているのではなかったか?などの疑問につながる。また、大きくなったとはいえ(読者は200-300万人?)、ネット・ポータルとしてのライブドアにはコンピューターの電源を入れてアクセスする作業があってはじめて、つながるので、テレビやラジオほどには影響力があるとは思えず、どうして無視できない存在になるのかなと思ったりもした。既存メディアを買収したとはいっても、日本にはたくさんのチャンネルがある。つまらないチャンネルは淘汰されるのではないか?

 ベリタの記事で永井浩さんが書いているように、新しいところ、注目すべきところは、やはりネットと放送の融合ではないか、と思っている。

 ライブドアの存在で日本がこれほど大きく揺れるようだと、欧州で人気の「フリーペーパー」(既存の新聞の内容を若干簡素にした無料新聞。通勤客を中心に大人気)が、もし日本に到来したら、一体どうなることか、と思う。おそらく、到来することはないだろうが・・・。既存の新聞のライバルになるようなメディア、新聞市場を直接侵食するようなライバル新聞の存在を、既存新聞社側が許すはずがない。

〔以下は貼り付けです。)

【コラム】「海老沢ホリエモン」考 市民を置き去りにしたメディア再編論議 〔5月19日)

 16日公示の今年の長者番付(04年分高額納税者)で、ニッポン放送株をめぐり数百億円を動かしたホリエモンことライブドア社長、堀江貴文さんの納税額が意外と少ないことが話題になった。フジテレビを巻き込んだ攻防劇はひとまず幕を下ろしたかに見えるが、まだ波乱が予想される。今後の展開によって、彼の来年の番付ランクがどう変動するかはさておき、久しぶりに「時の人」がメディアに登場した機会に、ホリエモン騒動とは何だったのかをあらためて振り返ってみるのも無駄ではあるまい。(ベリタ通信=永井浩) 
 
 桜の開花が待ち遠しくおもわれる一夜、私は東京の湯島天満宮に、柳家小はん師匠の落語独演会を聴きに行った。出し物はふたつ、いずれも江戸を舞台にした古典で、がまの油売りと富くじを題材にしたものだった。前者には、海老沢ホリエモンなる怪しげな人物が登場する。NHKの海老沢勝二前会長とライブドアの堀江貴文社長をもじった創作で、原作では別名にちがいない。 
 
ライブドアとフジテレビの攻防はこんなところにも影を落としているんだな、とニヤニヤして聴いていると、富くじの噺でも師匠はこれを枕にふった。堀江社長が「この世にカネで買えないものはない」とうそぶいてひんしゅくを買っていることにふれ、「では、1億円の小切手を受け取った元首相は?」とチクリ。そして、1億円はおろかライブドアとフジテレビ、ニッポン放送の攻防でとりざたされる数百億円の世界とは無縁の庶民が、それでも一攫千金を夢見てくりひろげるドタバタ騒ぎへと、江戸時代の富くじを題材に面白おかしく噺を進めていく。 
 
▼拝金主義はホリエモンだけか? 
 
 堀江社長の評価は、さまざまな調査で「支持」と「不支持」がほぼ拮抗している。「不支持」の理由は、「この世にカネで‥‥」にみられるような言動が反発をまねいているようだ。たしかにこの言葉はいただけないが、ではそれを批判するならホリエモン以外にだって当てはまるのではないのか、というのが小はん師匠のチクリなのである。 
 
 政府・自民党のエライ政治家たちには堀江氏への風当たりが強いようだが、では札束で政治を左右しようとする金権政治はどうなのか。橋本派の1億円献金問題は氷山の一角にすぎない。あるいは、日本の国連安保理常任理国入りに対してアジア諸国が積極的な支持を表明しないのはなぜなのだろう。これらの国々から見ると、日本政府は国際的な地位や名誉をカネで買えると思い込んでいて、金銭的な力では買えないもっと大切なものに価値を置こうとしない、と映っているからなのではないだろうか。 
 
 たとえば、今年は1965年の日韓国交正常化から40周年にあたり、韓国側では日韓条約などをめぐる見直しの動きがみられるという。多くの韓国国民にとっていまだに釈然としないのは、韓国側が国交の前提として強く求めつづけてきた日本の植民地支配への謝罪を日本側が最後まで認めず、経済協力で決着を図ろうとしたことである。韓国をふくむアジア各国の元従軍慰安婦たちの多くは日本政府に、「金銭的な償いはいらない。欲しいのは、日本政府からの謝罪のひと言なのだ」と訴えつづけているが、日本政府は聞く耳をもとうとしない。 
 
▼「メディアの公共性」の正体 
 
 ライブドアへのもうひとつの批判は、メディア戦略がはっきり示されていないというものだ。カネにまかせて既存の大手メディアを買収することだけに急では、ジャーナリズムの基本精神が失われかねない、というのだ。そこでライブドアの攻勢への防御としてフジテレビ、ニッポン放送陣営がもちだしたのが、「メディアの公共性」である。 
 
 たしかに堀江社長の発言には、メディアの社会的役割やジャーナリズムへの理解が不十分な点があることは否定できない。しかし、これまで「面白くなければテレビじゃない」と言ってきたフジテレビはじめ、視聴率競争を最優先してきた大手テレビが、にわかに「メディアの公共性」をふりかざしてもピンとこない。「皆さまのNHK」を看板にしてきた公共放送が、じつは海老沢会長のもとでは永田町の目を気にしながら番組制作してきたことも、戦時性暴力をテーマに元慰安婦らの証言を取り上げた番組が改変されたことで明らかになった。 
 
 だから、ライブドアもNHKも民放も政治家も同じ穴のムジナ、いや「海老沢ホリエモン」なのだというのではない。問題は、ライブドア旋風がなぜこれほど大きな話題となるのかである。米国流のマネーゲーム、堀江社長のキャラクター、新旧世代の対立と時代の閉塞感など、さまざまな要因があげられるが、見落としてはならないのは、この騒ぎがメディアの再編という大きな時代のうねりの一環だという事実である。 
 
▼放送と通信の融合時代の幕開けだが‥ 
 
 ライブドアがめざしているのは、インターネットと放送の融合、つまり通信と放送の融合である。これまで電波は国民の希少な公共財とされ、テレビ局は放送法と電波法に守られて放送免許を割り当てられてきた。これによって報道、ドラマ、バラエティー、音楽などのコンテンツ(番組)を独占的に電波によって流すことができ、それがテレビ局の高収益を支えてきた。だが、デジタル化が進み、インターネットという新しいメディアの台頭によって、放送局を通じなくてもインターネットで番組を見ることができるような時代になりつつある。これはテレビ局の既得権をおびやかすものだから彼らがはげしく抵抗するのは当然だし、いっぽう通信会社はメディアに参加して魅力あるコンテンツを獲得することで顧客の増加をめざそうとする。 
 
 このような通信と放送の融合が今後どのように展開し、わたしたちの情報空間をどのように変えていくのかはまだわからない。新しいメディア時代は始まったばかりであり、日本でその時代の扉をやや乱暴なかたちでこじ開けようとしたのがライブドアの堀江社長なのであろう。 
 
 だが、どのようなメディア環境になろうと変わらない事実がある。いかなるメディアも視聴者や読者の支持なしには生き残れない、ということである。 
 
 テレビが登場したときは、活字メディアの衰退が懸念されたが新聞、雑誌などの役割はいぜんとして無視できない。テレビには太刀打ちできない力を発揮できることを、わたしたちが理解しているからだ。インターネットについても同じことが言えよう。インターネットが普及したからといって、テレビがそれにとって代わられることはありえないであろう。メディアがさらに多様化しただけであり、それぞれのメディアがその特長をいかした相互補完関係が進むことが望ましい。 
 
 そしてテレビ局が生き残ろうと、インターネットで多くの番組が流されるようになろうと、私は小はん師匠の噺はやはり寄席や独演会まで足を運んで楽しむであろう。落語はまわりの客といっしょに笑い転げながら聴くのが最高だと思うからである。オペラファンなら、テレビやインターネットで飽き足らないと思えば、多少高いカネを払ってでも生の舞台を観賞しに行くだろう。 
 
 ライブドアとフジテレビの攻防をめぐりメディア再編論議も交わされたが、その多くは技術論が中心で、メディアの主役はあくまでわれわれ読者、視聴者であるという視点が希薄だったようにおもわれる。やがて始まるであろう攻防劇の第二幕は、市民の役割も加えた展開であってほしい。 (本文は、『財形福祉』(財形福祉協会発行)の5月号に掲載されたコラムを一部手直ししたものです) 


〔引用・貼り付け終わり)
by polimediauk | 2005-05-22 16:14 | 日本関連