今回、日本で感じたこと -一歩踏みだすと、まったく新しい世界が開けてくる
普段私は日本に住んでおらず、日本のメディアを詳しくウオッチングしているわけでもないので、十分に論評できるほどの事実をつかまえていないと思っている。
しかし、印象論のレベルで言えば、「これはもしかして、まずいのではないか?」と思ったことはある。今回、特にそれを感じた。
その印象をまとめて見ると、「いくつかの小さなことが日本で起きていない、あるいは非常に小規模でしか、起きていない。一つ一つは、ある意味ではたいしたことはないが、総合すると、これだけ知的レベルが高い国民がいる先進国としては、非常に残念な状態となっている」。私はこうした状況に、愕然としている。
英国は日本からすると、別世界の感がある。言語も文化も、歴史も地政学的条件も違うから確かに別世界だけれども、あえて、この「別世界ぶり」を書いたほうがいいのかなと思った。
日本が英国たれ、と思っているわけではない。住むほどにこれほど違う国もあるかなと思うほど、異なる二つの国。日本が英国の模倣をする必要はなく、「英国=日本が理想とするべき国」とも思っていない。
しかし、いつぞやの「ハイテク日本」が「時が止まった昔の国」に見えてしまう部分があって、「これは、やばいぞ」と思わざるを得なかった。
日本で起きていない、あるいは非常に小規模でしか起きていない「いくつかの小さなこと」、「一つ一つは、ある意味ではたいしたことはないが、総合すると非常に残念な状態」と私が思うことを、いくつか、挙げてみたい。
(1)カード決済ができない店舗が、いまだに結構ある
大量の現金を持ち歩かず、カード(クレジット、およびデビット)でほぼすべてを済ませてしまう英国で暮らしていると、日本の店舗でカードが使えないところがまだあったりすることに驚いてしまう。といっても、日本でも、ほとんどのところでは使えるのだけれども、英国ではカード利用ができる店舗が徹底している。現金中心の生活だと、いざ大きな買い物をしようとしたら、事前に銀行からお金を引き落とし、財布に持っていないといけない。いつ大きなお金(といっても、2-3万円のことだけど)を使うかは予測できない場合もある。現金中心主義は行動の自由度を狭められるようで、窮屈さを感じた。
(2)ATMが24時間体制になっていない
自分の銀行のATMでも利用時間に制限があり、他行となると、利用時間がもっと狭められる。行動の自由を縛るように思える。
(3)海外で作ったカードを使えるATMが限られている
郵便局とセブンイレブンのATMでは使えるが、私の経験からは、他行では原則、使えない。欧州他国やトルコでも、普通の銀行のATMから英国で作ったカードで現金引き落としなどができるのだが。銀行の決済体制が、よそ者に「閉じられている」感じがする。
(4)プリペイドの携帯電話が多くない
一部で限定的にはあるが、一般的にはプリペイドの携帯電話が選択肢の中に入っていないようだ。空港ではレンタルサービスがあるが、契約者として登録してから使えるようになる。外からふらっとやってきて、携帯電話を買って使うようにはなっていない。プリペイド携帯がある国からやってくると、日本では日本に何らかの形で根を下ろした人を対象にしたサービスになっているので、不自由な感じがする。
日本に住んでいる人からすれば、(1)から(4)についてあまり不便さを感じないかもしれないし、「関係ない」と思われるだろうか?
そんな方には、ある人による都市の定義を紹介したい。
フィンランド・ヘルシンキで会った、ソマリア人の移民の男性と話していたときだ。「都市の特徴は、無名でいられること」と言われ、どきっとしたものだ。
人口が極度に少ない、ある小さな村のことを考えてみよう(あくまで例として)。誰もが誰もを知っている。良くも悪くも互いの行動を知っている、ある意味では監視して・されている。無名では生きられない。ところが都市には、顔を見ても誰かを識別できないほど色々な人が生きている。
村では派手と見られる服装をしたら、親戚や親が何か言うかもしれない(言わないかもしれないが)。ところが都市では、他人は眉をつり上げることさえしない。自分で行動に責任を持つならば、どんな風に生きても誰にもうるさく言われない。ロンドンに住んでいると、この「無名で生きられる自由」を感じる。
そこで、メディア、デジタル面の話になる。
(5)英国では、自由に生きるあなたのニーズを満たし、知識を与え、楽しませ、いつでも、どこでも情報(あるいは娯楽)が受け取れるように、メディア同士が競争をしている。
冒頭の話に戻れば、「日本の新聞界は、外から見ると、どうか?」と聞かれ、私は、「日本のメディア組織は、現状維持と組織を守ることを非常に重要視しているように見える」と答えた。
英国の場合、民間企業であれば、利益を上げることが目標ではあるのはもちろんだが、具体的には、(お金のことを考えつつも)利用者の利便性、自由度(=選択肢)を増大させ、自分たちのサービスを使ってもらえるようにする、つまりは、「利用者の心をつかむ」ことに、血道が注がれている。
日本の場合は、「組織維持、現状維持」のほうに傾いているように見えるが、いかがであろうか。
英メディアは、まず利用者のほうを向いている感じがする。利他的ということではなく、「市場」がそうする。競争が働くので、一社が便利なサービスをしたら、他者も同様のサービスを開始しないと、出遅れる(こうした市場中心主義への反対論も根強い。「占拠」運動はその1つだろう)。
(6)金持ちでなくても一定の質のサービスが受けられるように工夫されている
例えば、テレビのオンデマンド・サービスのことだが、これは1週間以内に放送された番組を無料で何度でも視聴できる仕組み(=見逃し番組再視聴サービス)。この件については前にも何度も書いているが、日本ではNHKなどもやっている。米フールーも利用できるようになっているが、有料である。
色々な規制やしがらみなどがあって、有料になっていることは理解できる。
しかし、英国ではBBCや民放テレビがこれを無料で提供している。
不思議に思われるかもしれないが、テレビのオンデマンドサービスが無料で使える状態というのは、視聴者に大きな自由感、解放感を与える。まるで「別世界」である。誰にも気兼ねなく、自分の好きなときに、好きな番組を、好きなプラットフォームで見れるのだ。テレビの前に張り付いていなくてもよいし、自宅に録画機を持つ必要もない。テレビ局が自社でコンテンツを維持してくれている。
例えば1ヶ月1000円を切るほどの利用料が、果たして高いかあるいは手ごろかといったら、「それほど高いとは思えない」という人が案外、いるかもしれない。しかし、ちょっと想像して見て欲しい、これがまったく無料になった状態を。
無料ということは、オンデマンドサービスが社会の基盤として提供されていることを示すだろう。一部の人向けに、「プラスアルファ」として有料で提供されるのではない。「基本」として、誰にでも提供されている。この意味は大きいと思う。
(7)大部分の新聞の記事が過去記事も含め、ネットで無料で読める
経済紙フィナンシャル・タイムズや一般紙でもタイムズは、電子版を有料課金制にしているのだけれども、そのほかの新聞はPCをつければ、無料で原則すべてが読める。
英国の新聞界は紙の部数がどんどん減っていて、台所事情は非常に苦しい。携帯機器用アプリを有料化するなど、苦心の策を講じているが、いったんPCをつけて、ブラウザーで該当新聞のウェブサイトに行けば、すべてが無料で読めるのである。
自殺行為?確かにそうかもしれない。でも、取材や執筆に時間をかけた新聞の記事をネット上で誰でもすべてが読める状態にすることで、いかに市民の知的議論が深まることか。「民主主義社会」という言葉を持ち出さずとも、計り知れない好影響があることは想像できるかと思う。
一方の日本の大手新聞の場合、ネット上には十分に記事が出ていない感じがする。先日、ある新聞の電子版を購読しようとしたら、紙を購読していないとだめと分かった。紙を守りたいのは理解できるが、がっかりしてしまった。読者(=私)が読みたい方法(電子版のみ)での購読の選択肢がないとはー!選択肢が狭められることは、自由度がせばめられることと同じだ。
売店に行って、新聞を紙で買うか、あるいは、定期購読者=契約者にならないと、十分に新聞が読めないのだ。これがとても旧式に映ってしまう。「公共空間(=ネット空間)に高品質の論考を出す」という面での責任はどうなるのだろう?(無料で新聞が読みたかったら図書館に行けばよいというのは、やや酷だろう。家の隣に図書館があればまだいいかもしれないが、知識への渇望は開館している時間のみには限らないし、ネットで情報を取ることがますます主になっている現在、この公空間に十分に出さないのはまずい感じがする)。
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ほかにもいろいろと目に付くことはあるけれども、いろいろなサービス形態が「日本に住む日本人」をもっぱら対象にしており、「ふらっと、自由に」かつ「無名」のままでは、サービスが利用できるようにはなっていないようだ。つまるところ、「閉じている」感じがする。窮屈な感じもし、自由度が少ない感じもする。
最後に、「日本は大丈夫か」ということをしみじみと感じたことを挙げておきたい。
(8)アマゾンのサービスが日本独特になっている
まず、最も話題になっている、アマゾン・キンドルの件がある。
もろもろの理由で、これまでに参入できず、いよいよ始まることになった経緯は、理解できる。それに、現時点で電子書籍端末には興味がない人がたくさんいるだろうことや、今後も大規模には広がらない可能性もまた、理解できる。
それにしても、である。まず、米国でキンドルが発売されたのが2007年末。英国を含む諸外国で販売されたのが、2009年である。日本はさまざまな理由から、2012年末からとなった。この間、諸外国と比較しても、導入までに3年のギャップがあった。デジタルの世界で、3年はかなり長い。
50年、100年単位で物事を考えたら、3年は短い。でも、この間に、米英では自費出版でベストセラーを出す人が続々生まれている。実際に使って見て、分かったこと、分からなかったこと、いろいろあるだろう。この間の知識や運用の経験・情報の蓄積はかなり大きいのではないだろうか。それに、実際に導入されていないと、この間、電子書籍端末にかかわる議論や商戦に、日本や日本のメーカーは、そして、日本に住む人の多くが本気では加われないことになる。これを私は悔しく思う。
そして、止めを刺すのが、アマゾンで販売されている本の価格に自由度があまりないことだ。普通、英米でアマゾンを使って本を買う一つの醍醐味は、あるいはほとんど唯一の醍醐味は、配達の速さよりも、値段である。アマゾンで買うと、書店で買うよりもはるかに本が安いのである。日本語キンドルの開始で、この状況は日本でも変わるだろうが、アマゾンで「本を半額以下で買えた」という喜びを享受できない状態というのは、これまた悔しい感じがするー。
このために、書店が大打撃を受けて、閉店に追い込まれるといった問題もあるだろうから単純な話ではないだろうが、どうも、出版社やそのほか、本を売る側の都合が大きな幅を利かせていたように見える。つまり、購買者としての国民が十分な利を得ていないのではないかという点が、心配なのである。
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それでは、一体どうしたらいいのか?という話になるが、とにもかくにも、読者、視聴者、利用者の利便がもっと反映される社会になって欲しいと願っている。
選択肢が幅広く、(より)自由な社会、かつ貧乏でも同等のサービスが受けられる国になって欲しいと、遠い国から思っている。勇気を持って一歩を踏み出せば、貧富の差や居住地の違いに関わらず、すべての人が享受できるサービスが実行できるのではないか。