小林恭子の英国メディア・ウオッチ ukmedia.exblog.jp

英国や欧州のメディア事情、政治・経済・社会の記事を書いています。新刊「なぜBBCだけが伝えられるのか」(光文社新書)、既刊「英国公文書の世界史 一次資料の宝石箱」(中公新書ラクレ)など。


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米映画「ゼロ・ダーク・サーティ」を観て -「テロの戦争」を振り返る

 米国で、2001年の米同時多発テロの首謀者オサマ・ビンラディンの捕獲・殺害(2011年5月)にいたるまでの経緯が映画化されると聞いたとき、すぐに思ったのは「まだ、早すぎるのではないか」であった。もう1年半以上前のことではあるけれども、ついこの間起きたような気がしていた。

 多くの人がまだ記憶にとどめる殺害からまもなくしての映画化は、配慮に欠ける感じもした。ビンラディンの遺体は地上で維持すれば神格化される、次なるテロを生み出すことになるとして、水葬=海中に落とされたと聞いている。殺害までの経緯のドラマ化は一部のイスラム諸国の国民にとっては米国側のプロパガンダに映るかもしれない。イスラム系テロ組織が、自分たちの都合の良いように映画を利用する可能性もある。映画の公開後、一部のイスラム諸国で米国旗が焼かれる場面を想像した。

 昨年末、映画「ゼロ・ダーク・サーティ」(軍事用語で午前0時30分)は米国で公開され、英国でも1月末に封切りとなったが、「CIAによる拷問を正当化している」という批判を浴びた。 

 米政府は、表向きには、拷問をやっていないことになっている。英メディアは、これまでに、水でぬらしたタオルで人の顔を覆う、いわゆる「ウオーター・ボーディング」は「拷問ではない」という米政府の説明を失笑気味で紹介してきた。横たわった状態で顔にこの濡れタオルを置かれ、上から水をかけられたりなどすると、息ができなくなる。水中におぼれたような感触があるという。これが拷問でなかったら、何が拷問なのだろうと、英メディアは問いを発してきた。

 拷問の場面が続くというこの映画、観るのが怖いような思いもあったが、自分の目で確かめるのが一番と思って、映画館に向かった。一体、ビンラディン討伐をどのように誇らしげに語っているのだろう、と。

 映画はCIAの若き女性分析官マヤが見た、ビンラディン殺害までの過程をたどる。監督はイラク戦争を題材にした「ハート・ロッカー」で2010年のアカデミー賞作品賞、監督賞などを獲得したキャスリン・ビグローだ。脚本は「ハート・ロッカー」のマーク・ボール。

 最初の場面は2001年の9・11テロの様子だ。すべてがここから始まったのであるー少なくとも米国民、そして「テロの戦争」に多かれ少なかれ巻き込まれた多くの人にとって。

 このテロは、米国民に計り知れないほどの大きな衝撃を与えたと聞く。この後で、「パラダイムが変わった」とよく米国の知識人が言うようになった。そんな重要な事件を、映画は画像なしで語る。ここからもう、この映画のトーンがきっちりと出ていたのだろう。

 途中で、ロンドン・テロ(2005年)の様子が出る。町並みをロンドン独特の赤いバスが走ってる。これだけでもう、「ああ、爆発が来るな」と分かる。案の定、まもなくして、「ドカン!」という音とともにバスが爆破する。一瞬、体がこわばり、映画館内の観客の体も少々揺れた。「これは、私の、私たちのドラマなのだ」-強くそう思った。

 その後はいくつかのテロがあり、ビンラディンの居場所を見つけるために、何年もの時が過ぎる。マヤは同僚を殺害され、自分自身も銃撃にあう。自分たち自身にも犠牲を出しながら、あきらめずにビンラディンの動向を突き止めるCIAのスタッフたち。その真剣さ、大変さの描写を見ながらも、ふと、同じ米政府が、そして私が住む英国の政府が一緒になって、アフガニスタンを爆撃し、イラク戦争を起こし、10万あるいは100万人単位の人がさまざまな形で犠牲になったのだということを何度も思い出した。

 9・11テロで3000人以上が亡くなったのは痛ましいが、戦争となると、死者、負傷者、行き場が亡くなった人など、負の影響を受けた人の数は桁外れに違う。死人の数だけで物事の重大さが決まるわけではないが、それにしても、なんと罪深いのだろうかー。画面に出てこない部分(イラク戦争など)が、気になった。ビンラディン追求の裏では大きな戦争が2つも起きていたー。

 圧巻は、ビンラディンがパキスタン北部アボタバードの隠れ家にいることを突き止め、米海軍特殊部隊「ネイビー・シールズ」が捕獲に向かう場面だ。実写と見間違えるほどのタッチで殺害までが再現されている。この場面を見るだけでも、この映画は十分な価値がある。

 「価値がある」というのは、「悪者を倒す」という意味で、勧善懲悪劇を楽しめるからではない。アクション・ドラマとして面白いからでもない。そういったもろもろの娯楽性を一切排した作りになっている。隠れ家のドアを爆破し、必要とあれば何人かを殺害し、ビンラディンを探し、捕らえるー。これがどういうことなのかが、よく分かるように撮影されている。

 映画を観終わって、その全体の厳粛さ、私情を挟まない冷静さに心打たれた。もっと愛国的な、勝利主義的な映画であろうと思っていたのが、全然違っていた。ここまで冷静に描くのは、随分と勇気が必要だったろう。監督と脚本家の知恵を見る思いがした。

 世界各国で多くの国がテロの戦争にはからずも参加させられた。「テロの戦争」という言葉は、ブッシュ前大統領の任期終了でひとまず使われなくなったけれど、一体、あれはなんだったのかー?9・11テロがあったからといって、他国にあのような形で侵攻して良かったのだろうか?

 アフガニスタンやイラクに開戦できたのも、そして、「ゼロ・ダーク・サーティ」のような最先端の映像技術を使った映画を作れたのも、米国が豊かで、世界で最強の軍事力を持つ、強い国であるからだろう。

 今後、私たち(=世界の米国以外の国に住む人たち)は米国の一挙一動に右往左往しながら生きてゆくので、果たしていいのだろうかー?

 テロの戦争について、テロについて、そして米国を中心とした世界の仕組みやイスラム諸国の動向、ムスリムの人たちの将来など、さまざまなことをこの映画は考えさせてくれる。

***

 映画の感想から話がずれるが、この映画が描く、ビンラディン殺害までの経緯が正確ではないと指摘する人が少なからずいる論点が多すぎて、すべてを紹介するのはかなり困難だ。

 上記の記事のほかにも、例えば映画はいかにもCIAの諜報情報のみでビンラディンがつかまったかのように描くが、もちろん、米政府のさまざまな組織、スタッフの協力のたまものであった、あるいは拷問によってビンラディン捕獲への道が作られたのではない、など。

 また、「なぜ今、この映画を作ったのか」と疑問を呈し、「拷問の場面を入れること自体が拷問を正当化している」と主張する論客もいる。

 私自身はテロの戦争にからむ拷問や容疑者の取り扱いについては、さまざまな映像をこれまでに目にしてきているので、映画での描写はそれほどショックではなかった。また、実際の尋問は映画の描写よりはひどいものだと思っている。CIAが映画で描かれたような尋問をしていたことはほぼ常識となっているし、事実を入れたという面からは問題はないと思った。

 パキスタンではこの映画は公式上映はされていない。海賊版が出回っているという。パキスタン人から言わせると、おかしな場面がたくさんあるそうだ。例えば、パキスタン国内とされている数々のロケーションはどうもそうではなかったり、パキスタン人同士が会話をしている場面でアラビア語が使われていたという

 また、映画の中のマヤというCIA隊員は実在しているという話だが、女性ではないと言っている人もいる。

 CIAの協力を得て作られたこの映画は(この点だけでも批判の対象になりうるのだろう)、現場を知っているさまざまな人から「事実とは違う」、「撮影場所が違っている」などのもろもろの指摘を受けている。

 それでも、私は、この映画は10数年にわたるテロの戦争のドラマ化として、良くできているように思った。テロの戦争の馬鹿馬鹿しさ、中で働く人の一生懸命さ、描かれなかった部分でのアフガンとイラクの2つの戦争の影、数々のテロ、最後にビンラディンを仕留めたのはどんなことだったのかを、分かりやすく、切り取って見せた。

 これを機に、テロの戦争前後の枠組みを頭の中で組み立てる、あるいは組み立て直す作業が必要かもしれない。映画への様々な批判の中で指摘された論点も含めて。
by polimediauk | 2013-02-06 21:45 | 政治とメディア