オランダの表現の自由 イスラム教徒の移民が起こした犯罪の余波 2
(以下は、昨日に引き続き、「新聞研究」7月号に掲載された文章の再録です。最後に「7月の裁判」とありますが、中旬に既に開かれ、26日には判決が出る予定です。)
―移民に対するまなざしの変化
ファン・ゴッホ監督殺害事件がオランダ全体を大きく揺るがせた背景には、増える移民とオランダ国民の移民人口に対するまなざしの変化がある。
オランダの移民の歴史を振り返ると、16世紀から18世紀にかけては、スペインやポルトガルから来たユダヤ人、フランスのカルバン派プロテストタントなどの避難先になり、宗教的寛容のある国としてオランダは世界的に知られた。20世紀に入るとかつてのオランダの植民地だったインドネシアや南米のスリナム共和国からヒンドゥー教者、イスラム教信者が入ってくる。
1970年代には、労働力不足を補うため、モロッコやトルコなどから期間限定で労働者を調達した。この最後のグループの移民たちは主にイスラム教徒で、期間限定の雇用を想定していたため、オランダ政府はオランダ語や文化の知識の習得を奨励しなかった。
期間が過ぎても「新移民」たちは帰国せず、オランダでの長期滞在を希望するようになる。家族の呼び寄せが始まり、移民人口がさらに増える、という流れとなった。移民たちは都市部の特定の地域に固まって住む傾向を持ち、女性は頭にヘジャブ(スカーフ)を巻き、男女ともにイスラム教伝統の衣装を身にまとう人も多い。
人口が約1600万人のオランダで、移民人口は現在約10%。しかし、アムステルダム、ハーグ、ロッテルダム、ユトレヒトなどの大都市では30%近くに上る。(ちなみに、日本で最も外国人比率が高いといわれる群馬県大泉市では15%。)
昨年発表された、移民に関する議会の調査報告書は、移民の第一世代がオランダ語を十分に使えないので孤立している、オランダ文化になじんでいない、オランダ語や文化を強制的に学ばせる試みは大部分が失敗に終わっている、第2-第3世代の移民たちは親がやってきた国の文化に忠誠心を持ちがちで、これがオランダ社会の十全な一員として受け容れられることの阻害要因になっている、と結論付けた。
―9・11米大規模テロ
しかし、異なる外観、異なる価値観を持っていても、こうした違いを受け容れるのがこれまでのオランダだった。もともとプロテスタント、カトリックの両国民がおり、「柱条社会」とも言われるように、国民はそれぞれの信条をベースにして、それぞれのグループの学校、新聞、労働組合、クラブなどに所属し、いくつもの柱が社会に存在してきた。現在ではこの柱は厳格なものではなくなったが、メディアや利益団体、学校教育などにその名残があると言われている。複数の柱が存在する社会、つまり、多文化が同時に存在する社会で、それぞれが別々に存在していたので、摩擦を避けられる、というのが利点だった。
オランダの憲法第一条は「人種、信仰、性、そのほかのいかなる理由からも人は差別されない」としている。異なる文化・価値にとやかく干渉しないのがオランダ社会とすれば、異なる服装や習慣を持つイスラム教徒のモロッコ人やトルコ人を批判することは、「あまり好ましくないこと」と考えられてきた。例え日常生活の中でイスラム教徒の隣人に人々が違和感を抱いていても、こうした違和感を拾い上げるような政治家、政党は皆無といってよかった。
イスラム教徒過激派が関わった、01年9月11日の米国大規模テロが、オランダ国民のイスラム系移民に対する見方を大きく変えた。イスラム系移民の批判はもうタブーではなくなった。「イスラム教は後進的だ」「新規移民の流入を禁止するべき」と訴えた右派政治家ピム・フォルトゥイン氏が、幅広い国民からの支持を得るようにもなってゆく。
オランダ政治の空白を埋めたと言われるフォルトゥイン氏は〇二年の総選挙直前の五月六日、動物愛護家に暗殺されてしまう。(ファン・ゴッホ監督の遺作はこの暗殺事件を扱ったものだった。)
氏の急逝にも関わらず、率いた政党は大人気となって議席数を伸ばし、一旦は連立与党の一翼も担うほどとなった。
その後、党首亡き後求心力を失ったフォルトゥイン氏の政党では内紛が続き、〇三年、急遽総選挙が行われた。現在の政権はキリスト教中道右派のキリスト教民主勢力(CDA)、左派労働党らの連立で、フォルトゥイン氏の政党は与党参加をしていない。
しかし、どの政党も国民の気持ちを代弁するために移民規制策を全面に出し、オランダの政治は全体的に右派化しているのが現状だ。新聞の投書欄でも反イスラム系移民の声が堂々と掲載されるようになった頃、ファン・ゴッホ監督の殺害事件が起きた。
殺害者となったブイエリ容疑者はオランダ語をマスターし、高い教育を受け、オランダ社会に溶け込んだイスラム系移民の一人、と周囲から目されていた点が、輪をかけての衝撃となった。
―表現の不自由
「服従」のプロデューサーであるファン・デ・ウエステラーケン氏によると、ファン・ゴッホ監督の殺害後、「表現の自由度に深刻な問題が呈された」。
「人の口を封じるのに、何人もの人を殺すテロをする必要はない。たった一人が一人を殺すことで、目的が達成されるーこれを殺害事件が実証した」。国内外から「服従」の完全版上映の声が絶えないにも関わらず、製作会社として部分上映のみを行っているのは、「一緒に働く仲間を危険な目に合わせたくないためだ」と言う。
「事件後、オランダのアーチストや表現者たちがイスラム教に関連するトピックへの発言には気をつける、という雰囲気が出来たと思う。影響はまだ続いている」。
―寛容、多文化主義の神話
現在のオランダ社会で、「寛容精神」が「やや薄れた」、と指摘する声は多い。
オランダ最大の日刊紙「デ・テレグラーフ」のウイレム・クール記者は、ゲイ天国と言われたオランダで、5月、ゲイのアメリカ人ジャーナリストがイスラム系住民のグループに殴打されるという事件が起きた例をあげ、「イスラム系移民とそのほかの国民との間の亀裂は深い。どちらの側にも感情的な言動が目立つ。政府側もこれをどうしていいか分からない、といった状態が続いている」と指摘する。
一方、元日刊紙「フォルクスクラント」の記者で、現在はアムステルダムの歴史に関する著作を手がける作家ピエール・ヘイボアー氏は、「オランダのリベラル精神、寛容性に関して、国外の人は幻想があるのではないか」と釘を刺す。「原理、理想として寛容精神が存在したのではなく、もともと、異なる宗教、価値観を持つ世界中の人々と貿易をするため、つまり、実際的な、商業上の理由がベースになっている。買い手がプロテスタントかどうかなど、気にして入られない。買ってくれるどうか、が重要だった」。
商業上の理由の寛容さと、国内にはカトリックとプロテスタントという異なる宗派が十七世紀の建国当時から存在していたため、社会存続のためには、宗教的寛容さが必要だった、という。
また、イスラム系移民たちが「問題」とみなされる現在のオランダで、「多文化主義の失敗」を表明する政治家も多いが、実は多文化主義そのものが神話、幻想だった、という声を知識人らから多く聞いた。
まず、ヘイボアー氏は、オランダには真の意味での多文化主義は存在しない、という。「過去20-30年の間で、異なる文化を持つ人々が移民の形でオランダに入ってきたが、お互いに『融合』して、一つの文化を作り上げたわけではない。異なるバックグラウンドの人々が、それぞれが隣に住みながら、お互いに干渉しないで生きてきたからだ」。
ファン・デ・ウエステラーケン氏は「もし人がオランダの多文化主義が成功していた、と考えるとしたら、全くの御伽噺だ」と言う。「オランダに限らず、フランスでも、実はモノカルチャーなのだと思う。典型的な、西欧のキリスト教をベースにした民主主義文化なのだと思う」。
アムステルダムの通りを歩けば、ありとあらゆる国の料理を代表するレストランがある。「しかし、これを多文化主義とは、もちろん言えないだろう。本当に多文化主義にしたいのであれば、例えばイスラム教の法律の基本概念を現在のオランダの法体制に組み込む、ということまでしないといけない。しかし、国民がそれを望んでいるとは思えない」。
一方でヘイボアー氏は、「オランダの伝統的寛容精神が崩れた」と結論付けるのは「早計ではないか」とする。
「オランダは、過去五百年、様々な人種、価値観の人々を受け容れてきた。突発的事件はこれからも起きるだろうが、長い目で見れば心配していない」。
ファン・ゴッホ事件以降、若いモロッコ系移民に対する人々の目は厳しいが、「アムステルダムの通りで、こうした若者たちがアムステルダム訛りのオランダ語を話しているのを聞くと、オランダの将来に中長期的に楽観できる」と述べている。
7月、継続中の監督殺人事件の裁判が再開する。人々の脳裏から事件の印象が消えるのは、まだまだ先になりそうだ。