「ジェリー・スプリンガー・ショー」オペラの放映に議論沸騰
アメリカのテレビ番組に「ジェリー・スプリンガー・ショー」というのが、ある。生の番組を見たことがなく、米映画「オースティン・パワーズ」で垣間見ただけなのだが、設定としては、人生相談のように一般の人がゲストで出演。いろいろ話を聞くうちに、エスカレートして、ゲスト同士などで喧嘩や殴り合いになったりするようだ。その司会がジェリー・スプリンガー。
これがイギリスで演劇になり、「ジェリー・スプリンガーオペラ」という名で(といっても、ミュージカルといったほうが近い)、有名な演劇街でずっと上演されてきた。
私も昨秋観にいったが、40分ほどで劇場を出てしまった。
4文字言葉が多いと切符売り場の人に言われていたが、それ自体では劇場を出ることはなかっただろう。
途中で抜けた理由は、話の内容、展開、リアクション、ジョーク、すべてが非常に子供っぽく、幼稚園児なみ。笑いたくて、劇を観にいったのに、あまりにも子供じみたジョークばかりで、笑うことができないのだ!
例えば子供が、下半身の言葉を連発して、大人がそれに反応するので、おもしろくて、そういう言葉を連発し続ける・・というようなことがあったとして、何か、そうした、「ひんしゅくを買うような言葉そのものの連発がおもしろい」と、このショーの作者たちは信じているようだった。
大人が、こうした言葉の連発のみで、笑えるわけがない。もちろん、ショーの聴衆の役を演じているステージ上の役者たちは、げらげら笑う。
極めつけは、ある太った大きな男性が、洋服を脱ぎ捨て、パンツ一枚になる、そのパンツが実は巨大なおむつで、この男性はステージ上で、「大の方の」おもらしをする。
そこで観客は、これをおもしろいものとして、笑わないといけないのだ。
問題は、このシーンが、ちっともおかしくなく、ちっともドラマ的な感動を起こさず、ただただ、単にお漏らし状態があるだけで、「しかも」、観客は、これに感動するか、笑うかのどちらかの反応をするべきもの・・・だったことに気がついたとき、私は、あまりにもばかばかしくなってしまった。
ー抗議が殺到
このオペラが土曜日の午後10時からBBCで放映されることになり、非常に大きな論議を呼んでいる。
悪い言葉がたくさんある、キリスト教を馬鹿にしたシーンがある・・ということで、4万件もの抗議がBBCに寄せられた。
BBCはこれを「絶対放映する」。「気分を悪くする人がいるのは、承知の上。あえて、やる」という。社長のマーク・トンプソン氏もこれを支持。「これを機会に劇場で見れなかった人が見れる」といったことが理由だ。
たとえいくら反対の声が寄せられても、それにめげることは、「芸術上、表現の自由上」まずいのだ、というスタンスがBBCの担当者らの発言から見えてくる。
シーク教徒の抗議で、シーク教徒のコミュニティーを舞台にしたある演劇が上映中止に追い込まれたのは、12月だった。
これと、ジェリー・スプリンガー・ショーを同列において、「表現の自由」を死守するべきだという声も多い。
ある新聞は、「いやなら、テレビを見なければいいのだ」という記事を出したりした。
私は、問題は、表現の自由云々でなく、みんなの受信料で成り立っているBBCが、「つまらない劇を、受信料を使って、上映権を買い、放映する」点だと思う。
イギリスの困ったところは、「表現の自由うんぬん」というと、ハハーっと、みんながひれふしてしまうところだ。この点は、また別の機会でじっくり書くことがあるかと思うが、生活のあらゆるレベルで、「理論が先に来る」状態があり、それをメディアが積極的にあおる。問題がないのに、いつのまにか、問題ができることもある。辞任しなくてもよい政治家が、辞任することもある。
1つの方向に世論が流れると、うわーっとそちらの方向に流れてしまう・・のは、日本だけではない。
メディアが、火に油を注ぐーー私たちは、こういうメディアの動きに惑わされてはいけないと思う。常に眉唾の精神を忘れてはいけない・・という私の声は、もちろん一時の熱狂にかき消される。
ラジオでも随分討議がされたので、今晩のこの番組の視聴率は非常に高いことになるだろう。
(上の写真は、オペラ「ジェリー・スプリンガー・ショー」 BBCウエブサイトより)