小林恭子の英国メディア・ウオッチ ukmedia.exblog.jp

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オランダ ゴッホ監督殺人と表現の自由 インタビュー3


「一体この事件がどんな意味を持ち、私たちはどうすればいいのか、今でも分からない」

 今回は、イスラム教徒の女性の処遇を批判した短編映画「服従」(テレビ放映)のプロデューサー、ハイス・ファン・デ・ウエステラーケン氏のインタビュー。この映画がきっかけとなり、テオ・ファン・ゴッホ監督がイスラム教鍵思想の青年に殺害されたのは昨年11月だった。制作会社を訪れると、あるコーナーにはファン・ゴッホ監督のいろいろな写真が飾ってあった。制作会社は、フェン・デ・ウエステラーケン氏と監督が二人で作ったものだった。私は、氏の監督評を聞いているうちに、どことなく、日本のビートたけしを連想していた。

―何故この映画を作ったのか?

ファン・デ・ウエステラーケン:(政治家でイスラム教批判を続けている)アヤーン・ヒルシ・アリ氏への尊敬から、この映画を制作しようと思った。彼女のことをよく知っていたし、監督が作りたいと思っていた。3人で、どのように映画を作り、どの対象に向けたものにするのかを話し合った。通常、映画制作の中で監督は大きな決定権を持つが、この映画に関しては、共同作業的だった。社会的、政治的な賞賛の思いがあったのと、ヒルシ・アリ氏が友人だから作った、ということになる。(注:ヒルシ・アリ氏は脚本を担当。)

―ファン・ゴッホ監督は急進派と言えるか?例えば、イスラム教が後進的だ、として批判していたと聞いたが。

ファン・デ・ウエステラーケン:テオは急進派ではなかった。挑発する人、と呼んだ方がふさわしい。コラムやエッセーやディベート番組などで、相手を挑発・刺激することを好んだ。人々の本音を引き出していたし、この点ですごく優れていた。オランダでは、最高に優れたテレビのインタビュー番組をやっていた。これが彼のメインの仕事だった。相手を挑発しながら、その人の本音を引き出していた。右にしても左にしても、強い言葉を使うのが手法だった。

―それでは「右派」ではなかった?

ファン・デ・ウエステラーケン:右派ではない。右派とか左派とか、彼をどちらかの側に入れることはできない。長い間、オランダの社会民主党のメンバーだったが、後でスイッチして、メンバーにはならなかったが、自由党に共感していたようだ。

 テオの家族は、政治関心が高かった。主に左派といっていいだろう。社会民主的、リベラル左派。非常に英国的な手法を実行していた。つまり、ありとあらゆることをディベートする、それを政治の場で生かそうとする、という点だ。

―監督の父親はどんな仕事を?

ファン・デ・ウエステラーケン:今83歳。諜報情報機関の通訳だった。母親も政治に関心が高く、姉妹は政治家だった。

―「服従」の反響について、どう思ったか?

ファン・デ・ウエステラーケン:最初この映画を作ろうとしたときは大きな反響があるとは思っていなかった。実際に放映されたときも、その時点でというよりも、新聞がその後にいろいろ書いたために大きくなった。議論が起きたが、内容は、脚本を書いたヒルシ・アリ議員に関するものだったし、テオに関してはそれほどの言及はなかった。何らかの問題がおきるかもしれないとは思ったが、議論があって、最初はそれだけだった。(殺害というような)こんなことになるとは、誰も思わなかった。事件は放映から2ヶ月後で、映画に関して人々はほとんど忘れていた頃だった。

―英国ではイスラム教徒を表立って批判すると、按配が悪いような、政治的に正しくないという雰囲気がある。オランダはどうか?

ファン・デ・ウエステラーケン:オランダでも同様だ。

―現在、イスラム教徒に関する論調は変わったか?

ファン・デ・ウエステラーケン:変わった、確かに。

 オランダと英国が違うと思うのは、例えイスラム教徒に批判的なことを言うのが政治的に正しくないとしても、それでも表立って議論がなされているのではないか。イスラム教徒がテレビでインタビューなどに出ているのが証拠だ。問題の所在がはっきりしている。オランダでは、もっと隠されている。誰も触りたがらない危険なトピックだ。触らないうちに消えて欲しい、と思うようなトピック。

 だからこそ、テオが映画監督として、これを外に出したいと思ったのだと思う。殺害事件後、イスラム教批判の論調は過激化している。

 オランダで欧州憲法の批准のための答えがノーになったのは、憲法がどうこうでなく、人々が現政府を嫌っているからだ。政府を信頼していない。政治家への不信。政治家だけでなく、誰かトップにいる人に対する不信。この国が統治されていることに対しての不信、不満。こうした不信感は全ての意味で過激的な動きにつながっていくと思う。極右や極左や生まれる土壌を作る。

―いつ頃からそうした不信感が強まってきたのか?

ファン・デ・ウエステラーケン:政治家ピム・フォルトウインが(2002年に)殺害されたが、その少し前からオランダは変わってきたのだと思う。フォルトイン氏のような、やや議論を巻き起こすような人物は世論調査でも人気が高く、もし暗殺されていなければ、きっと選挙に勝っていただろう。これはオランダでは驚くべきことだった。オランダの政治は何も変わらないと言われてきたからだ。安定しているコミュニティーだと言われてきた。もはやそうではない。だから、とても変わったのだと思う。

―ファン・ゴッホ監督は、この暗殺に関する映画「05・06」を作ったが、何故作ろうと思ったのか?

ファン・デ・ウエステラーケン:この政治家を良く知っていた、という点がまずある。また、殺人事件では、簡単に、いろいろな説を作ることもできる。陰謀説など。映画の題材として最高だった。

―監督がフォルトゥイン氏の映画を作ったので、監督自身が極右派と言われたフォルトゥイン氏の考えに同意していた、という見方があるが?

ファン・デ・ウエステラーケン:違う。映画は、政治的意見を述べたものではない。純粋に、政治的スリラーだ。パラノイアのスリラー。二人はある事柄に関しては意見が一致していたが、他の点に関しては意見が一致していなかった。テオは政治家フォルトゥイン氏を好んだのは、フォルトゥイン氏が率直で、オランダで、本格的政治的議論を始めた人だったからだ。テオは率直に意見を表明することが好きだった。典型的なオランダ式というのは、自分の意見を明瞭に大きく言い過ぎないことだった。テオは米英のような政治のやり方が好きだった。問題を表に出して、オープンな議論をするやり方だ。

―オランダの多文化主義が失敗した、という人もいるが。

ファン・デ・ウエステラーケン:当たっていると思う。真実だ。多文化主義、というのは実は御伽噺のようなことだ。オランダに限らず、フランスでも、実はモノカルチャーで、典型的な、西欧の、民主主義の、キリスト教の、ジェスイットの、呼び方はどうであれ、そういう文化なのだ。

 多文化主義というのは表面的なもので、例えば通りにある食べ物屋のようなものだ。いろいろな料理があるが、これで「多文化主義」と呼べるだろうか?

 ある国を多文化主義で変えることはできない、本当に多文化主義にしたいのだったら、イスラム教の法律をオランダの法律の中に組み込まないといけない。しかし、それはここでは通用しないし、機能しないと思う。

 私たちは、異文化に対して寛大過ぎた。周囲の様々な異なる文化に対して、妥協しすぎた。移民たちを無視していた。移民たちに移民の学校を与え、住居地区を与えれば、それですべてがいいのだ、としていた。結果的に、移民たちを孤立化させた

―じゃあ、多文化主義というのは神話だろうか?

ファン・デ・ウエステラーケン:全くそうだ。典型的な、社会的、民主主義的間違いだ。

―殺害の朝に起こったことを教えて欲しい。11月2日の朝、監督は自転車に乗っていた、ということだが。

ファン・デ・ウエステラーケン:その日は、配給先に最新映画のラフカットを見せることになっていた。自宅からここまでは自転車で15-20分かかる。殺害された場所の近くに自宅があった。

―殺害されたと聞いたとき、どう思ったか?

ファン・デ・ウエステラーケン:直後から最初の月は何も考えられなかった。様々なことが起きて、静かにその影響を考える時間ははなかった。新聞を読む時間もなかった。私にとっては、ショックは後からきた。オランダ社会に何が起きるのだろうか?と考えるようになった。一体この事件がどんな意味を持ち、私たちはどうすればいいのか、今でももちろん分からない。

 表面的にはノーマルになったようにも見えるが。しかし、元に戻ったというのはうそだと思う。今でも、オランダ社会の底では、今回の事件が起きた原因に関連した要素が渦巻いていると思う。危険だと思う。

 殺害は洗練されたものだった。電車を爆破したとか、大量に人を殺したのでなく、たった一人の人物の殺害だった。一人の人を殺すだけで、表現者たちは書いたり話したりすることに対して非常に注意深くするようになった。この点では洗練された爆弾(スマート・ボム)が表現の自由に影響を及ぼした、といえる。

 私は、今後似たようなことが起きても、驚かない。イギリスやフランスでも起きるかもしれない。というのは、これはとても簡単なやり方だからだ。たった一人をピックアップすればよいのだから。

―オランダがこれからどうするかを欧州が見ている。

ファン・デ・ウエステラーケン:そうだ。問題なのが、オランダ自身がどうしていいのか、答えを見つけていないということだ。答えを見つけることはできないだろう。答えがあるかどうか?これは大きな問いかけだ。状況は悪くなるかもしれない。

―「服従」(2004年8月、テレビ放映が初公開)は、後の劇場公開では、数分の短いバージョンだけだった。フルバージョンの公開はされなかったが、その理由は?

ファン・デ・ウエステラーケン:ここで働く人々を危険な目にあわせるわけにはいかないからだ。それで、映画全体を外に出すことはしないことにした。

―「服従」で黒いブルカを着ているのは、女優か?

ファン・デ・ウエステラーケン:そうだ。米語でしゃべっている。英語にしたのは、脚本を書いたヒルシ・アリ氏が決めた。テレビだけでなく、アムネスティインターナショナルなどと一緒に特別上映をしたいと考えていたからだ。

―映画はかなり挑発的だ。特にイスラム教の人々はかなり衝撃なのではないか?

ファン・デ・ウエステラーケン:もちろん、議論を起こすためには、強い表現が入ったものを見せないといけない。もしかしたら、ある人々にとっては、強すぎる、ということもあるだろう。挑発的なことをしようとしたら、リスクがあることを覚悟している。

―監督は、プライベートでも挑発的な人物だったか?

ファン・デ・ウエステラーケン:仕事以外では、そうではなかった。非常に友人思いで、一緒にいて、楽しく、ワインを飲んだりした。テオがいなくなって、人生がつまらなくなった。テオはいつもこのオフィスに来ていた。

―遺族は?

ファン・デ・ウエステラーケン:14歳の息子がいる。今でも(殺害された場所に近い)同じ場所に住んでいる。

(「服従」はネット上では以下のアドレスで全編が見れる。)
http://ayaanhirsiali.web-log.nl/log/2292608
by polimediauk | 2005-10-31 15:22 | 欧州表現の自由