【新型コロナ】差別・偏見解消には能動的な報道を 「誰にでも起きる」自分ごととして伝える
(月刊誌「Journalism」7月号及びウェブ論座掲載の筆者記事(7月29日付)に若干補足しました。)
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新型コロナウイルスの世界的な感染拡大が続いている。
英国と比較して感染者数や死者数がはるかに低い日本では、感染者あるいは医療関係者に対するハラスメントが発生し、実名報道がしにくい環境があるという。また、ここ数年、事件・事故の際の実名報道をめぐって活発な議論が行われ、報道機関側が実名報道の原則を主張する一方で一般市民の間では匿名志向が広がり、そのギャップがなかなか埋まらない。
筆者は10月20日、日本新聞協会と日本民間放送連盟主催のオンライン・シンポジウム(「新型コロナ禍の医療の実情と報道の役割――差別・偏見をどう防ぐか」)に聴衆の一人として参加したが、感染者・医療者に対する差別・偏見は少なくなっているものの、消えたわけではないことを知った。
そこで、先に「Journalism」に寄稿した記事に補足し、再度、日本に住む皆さんに差別・偏見をなくするための報道を提案したい思いにかられた。「差別や偏見をなくしよう」と呼びかけたり、差別的行為が起きていることを報道したりだけでは不十分ではないだろうか。もう少し、能動的に報道する必要があるのではないか。
日本同様、実名報道を原則とする英国では、「実名・顔出し」を基本とする、個人を中心に据えた報道が続いている。新型コロナ感染症(COVID-19)は「誰もが感染するかもしれない病気」として認識されており、COVID-19で亡くなった人を社会全体の損失として痛み・悲しみを共有してきた。個人情報(実名・顔・居住地情報・社会的背景)は隠すものではなく、一人ひとりの個人で構成されている社会で公的に共有されるものとして考えられている。
以下、長い原稿になったが、英国で接したコロナ報道を紹介したい。何かヒントを得ていただければ、幸いである。
ひとごとだった新型コロナ
まず、英国でCOVID-19が自分ごととして認識されるまでの過程を振り返る。
新型コロナウイルスの震源地は、昨年12月、1例目の感染者が報告された中国湖北省の武漢市であった。筆者が住む英国では当初、ほとんどの人がコロナの感染を「遠い国の出来事」としてとらえていた。
ウイルスはのちに欧州に飛び火し、イタリアでは感染者数がうなぎ上りとなって、3月上旬に北部で外出禁止令が出るほどになった。この時点でも、「まさか、英国はそこまでは行かないだろう」と高をくくっていた。
イタリア人医師の報告
次第に危機感が出てきたのは、イタリアの深刻な状況が現場の医療関係者や遺族の話によって伝えられてからだ。
例えば、筆者が「これはすごいことになった」と思ったのが、3月17日に配信された、米ニューヨーク・タイムズ紙のポッドキャスト番組「ザ・デイリー」である。ゲストはミラノ大学のファビアーノ・ディ・マルコ教授。同氏はミラノの近郊のベルガモにあるヨハネ23世病院呼吸器科の医師でもある。
番組のタイトルは「まるで戦争のようだ」。当時はイタリアの感染者が約3万人、死者が2000人を超えており、ディ・マルコ氏の病院にも連日、患者が担ぎ込まれ、死者も多数出ていた。
死と隣り合わせの仕事を続けてきたディ・マルコ氏は、自分が家族にウイルスを移してしまうのではないかという不安を抱えながらも治療にあたっていることを自分の言葉で語っていた。
同時に、英国の複数のメディアがイタリアの医療関係者の警告や遺族の無念さを報道した。ひょっとしたら英国にも同様の事態が発生するかもしれないという懸念を抱かせたが、同時に、それでもまだ、多くの人は「まさか」という思いを捨てきれなかった。欧州大陸の話であって、英国の話ではない、と。
ベッドから訴える感染者たち
漠然とした不安感が「今ここで、コロナ感染が発生している」という強い危機感に変わったのは、英国内の病院のベッドの上から感染者がその苦しみを語りだした時だ。英国の主要放送局チャンネル4やソーシャルメディア上で、病床に横たわる患者が自分の状況を動画撮影し、これを公開し始めた。そのうちの1人は、夕方放送の報道番組「チャンネル4ニュース」に登場した、人工呼吸器をつけた若い男性の患者だった。
3月3日、政府は新型コロナの感染措置対策を発表したが、中心となったのは「症状がある人や高齢者などの自宅隔離」と「手洗いの奨励」で、緩い指示にとどまった。中旬には劇場や学校の閉鎖令が出るようになるが、外出禁止令を含む厳しい「ロックダウン(都市封鎖)」を宣言したのは3月23日である。この間、コロナは「特定の条件がある人のみが注意するべきもの」として認識され、ロックコンサートやスポーツイベントもほぼ支障なく開催されていた。COVID-19にかかるのは高齢者や持病がある人で、若者層はかからないという通説があった。
肉声報道で自分ごとに
そんな時に、感染した若者自らがベッド上から症状を訴えることには大きな意義があった。
苦しそうにせき込みながら、カメラに向かって「頼むから、外出しないで」、「手を洗うように」、「私のような目に合わないように気をつけて」と訴えたからだ。
また、筆者が住む地域も含め、各地でネット上にいくつものコミュニティーグループができていったが、この中で患者や看護師が自分の体験談を投稿した。直接周辺に感染患者がいなくても、こうした投稿を読むことで「感染は誰にでも起こり得る」という意識が醸成されていった。
これまでの英国のコロナ禍報道を振り返ると、常に中心に据えられてきたのが「実名・顔出し」で登場する個人だった。
感染の恐ろしさ、医療現場の混乱、営業活動停止によるビジネスの不振、6月からの学校の授業再開による教育現場や親の不安など、様々な現象が既存メディアやソーシャルメディアを通じて、名前を持つ特定の個人の体験として伝えられてきた。
もしイタリアからの当事者のレポートがなかったら、続々と体験をアップロードした感染者たちの生の声やメディアが伝えた個人の物語の報道がなかったら、筆者を含めた多くの人が新型コロナを自分ごととして考えることができなかっただろう。
英国では数か月にわたって政府が毎日のように記者会見を行っていたが、ここでも個人が顔を出した。
閣僚がコロナ感染による死者数を発表する時、以下のような表現を繰り返した。「これは単なる数字ではありません。数字の後ろには一人ひとりの個人がいるのです」。
首相と保健相も感染
COVID-19が誰もが感染しうる病気として認識されるに至ったほかの理由として、「社会的距離(ソーシャル・ディスタンシング)」の実行、手洗いの奨励を国民に向かって繰り返してきたボリス・ジョンソン首相の感染・入院(3月27日から自主隔離後、4月5日入院。同12日退院)とマット・ハンコック保健相の感染・自主隔離が挙げられる。
政治家の感染は責任問題に発展する可能性があったが、最終的には「誰もが感染するもの」という見方に集約されていった。
ジョンソン首相が一時、人工呼吸器を使うまで病状が悪化し、「命が危ないのでは」と報道されるようになると、政府を批判する役目を持つ野党の政治家も含めてジョンソン氏の病状改善と政界復帰を求める声が圧倒的となった。
1面を犠牲者名で埋めた米ニューヨーク・タイムズ紙
英国外のメディアになるが、今はネットで世界中でニュースに接することができるため、ニューヨーク・タイムズの紙版の衝撃についても伝えたい。
5月24日、同紙はCOVID-19による死者数の大きさを圧倒的な迫力で表現した。
米国での感染死者数が10万人に達する寸前となり、「その数の巨大さと失われた命の重要さを表す」ため(5月23日付電子版記事)、数百の新聞に掲載された訃報記事から集めた約1千人の死者の名前、年齢、居住地、どんな人物だったかを1面全体に掲載したのである。
冒頭の文章はこう書いて終わっている。「ここに掲載された1千人は全体の1%に過ぎない。誰一人、単なる数字であった人はいない」。
また、ウェブサイト上に「数では計れない損失(An Incalculable Loss)」という特設コーナーを作り、10万人を人の形のイラストで表現した。ところどころに、1面で紹介された犠牲者の名前、年齢、居住地、人物評が入っている。これ全体が10万人分の訃報記事でもあった。
ガーディアン、BBCも
黒いバックグラウンドに人々の写真が浮かんでは消え、浮かんでは消えていく。英ガーディアン紙がウェブサイトに設置したCOVID-19で亡くなった方々の追悼サイト「もっとたくさん生きるはずだったのに(So much living to do)」の最初の画面である。
下にスクロールすると、それぞれの犠牲者の顔写真とライフ・ストーリーが記されている。
その1人のストーリーを抜粋してみる。
「グラム・アッバスさん、59歳。弟ラザさんと同時に、ウエールズ州ニューポートにある王立グウェント病院で、4月21日に死去。兄弟は家族が経営する新聞販売店に勤務。コロナに感染後は同じ集中治療室で治療を受け、数時間の差で亡くなった」、「娘のラクサーさんが言うには、『私たち家族にこれほど知名度を持っていることも知らなかったんです。地域コミュニティにこれほどの影響力を持っていることも知らなかったんです、今この時まで』」。スカーフを首にかけたアッバスさんがこちらを見て微笑む写真が記事に付いていた。
個々の記事の冒頭についた文章の中で、ガーディアン紙は「厳しい死者数は単なる統計ではない。その一つ一つには名前、人生、思い出、ストーリーがあった」と書いている。
BBCも追悼のサイト(「コロナウイルス:亡くなった人々への追悼」Coronavirus: Your tribute to those who have died)を設けている。日々スタッフが遺族、友人、同僚などから情報を集め、内容を更新する。
サイトには追悼文を寄せることができるようになっている。投稿者の名前、電子メールのアドレス、電話番号に加え、犠牲者の情報(名前、年齢、住所、職業、亡くなった日と場所)や写真があればこれをアップロードする。編集スタッフの目を経て、掲載される仕組みだ。
BBCはこのサイトとは別に国営の国民医療制度(NHS)で働く人でCOVID-19で亡くなった人専用の追悼サイトも作っている。
メディア以外では、セントポール大聖堂がCOVID-19による死者の追悼サイト「リメンバー・ミー」を開設している。英国人あるいは英国で命を落とした人を対象に、遺族、友人、ケアをしていた人などがその人の名前、写真と短いメッセージをサイトを通じて送ると、情報が掲載される。
画像の1つをクリックしてみた。
「リチャード・ブラッドリーさん。1933-2020年。常に笑顔とおしゃべりを忘れなかったおじいちゃんへの愛をこめて。最後の真のジェントルマンの一人として、いつも私たちの心に生き続けるでしょう。一生、いとおしく思ってます。愛しています。サム、リック、エマ、ジェイクより」。
被害者を追悼する習慣
英国には、戦争、犯罪、テロ事件などで誰かが亡くなったとき、これを公の痛み、悲しみとして追悼する習慣がある。
例えば、第1次及び第2次世界大戦の死者を追悼するイベントが年間を通じて行われ、主要な戦いをテーマにしたテレビやラジオの歴史番組が日常的に放送されている。「戦後xx年」という区切りがある年には、新聞、テレビ、ラジオ、ネットメディア等が大々的に特集コンテンツを制作し、国民的な議論を作っていく。
近年では、複数の英メディアが2003年開戦のイラク戦争、2010年のアフガニスタン戦争でそれぞれ戦死した英兵士らを追悼するサイトを作った。2017年にはイングランド地方北部マンチェスターで、米歌手アリアナ・グランデのコンサートが開催されたが、終了直後にイスラム系自爆犯によるテロが発生し、20人以上が亡くなった。BBCやガーディアンはこの時も追悼サイトを特設した。
ニューヨーク・タイムズの事例も、10万人に上るCOVID-19による死者を国全体の痛みとして認識し、これを追悼する試みの1つであろう。
社会を構成する一個人
このような試みは、日本では繰り返される習慣(「ルーティーン」)としてはあまりないのではないか。
逆に言うと、なぜ日本以外の、例えば英国で習慣になっているのだろうか。
これまで紹介してきた報道の例によると、個人に起きた出来事(例えば犯罪の被害者になった、COVID-19による死など)が社会全体にかかわる出来事として認識されていることが見えてくる。
個人に起きた出来事はその個人自身あるいは家族や友人・知人など直近にその人を知る人々の間での、いわば「私的な事象」ではあるけれども、構成する社会の中の一事象、つまり、公的事象でもある、と。
この点自体は日本でも共通で、だからこそ例えば新聞に訃報が掲載されるのだろうけれども(ある人が亡くなった=私的及び公的事象)、実名報道が徹底している英米では私的事象と公的事象がセットになっており、「公的事象」の部分を外し、私的情報を制限する(例えば匿名にする)のは例外的措置の場合である。
例えば、英国で、ある人が犯罪の被害者となり、命を落としたとしよう。その人の名前、住所、何があったのかなどの事実関係は報道機関の報道や(公での裁きが原則の)裁判で明らかにされる。自分や自分の家族の身に起こったことだからと言って、公表を拒むことはできない。
被害者が名前、年齢、居住地などの身元情報の報道・公表を拒否できるのは、被害者の年齢(未成年であるなど)や犯罪の分類(性犯罪の被害者は匿名報道)などによる。また、実名報道がされないよう、裁判所に依頼し、報道を抑えることも不可能ではないが、原則は公開であり、非公開となるのは例外(裁判官が報道を抑える場合を含む)の場合のみというのがルールである。
英国でも事件・事故の被害者が匿名で報道されることはあるが、それは上記のような例外の場合に限る。
過熱取材と報道被害
日本で犯罪被害者の実名報道が批判されるようになった1つの理由は、集団的過熱取材が発生するためであったようだ。
集団的過熱取材については、英国でも多数の実例がある。1997年にパリで交通事故死したダイアナ元皇太子妃が、チャールズ皇太子との婚約が発表される前後から亡くなるまで、その一挙一動が世界中から押し寄せるパパラッチやジャーナリストによって報じられたことはよく知られている。
一般市民も過熱取材を受けて被害にあう。報道による弊害を防ぐための市民団体「ハックト・オフ」が2018年に発表した報告書「オオカミの餌になって」には、インフルエンザが悪化し、敗血症で亡くなった少女ベタニーさんとその遺族の話が紹介されている。母親が地元無料紙の取材を受けたところ、ほかの複数の新聞から取材攻勢が続いた。夜遅くまでかかってくる取材の電話に「なぜ悲しんでいる家族に話を聞こうとするのか」と母親が問いかけたところ、1人の記者は「遺族の悲しみについて書けば、新聞が売れる」と答えたという。
また、先に紹介したアリアナ・グランデのコンサート会場でのテロ事件後、遺族はメディアの執拗な追跡を受けることになった。事件が発生したマンチェスター市が命じたメディア報道についての調査書は、記者の一部が「看護師や警官のふりをして遺族に近づいた」、「取材に応じないという遺族の言葉を無視した」など、傍若無人の取材ぶりを報告している。
加害者へ懲罰的報道も
実名原則は、犯罪事件の容疑者・加害者を「公にさらす」、つまり懲罰的に報道することにつながりやすい。
その実例は枚挙にいとまがないが、例えば13年前、英国の3歳の少女マデリンちゃんがポルトガルで誘拐される事件があった。現在もその消息は分かっていない。数年間にわたって両親がメディアにひんぱんに登場し、少女についての情報提供を呼びかけたことから、英国では非常によく知られた少女失踪事件となった。
今年6月4日、ドイツの検察当局が、現在国内で受刑中の性犯罪者の男性が誘拐犯であった確率が高いと述べ、英メディアは一斉に報道を再開した。
ロンドン警視庁も同男性について情報を求めており、有力な容疑者が見つかったことを報道する意義があった。
筆者が驚いたのは、翌日の新聞各紙が煽情的な報道が中心の大衆紙から高級紙まで、1面にこの男性の写真を大きく掲載したことだ。「この人が犯人だ」という断定的なメッセージが伝わってくる。英国の司法の推定無罪原則はどこかに飛んでしまった。
今後、この男性が実行犯であったことが証明されるのかもしれないが、過去にはメディアがある人物を刑事事件の犯人であるかのように大々的に報じた後、実は別の人物が真犯人だったという例が多々あった(例えば、2006年、英東部イプスイッチで起きた連続殺人事件では、ある男性が「自分は容疑者のプロフィールに当てはまる」として複数のメディアのインタビューに自ら応じたが、殺害犯は別の男性だったなど)。
放送業界の編集規定
英メディアの編集規定はどうなっているのだろうか。
放送・通信業の規制・監督機関「オフコム」(放送通信庁)が定める「放送規定」によると、第8条「プライバシー」の項目では、「番組中でのプライバシーの侵害には……正当な理由があるべき」と規定されている(8-1条)。ただし、プライバシーを侵害しても「公益がある」と判断した場合、放送局は個人情報などを報道できる。
取材では、ドアステッピング(ぶら下がり取材)」について規定がある。これは報道陣が取材対象者の自宅や仕事場などの前で待ち構え、建物中に入っていくまでを撮影し続けることを指す。この取材方法は「取材願いが拒否された、あるいは取材が実現できなかった場合、通常のやり方では調査が進まないといったことがない限り、また正当な理由がない場合、行ってはならない」(8-11条)。
拡大解釈可能な「公益性」
新聞・雑誌界の「編集規定」は、大多数の新聞発行者が加盟する自主規制組織「独立新聞基準組織(IPSO)」会員の話し合いによって定められている。
第2条「プライバシー」では、「編集長は個人の私的な生活を本人の同意がなく侵害する場合、これを正当化する必要がある」(2-ii条)。「プライバシーが維持されていると想定されている場所で、個人の同意なしに写真撮影をすることは許されない」(2-iii条)。
第3条「ハラスメント」では、「ジャーナリストは、脅し、ハラスメント、あるいは執拗な追跡をしてはならない」(3-i条)。「ジャーナリストは、個人がその行為をやめるようにといったん発言した場合、質問をしたり、電話したり、追跡したり、写真撮影をしてはならない」(3-ii条)。
第4条では、「その人物が悲しみあるいはショック状態にあるとき、問い合わせやアプローチは思いやりと慎重さをもってあたる」よう定められている。
このほか、18歳未満の人物の個人情報の報道に注意すること、性犯罪の犠牲者については個人情報が判明するような報道をしてはいけない(ただし、「正当な理由があり、合法であれば」別である)など。
2007年から08年にかけて、英西部ウエールズ地方南部の都市ブリッジエンドで、主として10代の若者たちが次々と自殺する事件があった。新聞各紙やウェブサイトは実名と年齢、顔写真あるいは普段の生活の様子を伝える画像を掲載した。
事件の全容を伝えるため、自殺防止への呼びかけをするためや、亡くなった子供たちへの追悼の意味もあって、こうした報道には「正当な理由」があると見なされたようだ。
しかし、放送及び新聞界のどちらの編集規定でも「正当な理由」、あるいは「公益性」の規定は拡大解釈が可能に見え、先の「オオカミの餌になって」に収められた被害につながる危険性がある。
報道への苦情は該当する報道機関に伝えるか、IPSOや「ハックト・オフ」などに連絡し、調停を依頼できる。ただ、IPSOによると、2018年1月から昨年12月末までの間に寄せられた苦情は1万3490件。この中で、編集規定違反とされたのは111件のみとなっている。
二者択一ではなく
最後に、日本との関連で実名・匿名報道を考えてみたい。
これまで、いかに英米では1人ひとりの顔が見える、個人の物語を主体とした報道を行っているかを紹介してきた。
具体例を通して見えてきたのは、個人情報を織り込みながら報道をすることは「個人情報あるいはプライバシーの侵害」と100%同じではない、ということである。実名・顔出しの報道をするからと言って、何らかの侵害行為が起きるわけではない。
また、「個人情報・プライバシーを擁護するためには、実名・顔出し報道を控えるべき」、つまり「匿名報道の方がよい」という結論には必ずしもならない。
つまり、「実名報道にするか」、「プライバシー擁護のために匿名にするか」は、常に二者択一で選択するものではない、と筆者は考えている。
この点が明確になるのが、今回のコロナ禍の報道だ。
新型ウイルスに対する不安感が高まりだした2月上旬、英国内での感染者はまだ数人で各メディアは「誰が感染したのか」を先に報道しようと躍起になった。同月10日、英南部ブライトン在住でロンドンの病院で治療を受けている男性がその1人であることをガーディアン紙などが報道。翌11日にはBBCを含むテレビ局、新聞各紙が実名・写真付きで一斉に報じた。
この男性はロンドンのガイズ・ホスピタル病院に入院中のスティーブ・ウオルシュさんで、自ら声明文を出した。感染経緯を説明し、病院関係者に感謝するとともに、メディアには今後は「プライバシーを尊重してください」とお願いした。
誰が実際に感染したかの報道には、この時点で公的価値があるという判断を各メディアがしたことになるが、ウオルシュさんが11人の他者に感染させたために「スーパースプレッダー」として報じるメディアもあり、煽情的な、「さらす」ようなトーンが出てしまったのは否めない。
しかし、ウオルシュさん以降、煽情的な報道は表面化せず、「社会をともに構成する仲間としての個人の死を遺族とともに追悼する」流れに変わってゆく。
先に紹介したガーディアンやBBC、セントポール大聖堂の追悼サイトを見ると、どの人も遺族や友人・知人、関係者の同意を得て集めたものである。
個人の医療情報は擁護されるべき個人情報の1つになるが、こうした情報を報道機関が勝手に出しているのではなく、関係者から了解を得て(あるいはニューヨーク・タイムズ紙の1面の場合は訃報記事というオープンソースの情報を使うことで)、公にしている。
コロナ感染に関する、その人の健康にかかわる個人的な情報の取り扱いにおいて、英メディアは慎重に歩を進めているといってよいだろう。
このような報道が可能になるには、コロナウイルスの感染は誰にでも起こり得るという認識が共有されていることが前提となる。また、今回の場合、誰が感染者・死者になっているかやその数といった要素も感染者に対するハラスメントが起きるかどうかの分かれ目になりそうだ。
6月時点で、英国のコロナ感染死者数の3分の1がケア施設の居住者及びケアワーカーであった。こうした施設にいる、自分の親や祖父母などの高齢者が感染者となったとき、相手を責めるような言動をするわけにはいかない。
10月20日時点で、英国のコロナ感染者は約76万人、死者数は約4万4000人。英国の人口は日本の約半分だが、単純計算をすれば、日本でいえば約9万人が亡くなっている状態だ。
感染者・死者数が社会の中でごく少ないとき、感染していない多くの人にとって自分は社会の多数派であり、感染者は少数派だ。多数派が少数派の状況を想像できなかったり、ハラスメントの対象にする気持ちが出そうになることもあるかもしれない。しかし、感染者・死者数が一定数を超えるとき、コロナ問題は他人ごとではなくなる。
もし日本社会の中で、感染者への共感が少ないとすれば、それは多くの人にとってコロナ感染は「誰かほかの人に起きていること」という感覚が強いからではないだろうか。
報道機関は、視聴者や読者が感染者や遺族が置かれた状況にリアルに共感できるような環境を作ることに力を入れるべきではないだろうか。そのためには、「顔が見える」報道が重要な役割を果たすように思えてならない。
匿名でかき消された存在
ウエールズ地方での子供たちの連続自殺事件について先に触れたが、筆者は日本のある主要メディアにこの事件についてコラムを書いたことがある。
英国の複数の新聞には、自殺した子供たちの顔写真が掲載された。タイムズ紙には、1人の少女がギターを抱えてこちらを見つめる写真があった。筆者は紙面を撮影し、原稿とともに編集部に送った。
編集作業が済み、翌日ウェブサイトを開けて驚いた。写真が使われなかったばかりか、本文で紹介した子供たちの実名がすべてアルファベットのイニシャルに変わっていたからだ。
日本では、このような形で命を絶った未成年の子供たちの個人情報を出さない配慮があり、この点を忘れていた自分の至らなさが露呈した一件となった。
英国の新聞各紙は許可を得ずに掲載したのではなく、むしろ追悼の意味があって情報を掲載していたが、この件を通して、日英の報道スタイルの違いにぶち当たった思いがしたものだ。
掲載された自分のコラムを読みながら、ギターを抱えた少女やほかの少年少女の存在がかき消されたように感じた。
少年少女の死の悲しみ、遺族の無念さ、喪失感は「少女A」、「少年B」となった記事によって、果たしてどれだけ日本の読者に伝わったのだろう?現地英国の新聞では実名、顔写真付きで報道されているものを、日本語空間では顔や名前を消す・・そこまでする必要は、果たしてあるのだろうか?そんな疑問もわいた。
ギターの少女のあの愛くるしい瞳が、今も目に焼き付いている。
報道において個人情報をどこまで出すべきかについて、日本では今後も議論が続きそうだが、「顔が見える」報道によって、メディアが市民の気持ちを代弁し、市民に寄り添い、市民のために権力を監視する存在であり続けることを広くアピールする方向に進むことを願っている。