英国の奴隷プランテーションとは ー『血の遺産』が描き出した過去と現在
(新聞通信調査会が発行する「メディア展望」8月号掲載の筆者記事に補足しました。)
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東京での五輪大会を目前に控えた7月、欧州市民が夢中になったスポーツと言えば、サッカーの2020年欧州選手権(「ユーロ2020」)だった。
7月11日、イタリア対イングランドの決勝戦が行われたロンドンのウェンブリー・スタジアムには6万人を超える観客が入り、英国では生中継の番組を約3000万人が視聴した。
最後はペナルティーキック(PK)戦でイタリアが勝利。イングランド・チームにとっては痛恨の負けとなったが、決勝戦まで進んだイングランドの快挙を称える機運が盛り上がった。
しかし、「よくやった」という称賛気分が一瞬にして吹っ飛ぶほどの事件が発生した。
PKを外した3人のイングランド代表選手に対し、ソーシャルメディア上で人種差別的表現が飛び交ったのである。3人は全員が有色人種系英国市民だ。
英国では、人種差別問題はあっという間に炎上するトピックだ。
「ブラック・ライブズ・マター」の後で
昨年5月末、米国で黒人青年ジョージ・フロイド氏が白人警察官の暴行によって殺害され、米国内外で反人種差別を訴える「ブラック・ライブズ・マター(BLM=黒人の命も大切だ)」運動が拡大したが、欧州では有色人種の市民に対する差別や偏見を解消しようという機運とともに、過去の歴史、すなわち17世紀から19世紀にかけての奴隷貿易に注目する動きが出た。
欧州諸国が、アフリカ大陸の大量の黒人を米国や西インド諸島に奴隷として送り込んだ過去である。
スコットランド・エディンバラ在住のジャーナリスト・作家アレックス・レントン氏は、フロイド氏の殺害事件やBLM運動の盛り上がりを踏まえた上で、自分の先祖が奴隷を使ってプランテーションを経営していた実態を「ブラッド・レガシー(血の遺産)」(未訳)で記している。
冒頭で紹介したユーロ2020終了後の人種差別的発言の元を辿る著作ともいえる。
内容の一部を紹介してみたい。
自分の先祖の過去を調査
レントン氏は1961年、カナダ・トロントで生まれた。父は閣僚経験を持つ男爵、母は歴史家で、英国のエリート層が子弟を送る名門寄宿学校イートン校で学んだ。
レントン氏は英国と奴隷制とのかかわりについて、まったく知らずに育ってきたという。
しかし、母方ファーガソン家はかつて西インド諸島で奴隷を使ったプランテーションを経営していた。
スコットランド南部にあるファーガソン家の大邸宅に保管されていた書簡やそのほかの書類を紐解きながら、レントン氏は、プランテーション経営の実態を探ってゆく。
レントン氏の祖先は政治家、法律家、歴史家などの知識層であった。そんな人々がなぜ黒人を奴隷として使うことができたのか。これがレントン氏の疑問だった。
18世紀、西インド諸島へ
1773年、26歳のジェームズ・ファーガソンが西インド諸島に向けて出発した。
ジェームズの兄弟も数年前からジャマイカでアフリカから調達した奴隷150人を使って砂糖のプランテーションを経営しており、ジェームズのような若者にとって、西インド諸島への船出は「ロマンチックな冒険」の意味合いを持っていた。
トバゴ島でのプランテーション設置を決めたジェームズは、英国に住む兄たちに必要なものを送ってくれるよう手紙を書く。
「理解ある経営者」と自らを描いていたが、送付物品の依頼リストには「強力な南京錠付きのニグロ用首輪」や鎖、手錠などがあった。
当時のトバゴ島は住民のほとんどが黒人奴隷で、1775年の調査では393人が白人、黒人奴隷は8611人。とらわれた黒人住民による反乱は何度かあったが、最後は常に白人側の勝利で、「ほかの奴隷への見せしめ」として残酷な方法で殺害された。
過酷な労働条件や住環境の下、奴隷たちも経営者も事故や伝染病に苦しみ、1777年、ジェームズも現地で命を落とす。
現在のトバゴは、トリニダード・トバゴ共和国の一部。首都はポート・オブ・スペイン。1889年に英国の植民地となったことで、トリニダード島とトバゴ島が合併した。1956年に英国の自治領となり、62年、独立。76年に共和政に移行した。共和国の人口は約140万人。
現地を訪れる
レントン氏は、本の執筆のためトバゴ島を訪れ、プランテーション跡を歩く。地元住民と会話し、自分の先祖がプランテーションをかつて経営していたことを明かす。
ファーガソン家がトバゴ島よりも長くかかわっていたのが、ジャマイカのプランテーションだった。
一度も現地を訪れなかった経営者アダム・ファーガソンとプランテーションを実質的に経営した監督者との間の手紙のやり取りが紹介される。
奴隷の購入には値が張るようになり、アダムは現地監督に女性奴隷の出産を奨励するようになる。当時は白人雇用者が黒人奴隷の女性に性的行為を働くことが日常茶飯事となっており、実際に「個人的に」子供を増やす行為に貢献した現地監督もいた。
19世紀に入って人道主義的観点から奴隷制廃止運動が盛んとなり、1807年、英国では奴隷貿易が禁止された。1833年には奴隷解放令が出た。この時、英政府は巨額のローンを組んで奴隷所有者に補償金を支払った。すべてを払い終わったのは2015年である。
ジャマイカの奴隷制は1834年以降廃止されていたが、大部分の黒人住民がその後も貧しい生活を続けた。参政権を持つには高額の投票費用を払う必要もあって、投票できるのは人口比で少数派の白人住民がほとんどだった。
1865年、黒人住民らによる暴動(「モラント湾の暴動」)が発生し、これはジャマイカ政府によって鎮圧されたが、最終的に約1000人の黒人住民が亡くなった。白人住民の死者は21人のみ。1962年、ジャマイカは英国からの独立を果たす。
レントン氏はジャマイカに赴き、住民や学者に話を聞く。西インド諸島大学ベリーン・シェパード教授の調べによれば、1514年から1866年の間に、約1250万人がアフリカ大陸から強制的に移送されたという。このうち、約375万人が英国の船で植民地に運ばれた。
現在のジャマイカは立憲君主制の国である。首都はキングストン。人口約300万人。1670年に英国の植民地となり、1957年、自治領に。1962年8月に英国から独立した。住民の90%以上はアフリカ系だ。
アフリカ住民をなぜ奴隷にできたのか
レントン氏の先祖がアフリカの住民を奴隷として使うことができたのはなぜか?
同氏によれば、「人間の権利を信じるキリスト教徒として、私の先祖や同様の多くの人は実際に人間を所有することはできないと考えた」、そこで、所有行為を正当化するために、黒人住民を「人間以下の『モノ』であると認識せざるを得なかった」という。
本書の冒頭で、レントン氏は自分は「英国の奴隷制度の過去の継承者」という。「これが私の心を、文化、DNAを規定している」。自分は「経済的にも、文化的にも、今でも存在する(奴隷制度の)遺産の一部だ」。その遺産は、現在の「人種差別にも現れている」。
過去と現在を結びつける著作である。