(写真はターネス氏。BBCのサイトよりキャプチャー)
(雑誌「GALAC」掲載の筆者コラムに補足しました。)
年明け早々、英国の放送業界に激震が走った。公共放送最大手BBCが、ニュース部門の新たな統括役にライバル局向けの報道番組を取材・制作するITNの最高経営責任者(CEO)デボラ・ターネス氏を抜擢したからだ。その影響力から言って、英国のジャーナリズム界において最も重要なポジションである。
BBC経営陣がニュース部門の統括役に外部から人材を求めること自体は初ではない。例えば前々回の統括者は保守系高級紙「タイムズ」の編集長だった。
しかし、ITNはBBC以外の主要放送局ITV、チャンネル4、チャンネル5向けの報道番組を作る会社だ。今回の人事は秒を争うニュースの戦争の中で「敵」のトップの首を持ってきたに等しい。その役職名を「ニュース部門ディレクター」から「ニュース・時事部門CEO」に改め、BBCは同氏起用の意気込みを示した。
ターネス氏は、1967年3月生まれの満55歳。イングランド地方中部で育ち、十代半ばから学校の勉強の傍ら地域のニュースサイトの制作に記者としてかかわるようになった。次第にニュースの魅力に取り憑かれ、学校で発行される新聞に寄稿したり、ラジオ局を自前で立ち上げたり。
南部サリー大学でフランス語と英語を専攻した後、仏ボルドー大学大学院ではジャーナリズム・コースを選択した。「将来はジャーナリストに」。心はもう決まっていた。
しかし、英メディア界ですぐに職を得るのは至難の業で、まずはITNのパリ支局でお茶汲みから始めた。無給の仕事である。
チャンスが巡ってきたのは、1988年の仏大統領選だった。チャンネル4の主力報道番組「チャンネル4ニュース」のメインキャスター(当時)、ジョン・スノー氏のプロデューサーが病気になり、急きょ、在仏の誰かが南仏に飛んで、現職のミッテラン大統領の対抗馬ジャック・シラク氏にインタビューしなければならなくなった。白羽の矢が立ったのが21歳のターネス氏。シラク候補の独占インタビューをスノー氏が番組で大きく取り上げた。「面倒を見るよ」と約束したスノー氏の尽力で、ITNへの正式入社が決まった。
その後はITNが番組を提供する各テレビ局で経験を積み、2004年、37歳でITVの報道部長に就任。女性として初かつ最も若い年齢での着任だった。2005年7月上旬、ロンドンテロが発生し50数人が犠牲となったが、同月末、ロンドン内での爆破テロ事件の実行犯逮捕の様子を大々的にスクープ報道したことで知られる。
2013年2月、ニュースへの才覚と経営感覚を買われ、米主要ネットワークの1つNBCニュースの社長に就任した。当初、いくつもの虚偽発言を行っていた著名スポーツ・キャスターのスキャンダル処理に追われたが、主力ニュース番組の視聴率を向上させた。
2017年からはNBCインターナショナルの社長になり、英有料テレビ・スカイとの提携によって米CNNに対抗する国際ニュースチャンネルを開設しようとしたが、実現しなかった。昨年4月、英国に戻り、古巣ITNの社長に。1年半後にはBBCに移籍することになった。
(画像は開局から100年の特設ページ。BBCのサイトからキャプチャー)
BBCは、今年、開局から100年を迎えた。最も、当初は「英国放送協会」(British Broadcasting Corporation)ではなく、無線機メーカーが共同で設立した民間企業「英国放送会社」(British Broadcasting Company)だった。 1922年10月、政府がBBCにラジオ受信機の販売と放送の事実上の独占権を与える形で、BBCは産声を上げた。その後、放送は公共事業体として運営されるべきとする放送調査委員会による勧告を経て、1927年、公共放送BBCとなった。初代会長リース卿はBBCの目的を「情報を与える、教育する、楽しませる」と定義したが、これは今でも、BBCのミッションだ。
2022年の現在、英国の放送界は100年前とは様変わりした。自分が好きな時に好きな番組を視聴する形態が普通となり、視聴デバイスも多彩だ。ライバルは国内だけではなく、資金力が豊富な米有料配信サービス、ネットフリックスやアマゾンプライムになった。
6000人の報道部職員を部下とするターネス氏の直近の課題は、経費を削減しながらいかに質の高いニュース番組を作るかになるかもしれない。
昨年から、政府とBBCは今後5年間のテレビライセンス料の値上げ率について交渉を続けてきた。テレビライセンス料はNHKの受信料にあたる。年間で159ポンド(約2万5000円)。BBC側は年に約5%のインフレ率と連動させることを望んだが、今後2年は凍結と決まった。インフレ率に上乗せする値上げにしないと、実質的には予算削減となってしまう。特に今、英国はインフレ率が二ケタ台に近づいており、相当厳しい経営となりそうだ。 情報が溢れる中、信頼できる報道機関としてどのように生き延びるのかも課題になるだろう。筆者もターネス氏の手腕に期待している。