なすびの「懸賞生活」ドキュメンタリー 英BBCでも放送 壮絶な人生の軌跡描く
「なすび」と聞いて、タレントのなすび、そして彼が部屋の中に閉じこもって懸賞生活を送ったお笑い番組を想起する人は多いに違いない。
初放送が1998年だったので、20代あるいは10代の人は放送時には見られなかっただろうけれども、どこかで動画を見たり、話に聞いたりしたこともありそうだ。
番組の受け止め方 当時は・・・
放送時、筆者は東京の会社に勤めていた。日曜日も勤務日だったので、仕事を終えて帰宅し、「テレビをつけたら、やっていた」のが日本テレビ系列の「進ぬ!電波少年」(1998年1月ー2002年9月、日曜午後10時から10時半)だった。
当時はオンデマンド放送やユーチューブなどの動画サービスは始まっておらず、テレビの番組は放送時に「たまたまそこにいた」形でしか、視聴できなかった。電波少年シリーズは1992年から放送開始(当初は「進め!電波少年」)されていたが、自分がいつから何を見たのかは詳しく覚えていない。
なすびの懸賞生活の様子もリアルタイムで見たのか、雑誌でそのような話を読んで知ったのかさえ覚えていないが、もしリアルタイムで見ていたら、司会の松本明子と一緒に「ええ!」と驚きつつも、会場にいるオーディエンスとともに笑って見ていたに違いない。
この番組は若いタレントを海外に送り、自力で日本に戻ってくるようにさせる企画など、びっくりするような設定でのドキュメンタリーとドラマが合体したような面白さがあり、過酷だなとは思ったものの、タレント自身や事務所が了解の上でやっているのだろうし、「タレント合意のリアリティーショー」という認識だった。
しかし、なすびの懸賞生活の番組は実は本人や家族にとって非常に深刻な影響をもたらすものだった。当時の体験を英監督が「ザ・コンテスタント(「出場者」の意味)」としてドキュメンタリー化し、筆者は初めてその意味合いを知った。
米英で公開へ
なすびの本名は浜津智明さん。この記事の中では便宜上、「なすび」というタレント名で話を進めていきたい。
なすびの懸賞生活の番組とその後を描いた「ザ・コンテスタント」を監督したのは、クレア・ティトリー氏である。
ネットで番組のことを知り、なすびにドキュメンタリー化の話をもちかけた。「私が目にした内容の多くは、誹謗中傷に近かった。なすびに何が起きたのか、深く語るものはなかった。彼はなぜあの場所にとどまったのか、それが彼にどういう影響を及ぼしたのか……など、疑問が残った」という(BBCニュース、2024年6月21日)。
英国で制作され、2023年9月、カナダのトロント国際映画祭で上映された。その後は米英で公開。米配信サービス、Huluでも視聴できるようになった。
今年6月、英BBCで放送された。BBCは無料オンデマンドサービス「アイプレイヤー」を提供しているので、何度も視聴可能だ。
裸で、部屋の中で懸賞に応募する毎日
改めて、どんな番組だったのかを記してみよう。
「進ぬ!電波少年」は「運だけが頼りの企画」を開始するため、オーディションを開催した。若いタレントたちの中からくじ引きを当て合格したのが、当時22歳のなすびだった。
番組は「人は懸賞だけで生活をしていけるか」をテーマに掲げて放送され、なすびは「電波少年的懸賞生活」(放送は1998年1月から1999年4月)のチャレンジャーとなったのである。
裸でアパートの一室に監禁されたなすびは、様々な懸賞に応募する日々を送った。日本と韓国を舞台に1998年から1年3ヶ月にわたってそれぞれの目標商品総額(日本では100万円、韓国では日本までの片道飛行機代)を達成する。
先のBBCの記事によれば、なすびは「自分が撮影されていることは知っていたが、その映像がどこで使われるのかは、あいまいな説明しかされていなかった。テレビで放送されることは、おそらくないだろうと思っていた」。懸賞生活中にテレビを当てたものの、ケーブルやアンテナがなくテレビ番組を見ることができなかった。
実際には「進ぬ!電波少年」の人気コーナーとして全国放送され、なすびは次第に有名人になった。懸賞生活の日々を綴った書籍「懸賞日記」も出版され、ベストセラーとなったのである。
今見ると、どうなのか
なすびの顔の長さは本人にとっては当初コンプレックスだったようだが、にっこり笑うとこちらも思わず笑ってしまう温かみがあった。テレビの画面を通して見るなすびは様々なユーモラスな格好をし、「面白い」「楽しい」印象が当時の筆者にはあった。
しかし、今回「ザ・コンテスタント」を見て、当時の動画の中でいかにも「新人」という感じの20代前半のなすびがくじでチャレンジャーに選ばれた瞬間から、どうにも胸騒ぎがして落ち着かなくなった。
見ているこちらも、制作者側もこれから何が起きるかを知っている。しかし、この若者は知らないのである。なすびの所属事務所は彼の身柄をテレビ局側にゆだねてしまう。
テレビ局で「神」的存在として恐れられていたのがプロデューサーの土屋敏男氏である。彼の決断で「電波少年的懸賞生活」が始まる。
この時の若いなすびは「無警戒すぎた」と言えなくもないのだが、そういう無垢の部分を番組制作側や事務所が無意識のうちかもしれないが、「利用した」のではないか。少なくとも、筆者にはそう見えてしまったので、胸がドキドキしてきた。
一連の「Me Too」の流れや、最近ではタレントの中居正広によるフジテレビの元女性アナウンサーへの性加害問題、つまりはメディア界・エンタテインメント界で時々発生する、力のある「使う側」の人とその人に「使われる側」との間の人権侵害状況などが頭に浮かんだ。
なすびと懸賞生活の番組の場合は、性加害ではなかった。しかし、力の上下関係があったし、「ここを通れば有名になれるのだから」というプレッシャーがなすびにかかっていたのではないかと思わせた。
「もっと面白くさせたいから、タレントにこうさせよう・ああさせよう」と制作側が考え、番組が超人気になったので、「成功」であり、「もっとやらせよう」となってしまう構図が見えるようでもあった。
ちなみに、部屋に鍵はかかっていなかったという。したがって、「逃げようと思えば逃げられた」のである。しかし、なすびは逃げなかった。逃げなかったからと言って、「本人の積極的な同意があった」とは言えない、というのが、「Me Too」などの報道を通して、私たちが学んだことである。
なすびと制作者側との関係
ティトリー監督の「ザ・コンテスタント」には現在のなすび、彼の家族、そして当時の番組制作者、事務所の職員などが登場し、当時と現在の心境や狙いを語る。
ここで私たちははじめて、いかに家族が裸でテレビに出るなすびについて悲しく思っていたのかが分かる。母は「やめさせてほしい」と思っていたが、テレビ局の誰に連絡したら終わるのかが分からなかったと話す。
現在のなすびは、1年3か月の懸賞生活の間に死のうと思ったことが何度もあったことを告白する。
なぜ、このようなことをやらせたのだろう?
制作者側の説明では、誰も見ていないような面白い映像を撮ることを重要視していたようだった。
過去を乗り越える
「ザ・コンテスタント」を見た限りでは、なすびの気持ちと制作者側の優先度は別方向を向いているようだった。
懸賞生活の番組の最後、長髪となったなすびの部屋の壁が崩れ、スタジオ内に裸で座っている自分を知って、なすびは茫然となる。制作者側にとっては素晴らしい終わり方だそうだが、なすびにとっては思い出したくない、見たくない最後なのだ。
それでも、人生は続く。
福島出身のなすびは、2011年の東日本大震災を機に地元の復活と再生のために動く人になった。エベレスト登山に挑戦し、2016年に4度目のトライで遂に登頂に成功する。この間、登山資金調達のために懸賞生活時代の制作者と協力することも辞さなかった。
「ザ・コンテスタント」は、なすびのすがすがしい再生の物語でもある。
しかし、なすびの心身に残った傷は消えないのではないか。
リアリティーショーの先駆
懸賞生活の番組は世界中ではやるリアリティーショーの先駆けだった。草分け番組「ビッグブラザー」(オランダで1999年初放送、英国では2000年から)の前だ。ジム・キャリーが24時間その生活を監視される男性の役を演じた映画「トゥルーマン・ショー」が米国で公開されたのは1998年6月。「電波少年的懸賞生活」はその数カ月前に始まっている。
ここ数年を振り返ると、私たちは職場での上下関係がセクハラあるいは性加害に発展した実例をいくつも目にしてきた。米映画プロデューサー、ハーベイ・ワインスタインによる性加害の告発をきっかけに世界的に広がったMe Too運動、故ジャニー・喜多川による性的搾取(「ジャニーズ問題」)の暴露、中居・フジテレビ問題で明確になったエンタメ界の不合理な力関係や癒着問題などが思い起こされる。
これからは、力のある人が他者にプレッシャーをかける、あるいは本人に自分の身に何が起きるかを十分に知らせないで何かをさせる行為を繰り返さない・繰り返させないようにするために、私たち一人一人が気を付けていこう。安心して生き、働くことができる社会を維持していこう。
「ザ・コンテスタント」、ぜひ日本でも視聴できるようにしていただきたい。
