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小林恭子の英国メディア・ウオッチ ukmedia.exblog.jp

英国や欧州のメディア事情、政治・経済・社会の記事を書いています。新刊「なぜBBCだけが伝えられるのか」(光文社新書)、既刊「英国公文書の世界史 一次資料の宝石箱」(中公新書ラクレ)など。


by polimediauk

プーチン政権に命を狙われたら ジャーナリストたちの物語をつづる「Antidote(解毒剤)」

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命が危ないと言われたグロゼフ氏(撮影 Edgar Dubrovskiy, Courtesy of Passion Pictures)

メディア展望」7月号掲載の筆者記事に補足しました。)

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 「プーチンが殺した」。

 2006年、ロシアの情報機関・連邦保安庁(FSB)の元中佐で英国で亡命生活を続けていたアレクサンドル・リトビネンコ氏がロンドンで毒を盛られて亡くなった時、同氏の妻マリーナさんは報道陣にこう述べた。当時、あまりにも突飛で大げさに聞こえたものだ。英国に住む、たった一人の元情報員の殺害をロシアの政権トップが指令するものだろうか。


プーチン大統領が「おそらく承認」

 しかし、2016年、英国政府が設置した独立調査委員会はロシア人実業家らがロンドンのホテルでリトビネンコ氏の飲み物に放射性物質ポロニウム210を混ぜ毒殺したと断定した。暗殺はFSBの指令の下で行われ、プーチン大統領が「おそらく承認していた」。

 2018年には英南部ソールズベリーでロシア連邦軍参謀本部情報総局(GRU)の元大佐セルゲイ・スクリパリ氏と彼の娘が神経剤ノビチョクで襲われ、意識不明の重体となった。実行犯はGRUの将校たちである。


ナワリヌイ氏の末路

 プーチン政権による政敵の弾圧例として日本でもよく知られているのが、反体制活動家アレクセイ・ナワリヌイ氏の末路だ。2020年、同氏はノビチョクと思われる神経剤の攻撃を受けてドイツの病院に入院し、治療後にモスクワに戻ったところで逮捕された。22年に詐欺罪で有罪となった。北極圏にある刑務所に収監されていたが、2024年2月、獄死が発表された。

 ロシアの調査報道サイト「ザ・インサイダー」は捜査当局の文書を入手し、政府側が発表した自然死ではなく毒殺だったと報じた。先のマリーナさんの発言がもはや大げさとは思えなくなった。

命を狙われるジャーナリストたち

 ナワリヌイ氏へのノビチョク攻撃とプーチン政権との関係を探るドキュメンタリー映画「ナワリヌイ」は2023年から世界中で公開されたが、その続編的な意味合いを持つドキュメンタリーが今春から英国と米国で放送・上映されている。

 英監督ジェームズ・ジョーンズによる「Antidote(解毒剤)」は英国では公共放送チャンネル4(フォー)で「Kill List(殺人リスト)」という題名で放送され、ロンドンのジャーナリストのクラブ「フロントラインクラブ」では原題のままで上映された。

 「Antidote」はプーチン政権の敵となったジャーナリスト、政治活動家、その家族、そしてノビチョクの開発にかかわったロシアの科学者の奮闘を描く。冒頭に出てくるのが、ブルガリア出身のジャーナリスト、クリスト・グロゼフ氏の話である。


「べリングキャット」のリーダー役

 英国で発祥した調査報道サイト「べリングキャット」のリーダー役として活動していた同氏はニューヨークに出張後、ウィーンにいる家族の元に戻る直前に米情報機関から「戻れば命が危なくなる。飛行機に乗るな」と警告された。オーストリアに住む父親に電話し、自分がプーチン政権の暗殺対象者の一人になったことを告げる。辛いニュースを伝えるグロゼフ氏の様子をカメラが映し出す。その後、再度父親と連絡を取ろうとするが、Facebookで頻繁に近況をアップデートする父は突如沈黙してしまう。自分の命も心配だが、父親の行方も心に重くのしかかってきた。

 グロゼフ氏の命は大丈夫なのか、そして父や妻、娘とはいつ会えるのか。まるでスリラー映画を見るようなハラハラする物語が展開していく。


悪のネットワークを暴く(撮影 Edgar Dubrovskiy, Courtesy of Passion Pictures)
悪のネットワークを暴く(撮影 Edgar Dubrovskiy, Courtesy of Passion Pictures)


ロシア政府の暗躍を暴露

 グロゼフ氏は、ロシアのザ・インサイダーの創設者ロマン・ドブロホトフ氏とともにスクリパリ氏暗殺未遂事件やナワリヌイ氏に対して行われた神経剤攻撃における、ロシア当局の役割を暴露したことで知られている。グロゼフ氏は元ラジオ・ジャーナリストで2015年からベリングキャットに参加した。堪能なロシア語を生かし、ロシア関連の調査で活躍してきた。映画「ナワリヌイ」にはグロゼフ氏とナワリヌイ氏が神経剤攻撃に加わった人物を探し当てる場面が入っている。

 一方、ロシアでは自分が開発に関わったノビチョクが暗殺に使われたことを知った科学者が、亡命を試みる。グロゼフ氏はこの亡命が成就するよう、支援する。科学者が野原を横切って、支援者の車に乗り込むまでの経緯は手に汗握る場面だ。この科学者や家族の顔は特定されないように加工して映し出されていた。

 ドキュメンタリー作品の制作は秘密裏に行われ、制作スタッフ間の連絡は暗号を使ったという。ポストプロダクションの作業はオフラインで進めるほど念を入れた。


カラムルザ氏の妻の訴え

 プーチン政権に複数回毒を盛られたうえに投獄されたロシアの政治活動家ウラジーミル・カラムルザ氏の処遇も描かれる。同氏はドキュメンタリー制作時の数年間を刑務所で過ごしたため、彼の妻エフゲニアさんが彼の代弁者として登場した。


妻エフゲニアさん(撮影Jean-Louis Schulle, Courtesy of Passion Pictures)
妻エフゲニアさん(撮影Jean-Louis Schulle, Courtesy of Passion Pictures)

 カラムルザ氏は、ロシアによるウクライナ侵攻を批判したことで国家反逆罪などで禁錮25年の実刑判決を受けたが、昨年8月、欧米との大規模な身柄交換によって釈放された。

 同年9月20日、ロンドンで記者会見したカラムルザ氏は「寝ても覚めても(刑務所に)残された人々のことを考えている」と述べ、ロシアで拘束中の政治犯らの釈放を呼びかけた。収監中は連帯を示す何千通もの手紙を毎月受け取っていたという。
 カラムルザ氏は、ロシア国内の反戦の機運を高め、ウクライナ侵攻を失敗に追い込まなければならないと訴えた。

 ネタバレ的になるが、グロゼフ氏はドキュメンタリー作品の中では命を落とさなかった。今年4月、フロントラインクラブでの作品上映時、ニューヨークから飛んできた同氏は会場に姿を見せ、参加者からの質問に答えた。

 3月20日、ロンドンのヒースロー空港が近くの変電所で発生した火災の影響で停電し、一時閉鎖に追い込まれた。「ロシアによる破壊工作か」。グロゼフ氏は「個々の案件については答えられないが、不審な事故の背後にはロシアが関与している可能性が高い」と述べた。


グロゼフ氏は日本でも取材

 質疑応答後、グロゼフ氏と話していると、自分自身が制作するドキュメンタリー作品の取材のため、これから日本に出張予定だという。題材はドイツの金融サービス大手ワイヤーカード(2020年経営破綻)の元最高執行責任者ヤン・マルサレク氏だ。オーストリア生まれの同氏はワイヤーカードの不正会計発覚後に逃亡し、行方不明となっているが、ロシアに在住するといわれている。不正会計に関連する詐欺容疑で、指名手配中だ。

 グロゼフ氏がマルサレク氏の動向に強い関心を持つのには理由がある。今年3月、ロシア当局のためにスパイ活動を行っていた在英ブルガリア国籍の男女数人に有罪判決が下ったが、スパイ網の主なターゲットはグロゼフ氏とドブロホトフ氏で、殺害も計画されていた。英検察局によると、在英ブルガリア人によるスパイ網のリーダー的存在の人物を勧誘したのが、ロシアの情報機関の仲介者マルサレク氏だった。同氏のドキュメンタリーは2027年の米サンダンス映画祭で上映予定だ。


by polimediauk | 2025-08-19 16:11 | 英国事情