人気ブログランキング | 話題のタグを見る

小林恭子の英国メディア・ウオッチ ukmedia.exblog.jp

英国や欧州のメディア事情、政治・経済・社会の記事を書いています。新刊「なぜBBCだけが伝えられるのか」(光文社新書)、既刊「英国公文書の世界史 一次資料の宝石箱」(中公新書ラクレ)など。


by polimediauk

英国の「対日戦勝記念日」 BBCが伝える戦中・戦後のエピソード 「忘れられた戦争」とは

 8月15日を「対日戦勝記念日(Victory over Japan Day=略称VJデー)とする英国では、同日、国立記念樹木園で英国在郷軍人会連盟による式典「追悼サービス」が開催され、各メディアは式典の様子を生中継した。

 BBCニュースは、式典開始前から関連のニュースをウェブサイトで刻々と報道した。前回、その一部を紹介したが、今回は複数の記事を見てみたい。日本人としては読むのがつらい記事もあった。「他国ではどう報じられているのか」を知るための参考になれば幸いである。以下はその一部の抜粋である。

 ほかには原爆の被爆体験者の話も報道され、8月に入ってからはテレビやラジオで広島・長崎の被害や衝撃を伝える番組が複数放送・配信された。

***

太平洋戦線では英兵36万5000人が戦う

 「1945年5月、ドイツ軍の降伏で欧州戦線は終わったが、数千マイル離れた東南アジアのマラリアがはびこる密林では、さらに3か月間にわたり激しい戦争が続いた」。

 「英国退役軍人協会によると、1945年までに36万5千人の英国兵と150万人の英連邦の兵士がアジア太平洋地域で戦い、さらに分割前のインド軍から250万人もの兵士が志願兵として従軍し、史上最大規模の志願軍を形成した」。

 兵士らは「帰国後、祖国からほとんど顧みられることがなく、残酷な戦場や捕虜収容所での体験を語ることができない人も多くいた。戦争終結による安堵と喜びがあった一方で、犠牲の大きさへの深い悲しみもあった」。

 (Thirty-three veterans of Asia-Pacific invited as guests of honour 午前10時34分掲載記事)


「心は恐怖で締め付けられる」:日本によるシンガポール占領

 8月15日、昭和天皇によるラジオ放送で第二次大戦の終結が告げられた。これは同時に、日本によるシンガポール占領の終わりも意味していた。

 1942年、英国の植民地だったシンガポールが日本軍に降伏する。

 「その夜から一斉に、数万人に及ぶ英軍や連邦軍の兵士とその家族が拘束され、チャンギ刑務所へ送られた。刑務所は、収容能力の16倍に達したとも言われている人々であふぃれかえった」。

 「多くの捕虜は過酷な労働、食糧不足、劣悪な生活環境に苦しめられた。現地住民に対して多数の残虐行為が行われ、強制労働、拷問、暴行のほか、反日的であると疑われた最大5万人の中国系男性が虐殺される事件も起きた」。

 ***

 補足:この事件は「シンガポール華僑粛清事件(スークチン虐殺)」と呼ばれている。1942年2月から3月にかけて、日本軍がシンガポール占領直後に行った中国系住民の大量虐殺のことを指す。犠牲者数は日本側は数千人、シンガポール政府や研究者の推定では6万人。事件はシンガポール華人社会に深い傷を残した。

 ***

 「スークチン虐殺事件が起きたとき、タン・キム・ワー氏は14歳だった」。
 「『(日本兵が)金属の針金を捕虜の腕に突き通し、その針金で何人もをつなぎ合わせるのを見ました。逃げることができないようにするためです。その後、彼らはトラックに積まれ、虐殺現場へ運ばれていきました」。現在96歳の同氏はストレーツ・タイムズ紙にこう語っている。

 「現地の元学者ゲイリー・リット氏も、戦争を体験した母が生前、同様の記憶に苦しんでいたとシンガポールのメディアに話した。母親は2017年に亡くなるまで、体験を忘れることはできなかった。「母は私にこう言いました。『日本の旗を見るたびに、心が恐怖で締め付けられる』と」。

 ('My heart is gripped with fear': Living through Japan's occupation of Singapore 午前11時01分掲載記事)


アジアが日本の占領をどう記憶しているか

 終戦で「日本によるアジア各地での占領は終わったが、その支配の暗い記憶は今も各国の歴史認識に深く影を落としている」。

朝鮮半島
 「日本の降伏は、35年に及んだ朝鮮半島の占領の終わりを意味した。この間、数千人の朝鮮人女性が『慰安婦』として性の奴隷にされ、さらに10万人以上の朝鮮人が日本の工場や鉱山で強制労働をさせられた」。
 「北朝鮮と韓国の両方で8月15日は『解放の日』として祝われ、日本の植民地支配からの解放を記念する。韓国ではこの日を「光復節」(光の回復の日)と呼び、国旗の掲揚が奨励されている」。

中国
 「1937年から1945年まで続いた日中戦争は、歴史上最も破壊的な戦争の一つとして記憶されている。数百万の中国人市民が犠牲となり、その中には南京での悪名高い大虐殺も含まれる。中国では、日本が降伏文書に署名した翌日の9月3日を抗日戦争勝利記念日と定めている」。

***

補足:南京虐殺とは:1937 年12月、旧日本軍が中国国民政府の首都南京を占領し、中国軍の敗残兵や、捕虜、市民を殺傷、暴行した事件。1947年の南京軍事法廷(南京裁判)判決では死者は「30万人以上」。1948年、11カ国の裁判官による「極東国際軍事裁判(東京裁判)」判決では「日本軍が占領してから最初の6週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は20万以上」。日本の外務省のホームページでは「日本政府としては、日本軍の南京入城(1937年)後、非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できない」「しかしながら、被害者の具体的な人数については諸説あり、政府としてどれが正しい数かを認定することは困難」。(参考:南京大虐殺を武勇伝のように語った元兵士。聞き取った神戸の老華僑が感じたことは 「日本が好きだからこそ黙らない」声上げ続けた半生はドキュメンタリー映画に【戦後80年連載・向き合う負の歴史(7)】)

***

 「日本の占領下の東南アジアでは数百万人が命を落とした。8月15日を広く記念することはないが、日本の占領に関連した以下の日付が記憶されている」。

 2月15日:マレーシアとシンガポールでは、1942年に連合軍が日本に降伏した日として記念

 4月9日:フィリピンの「勇者の日(Day of Valor)」は、第二次大戦中のフィリピン兵士たちの勇気を称える日

 8月17日:インドネシアは日本の降伏直後に独立を宣言した。しかし、オランダからの独立闘争は1949年まで続いた」

(How Asia remembers Japanese occupation 11時07分掲載)


赤ん坊で捕虜になった

 記念式典に招待された一人がキャサリン・キャニングさん(83歳)。その体験をBBCニュースに語っている。キャニングさんは生後11か月のとき、家族と共に「敵性外国人」と見なされた。一家は日本占領下の中国にあった濰県(ウェイシェン)収容所に連行された。

***

 補足:同収容所は1943年以降、日本軍が中国を占領していた時期に設置された。収容されたのは欧米の宣教師、教師、商人、その家族など。主にイギリス、アメリカ、カナダ、オランダなどの民間人軍人捕虜ではなく、「敵性外国人」と見なされた民間人が中心だった。生活は非常に厳しく、食糧や医薬品不足、労働の強制、狭く不衛生な環境に苦しめられたと言われている。

***

 キャニングさんの当時は記憶は断片的だが、鮮明に残っているものもあるという。

 「瓦礫の中で錆びた釘を探していたのを覚えています。何でも貴重だったからです」。

 「父に水をかけて、面白がって笑っていたこともあります。でも父はとても怒りました。あれは家族の一日の水の全てだったからです。」

 1945年8月17日、連合軍のパラシュート部隊(米軍と中国軍の混成部隊) が収容所に降下し、収容者たちは解放された。キャサリンさんは3歳になっていた。

 ('I was a prisoner of war as a baby’ 11時07分掲載)


インド陸軍捕虜の証言朗読

 シンガポール陥落時(1942年2月)に日本軍の捕虜となったインド陸軍のモハンマド・ガニ・ラシュディ元大佐(104歳)の証言が紹介された。
 本人は式典に出席できなかったため、俳優のニティン・ガナトラ氏が代読した。

 「収容所で過ごした日々は、できるだけ思い出さないようにしています。」

 孫たちに尋ねられると、元大佐は「残酷な日本兵の看守たち」について語った。「殴打され、ろくに食事も与えられないまま、一日中『ロバのように』働かされた、と」。

 「それだけではありません。日本兵は、イスラム教徒の捕虜の前に豚肉を、ヒンドゥー教徒の前には牛肉を置いて、私たちを嘲るのです。わずかな食料も、しばしば虫に汚染されていました」(注:宗教上の理由から、イスラム教徒は豚肉を、ヒンドゥー教徒は牛肉を食べない)。

 「私を支えてくれたのは祈りだけでした。毎日『ここから出してくれ』と祈っていました。誰もがそうでした。信じる神は違っても、皆が同じことを祈ったのです――自由を、と」

 3年以上の収容生活後、戦争が終わる。「まるで何年も鳥籠に閉じ込められていた鳥が、羽ばたいて飛び立つようなものでした」

 元大佐は証言の最後を次の言葉で締めくくった。「怒りを胸に歩んではならない。静けさに導かれて進むのです」。

 ('We all prayed for freedom': Indian Army POW account read out 12時47分掲載)


父たちの従軍に敬意を表する

 英国西部ウェールズ地方でもVJデーに関連する行事が行われた。

 ウェールズ国立戦争記念碑前での式典で、ウェールズ自治政府のヒュー・イランカ=デイヴィス副首相は在英日本大使館の池上正喜特命全権公使と共に記念碑に献花した。

 式典にはすべての宗教共同体の代表者が参列し、アレッド・エドワーズ司祭が「現代の世界においても、私たちがなお平和を追い求めなければならないという強いメッセージを発する必要があります」と述べた。

 父ジャックさんがビルマ(現在のミャンマー)で従軍し、その写真を携えたコリン・ロジャーズさんも参列し、このように語った。

「彼らは『忘れられた軍隊』と呼ばれていました。欧州で戦争が終わった後も、アジアではさらに3か月間戦いが続いていたのです」。

 テレンス・ヘロンさんも父の勲章を胸に式典に臨んだ。「父はビルマに行きました。幸運にも帰還でき、その後北アフリカにも従軍しました。彼もまた自分の役割を果たしたのです。父がどこへ行ったのかを教えてくれたのは、亡くなるときでした。当時の人は戦争体験を語らなかったのです。私には、彼らが何を経験したのか分からないのです」。

(Sons paid respect for their fathers' service in Cardiff on Thursday 13時49分掲載)

***

補足:「忘れられた軍隊(the forgotten army)」とは

 第二次大戦中、ビルマ戦線や東南アジアで戦った英国及び英連邦軍の部隊を指す。特に、インド兵や英兵、オーストラリア兵など、多国籍で構成された部隊。

「忘れられた」と呼ばれるのは、欧州戦線(ノルマンディー上陸作戦、ドイツ降伏など)に比べ、アジア・太平洋戦線は欧米のメディアや国民の関心が低く、戦後も広く知られることが少なかったため。ビルマ戦線での過酷な戦い、マラリアや飢餓、過酷なジャングル戦、熱帯雨林での長期行軍や補給不足、日本軍との激しい戦闘に直面し、捕虜となった場合は、強制労働や飢餓、虐待の対象になったにもかかわらず、多くの兵士の体験が表に出なかった。近年になってようやく追悼式典や書籍、ドキュメンタリーでその勇敢さと苦難が紹介されるようになった。

***

インドネシアにおける「慰安婦」

 「第二次大戦中、日本の占領下で、韓国や中国、フィリピンなどアジア各地で何十万人もの女性が『慰安婦』として徴用され、日本兵の性的奴隷にされたことがある」。

 「インドネシアでは、こうした女性たちの話は、1990年代までほとんど埋もれたままだった」。

 「ソロ市出身のトゥミナは、性的暴力の被害を公に語った最初の生存者となった」。

 彼女は1944年、当時性労働者として働いていたところを「日本軍の憲兵に集められ、他の女性たちと共に売春宿に閉じ込められた」。

 トゥミナの姪であるヘニング・サプタニンシさんは、BBCに次のように語っている。

「ホテルに何日も閉じ込められ、心身ともにとても疲れていたと、トゥミナは言っていました。もし選べるなら、あんな生活はしたくない、あれは私にとって痛みでしかない、と」。

 トゥミナの証言は、他のインドネシアの生存者たちが声を上げるきっかけとなった。「中には、旅回りの劇団で俳優になると騙され、同じような施設に連れて行かれた少女たちもいた」。

 別の生存者は、BBCに対し、「9歳の時に日本の軍人に4日間連続で強姦されたと語っている」。

 「日本は慰安婦問題について公式に謝罪を行っているが、こうした努力は、一部の生存者や支援者からは誠意がないとみなされている」。

 一方で、一部のインドネシア人は、自国政府が慰安婦の補償や心の整理を求める声に応えてこなかったと指摘している。

 ヘニングさんはBBCにこう語っている。「どう言えばいいでしょうか。インドネシアは慰安婦問題を忘れてしまったように見えます。彼女たちの地位を改善するための措置を求めることは『無駄』です。インドネシア政府は聞く耳を持たないのです」

(The little-known history of comfort women in Indonesia 13時56分掲載)


by polimediauk | 2025-08-19 16:43 | 日本関連