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小林恭子の英国メディア・ウオッチ ukmedia.exblog.jp

英国や欧州のメディア事情、政治・経済・社会の記事を書いています。新刊「なぜBBCだけが伝えられるのか」(光文社新書)、既刊「英国公文書の世界史 一次資料の宝石箱」(中公新書ラクレ)など。


by polimediauk

AIに仕事を奪われる・・・あるドイツ語翻訳者の悩みの切実さ 機械に任せてしまう人間とは

 「やっぱり・・とうとうここまで来てしまったか」。

 そう思って読み始めたのが、ドイツ語と英語の翻訳者でホロコースト関連の文章を専門としてきた、英国の女性の話である(英フィナンシャル・タイムズ紙の有料記事、10月11日付掲載)。

 彼女は専門領域を持っているにもかかわらず、翻訳の仕事が減り、最近ではAIが生成した翻訳を修正する作業を依頼されるようになっている。こうした修正作業はゼロから翻訳するよりも多くの時間とエネルギーを要する。しかも、翻訳料は自分の手で翻訳した場合よりも低く設定されている。

 記事を読んで、人間が手掛ける翻訳という作業が仕事としては成り立たなくなっていることを筆者は改めて実感した。

 原稿あるいは本を書く作業も以前にもまして淘汰され、「人間がゼロから書くこと」は仕事としては成り立っていかなくなることも避けられないだろう。


「プログラムに任せた方がよい」と考える出版社

 記事に登場する翻訳家ジェシカ・スペングラーさんによると、「ますます多くの企業が、『翻訳ツールを使って安い金額で翻訳を済ませ、その後で人間に原稿をチェックしてもらえばいい。最初からわざわざ誰かを雇って翻訳させる必要はない』と考えている」という。

 昨年、英国著作家協会の労働組合が実施した調査によると、翻訳者の3分の1以上が生成AIによって仕事を失ったと回答した。また、10人中4人はAIの影響で収入が減少したと答えている。

 同協会の翻訳者部門を担当するイアン・ジャイルズ氏は、ChatGPTのリリースからおよそ半年後に不況が始まったという。仕事の量が激減し、多くの同僚が翻訳業から撤退せざるを得なくなった。

 翻訳の自動化は最近始まったことではない。2010年、Google翻訳のサービスが開始されると、翻訳業の雇用市場に大きな打撃をもたらした。2017年に開始された機械翻訳ツール「DeepL」もあっという間に普及していった。

 生成AIの登場で、こうした動きが一気に加速。通訳業と翻訳業は自動化によってその存続が脅かされるリスクが最も高い職業となった。

 書籍の翻訳サービス「GlobeScribe.ai」などを使えば、1冊の本を日本円で1万5千円程度で翻訳することも可能だという。人間の翻訳者を使った場合よりも、はるかに低い金額だ。


翻訳者がAIツールを使うとき

 スペングラーさんはドイツ語とユダヤ史を学び、ホロコーストに関連する書籍や文書の翻訳を専門としてきた。

 彼女自身も、DeepLを時々「ツールとして」使用している。その翻訳能力は「驚くほど優れている」と評価する。しかし、一見つじつまが合う翻訳になっていたとしても、問題はあるという。「何かの要点だけを知りたいなら問題ない。非常に読みやすいものが得られる。でも、言語が複雑だったり、特定の専門用語があったりする場合は、うまくいかなくなる」。

 現在、彼女に仕事の連絡が来るとき、しばしば粗雑な機械翻訳を修正する作業を依頼されるという。「最初に人間の翻訳者に依頼する代わりに、機械翻訳を通し、人間に修正を依頼する」。仕事の報酬額が少ないので、スペングラーさんはこれまでのところ、こうした種類の仕事を断ってきたが、そうできることは幸運だと感じている。

 自分の専門とする仕事をAIが行い、それを校正するだけの立場に追いやられることを「魂をすり減らすようなこと」だとスペングラーさんは感じている。誤りを見つけるには結局原文を確認する必要があるため、それは直接翻訳するのと同じくらい手間がかかる。「結局のところ、機械が下手に翻訳したものを直すには、より多くの時間とエネルギーが必要で、長期的にはクライアントにとってもより高くつく可能性がある」。

 筆者にも翻訳家の友人が何人もいるが、丁寧にやろうとすればするほど、時間がかかってしまうという。

 筆者自身も翻訳の経験が若干あるが、すいすいと仕事が進むわけではない。時間がかかってしまうのは、原文を読んで意味を理解した後、今度は日本語でどう表現するか、まるでパズルを解くように考える時間が必要だからだ。「考える」のは時間がかかる。「こう言うべきか、ああ言うべきか」で逡巡する。

 書籍を翻訳するほどの翻訳家であれば、原文を日本語に移し替える際には相当のクリエイティブな過程があるはずだ。


考える行為を省くと、どうなる?

 しかし、ここで一つの疑問が湧いてくる。「自分の頭で考える」ことをやめ、「パズルを解くように試行錯誤する行為」を省いてしまったら、私たちはどうなるのだろうか。

 筆者自身、この問いにまだ明確な答えを持たない。ただ、「じっくり考える力」が失われれば、私たちは即座の反応しかできない存在へと変わっていく可能性はないだろうか。

 情報を探す、答えを出す、翻訳する――かつて人間の思考を必要とした行為の多くが、今では機械によって瞬時に処理されている。何かを調べたいとき、私たちはグーグルやAIツールに尋ねる。企業のカスタマーサービスに問い合わせれば、チャットボットが対応してくれる。

 翻訳家のスペングラーさんは、AIが作業を行い、人間はそれを校正するだけの立場に追いやられることを「魂をすり減らすようなこと」だと語っている。そこには、「考える」行為における「機械が上、人間はその下」という序列への違和感、そして人間である自分の存在を否定されたような痛みがあるのだろう。


by polimediauk | 2025-10-21 17:11 | ネット業界