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小林恭子の英国メディア・ウオッチ ukmedia.exblog.jp

英国や欧州のメディア事情、政治・経済・社会の記事を書いています。新刊「なぜBBCだけが伝えられるのか」(光文社新書)、既刊「英国公文書の世界史 一次資料の宝石箱」(中公新書ラクレ)など。


by polimediauk

ベネズエラ・ショック 常に西半球の支配を視野に置いてきた米国 「ドンロー主義」の元をたどる

 新年早々、米国がベネズエラへの軍事作戦を実施し、マドゥロ大統領を拘束するという衝撃的な事態が起きた。ロイター通信によれば、この作戦の目的の一つは、中国に対し「米州から手を引け」という明確な地政学的メッセージを送ることにあったという。

 トランプ米大統領は1月3日の記者会見で、「中国とロシアが米国の勢力圏のすぐそばに入り込むことは望まない」と述べ、西半球における米国の主導権をあらためて誇示した。


西半球とは

 米国が伝統的に勢力圏とみなしてきた南北アメリカ地域を指す。地理的には地球を東西に分けた半球のうちの西側を指すが、歴史・国際政治の文脈では、北アメリカ・中米・カリブ海諸国・南アメリカの国々をまとめて指すことが多い。

 具体的には、米国のほかにカナダ、メキシコといった北アメリカ諸国から、グアテマラやパナマなどの中米諸国、キューバやジャマイカなどカリブ海の島国、そしてブラジルやアルゼンチン、チリ、ペルーなど南アメリカの国々までを含む。


アメリカと周辺地域(グーグルマップより)
アメリカと周辺地域(グーグルマップより)


ドンロー主義、モンロー主義

 同じ記者会見で、トランプ大統領は「ドンロー主義」にも言及した。自身の名前「ドナルド」と、19世紀から20世紀前半にかけて米外交が基調としたモンロー主義を組み合わせた造語だ。


「孤立主義」から「こん棒外交」へ

 モンロー主義は、ジェームズ・モンロー大統領が1823年に発表した米国の外交原則だ。独立を果たしたばかりの中南米諸国が、再びスペインなど欧州列強の支配下に置かれることを警戒し、さらに英国の通商の影響力の拡大にも目を向けながら、「欧州はもはや西半球に干渉すべきではない」という原則を打ち出した。

当初は「孤立主義」の色合いが強かったが、セオドア・ルーズベルト大統領はこれを拡大。1904年の演説で、モンロー主義の「修正版」である「ルーズベルト・コロラリー(補論)」を打ち出し、中南米の地域安定のためには軍事介入も辞さない姿勢を示した。中南米で軍事力を背景に「こん棒外交」を展開していくことになる。

 歴代大統領の解釈を経て、いつしか、モンロー主義は米国が西半球における特別な責任と権利を主張するための思想的基盤へと変貌していった。


モンロー主義の実践、ノリエガ将軍を拘束

 モンロー以来およそ200年にわたり、米国はこの原則をさまざまな形で実行してきた。

 カリブ海諸国や中米への軍事介入は常態化し、冷戦期には、共産主義の拡大を防ぐという名目のもとで、クーデター支援や政権転覆が繰り返されることになる。

 1989年のパナマ侵攻におけるノリエガ将軍の拘束も、その延長線上にあった。米国は軍事力を行使して標的となる指導者を排除し、「秩序回復」という物語とともに撤収した。そして今年、ベネズエラにおけるマドゥロ拘束もまた、この長い系譜の中に位置づけることができる。


英ポッドキャスト、「帝国の隠し方」の著者をインタビュー

 歴史をテーマに専門家に話を聞く、英国の人気ポッドキャストの一つに、ダン・スノーが主導する「ヒストリー・ヒット」がある。

 1月12日配信分で、スノーは米ノースウェスタン大学のダニエル・イマヴァール教授にインタビューした。教授はベストセラー「帝国の隠し方 大アメリカ合衆国の歴史(How to Hide an Empire: A History of the Greater United States)」(邦訳は名古屋大学出版会から)の著者だ。米国が隣国をどのように統治し、支配し、影響を及ぼしてきたのかを聞いている。

 その概要を紹介したい。 

ダン・スノーのポッドキャスト「ヒストリー・ヒット」(ウェブサイトよりキャプチャー)
ダン・スノーのポッドキャスト「ヒストリー・ヒット」(ウェブサイトよりキャプチャー)


米国の拡張主義的起源

 ダン・スノー:歴史を見ると、ほとんどすべての国は征服と拡張の過程で形づくられてきた。英国はその典型であり、フランス、スペイン、ドイツ、ロシア、中国も同様だ。米国の誕生と成長においても、やはりそれが当てはまるのではないか。

 ダニエル・イマヴァール教授:その通りだ。米国は当初、現在とは比べものにならないほど小さな国家として出発した。多くの人が頭に思い描く、あの見慣れた米国の地図上の形が最初から存在していたわけではない。一連の戦争と領土購入を通じて、ようやく現在の姿に膨らんでいったのである。
 しかもそれは、単に欧州列強という帝国主義のライバルを押しのけただけではなかった。欧州の勢力と競り合う過程で、米国は自らが主張する国境の内側に住んでいた先住民族からも土地を奪っていった。

 領土を購入した場合であっても、たとえば1803年のルイジアナ購入の後、米国はその広大な土地の多くで先住民と激しい戦いを繰り返している。平和的な拡張というより、武力を伴う植民の歴史であった。

 スノー:英国を打ち破った独立戦争に始まり、米国はナポレオンからルイジアナを買い取り、スペイン領だったフロリダに進出し、その間も先住民との戦争を続けた。そして1846年から48年、西方拡張のためにメキシコと戦って広大な領土を獲得した。まさに19世紀における、拡張する帝国の姿だ。

 イマヴァール教授:その通りだ。19世紀末までに、米国はまったく異なる国家へと変貌していた。大陸国家としての骨格が完成し、すでに世界の列強の一角に食い込む存在になっていた。


建国理念と帝国主義の矛盾

 イマヴァール教授:19世紀末になると、政治の世界では「米国は一人前であり、大国の仲間入りをすべきだ」という考え方が支配的になった。そしてそのためには、英国やフランスと同じように帝国になることが必要だと考えられた。
 しかしここには、米国特有の事情があった。米国はもともと英国の植民地として出発した国家であり、独立宣言や憲法などの建国文書には、反植民地主義的、反帝国主義的な精神が色濃く刻み込まれている。その一方で、現実には暴力的な拡張を重ねてきた。
 この矛盾があるために、19世紀を通じて米国の指導者たちは、自らの行為をどのような言葉で正当化すべきか、試行錯誤を続けることになった。


新たな土地獲得を好んだ

 イマヴァール教授:当時の米国の指導者にはある一貫した傾向があった。土地を欲しがるが、人口密度の高い土地はあまり欲しがらない。なぜならば、その土地で目指していたのは、白人入植者によって新たな社会を築くことだったからだ。
 メキシコとの戦争に勝利し、米軍がメキシコシティを占領したとき、米国にはメキシコ領の多くあるいはすべてを併合する選択肢があった。「メキシコを丸ごと取れ」と主張する声さえ存在した。

 しかし、人口の多い地域を取り込み、その住民を自国民として統合することは望まなかった。彼らが本当に求めていたのは、自国民で満たすことのできる空間、すなわち「空白の土地」と見なされた領域だった。


モンロー主義の真実

 スノー:モンロー主義について教えてほしい。最近よく話題になるが、起源は1820年代にさかのぼると聞く。

 イマヴァール教授:まず訂正する必要があると思う。

 モンロー主義は、米国史の中でも最も誤解されている概念の一つだ。名称からして誤解を招きやすい。「ドクトリン(教義・主義)」と呼ばれることで、あたかも強制力のある原則であったかのように受け取られがちだが、実際はそうではない。

 「モンロー・ドクトリン(モンロー主義)」は、1823年の年次教書、すなわちモンロー大統領による議会へのメッセージの中に含まれていた、わずか三つの段落にすぎない。そこでは、欧州列強がすでに行っている以上に、南北アメリカに干渉しないことが望ましい、という原則が表明されたにすぎない。
 執行の仕組みもなく、法律でもなく、議会で採決されたわけでもない。「そうならないことを望む」という政治的意思表示に近いものであり、欧州諸国を南北アメリカから追い出す内容でもなかった。実際、当時も欧州諸国は中南米やカリブ海に植民地を保持していた。

 さらに重要なのは、これがトランプ大統領が熱心に語るような意味合い、すなわち「米国が南北アメリカ全体に対して特別な権力を持つ」という主張を与えるものではなかったという点だ。モンロー・ドクトリンは、当初そのような意図をまったく持っていなかった。


モンロー主義、英国の「マグナ・カルタ」?

 スノー:それを聞くと、私にはモンロー主義の文書が、英国の「マグナ・カルタ」のように思える。当初は王権を制限するための限定的な条文に過ぎず、当時はそれほど重要視されず、ほとんど注目もされなかった。しかし、後の世代の人々がそれを象徴的に意味づけし、「王権も法律の下にある」という理念の根拠として解釈することで、突然大きな力を持つようになった、ということだろうか。

 イマヴァール教授:まさにそうだ。誰かがそれを「ドクトリン」と呼ぶまでには、かなりの時間がかかった。大きな転機は20世紀初頭だ。より好戦的な大統領の一人であるルーズベルト大統領が、「モンロー・ドクトリンの真の意味はこうだ」と再解釈したときである。
 ルーズベルトが主張したのは、欧州列強が南北アメリカに干渉すべきでないだけでなく、その役割を担うのは米国である、ということだった。つまり、米国には南北アメリカを欧州の干渉から「保護する」権利があり、そのためには関税行政の監督など、他国の内政に踏み込むことさえ正当化される、という論理である。これが1904年に示された、いわゆる「ルーズベルト・コロラリー(補足的な結論)」である。


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 ルーズベルト・コロラリモンロー・ドクトリンを補強する「追加ルール」のようなもの。当初のモンロー・ドクトリンは「西半球に欧州列強は干渉しないように」という宣言にすぎなかったが、ルーズベルトは「もし西半球で問題が起きたら、米国が介入して整理してもよい」という具体的な行動規範を付け加えた。20世紀初頭は、米国が現在「本土48州」と呼ばれる地域、ニューイングランドからフロリダ、さらにカリフォルニアや太平洋岸北西部まで、国土の輪郭がほぼ完成した時期でもある。

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20世紀初頭の帝国主義への転換

 イマヴァール教授:米国が、ジグソーパズルのように一つひとつの領土を組み合わせて現在の国土の形を完成させるまでには、1850年代に至るまで長い年月がかかった。さらに、獲得した土地を実際に支配下に置くにも時間が必要だった。というのも、多くの地域が先住民族の支配下にあったからだ。

 19世紀後半、米国がようやく領土の「完成」に近づいたとき、ルーズベルト大統領の周囲で新たな議論が生まれる。それは「次の段階は何か」という問いである。

 当時、フレデリック・ジャクソン・ターナーという歴史家が、1893年に有名な「フロンティア消滅論」を唱えた。彼は、アメリカが東部沿岸から西部へと国土を広げる中で、開拓者たちが切り開いていった「国土の最前線」や「開拓の境界線」、つまり「フロンティア」での拡張と先住民との対峙こそが、米国の国民性と政治を形づくってきたと論じた。そして、もはやフロンティアが存在しないことは、国家にとって大きな政治的損失になるかもしれないと警告した。
 ターナー自身は「新しい段階に入っただけかもしれない」と慎重だったが、ルーズベルトのような人物にとって、その答えは明快であった。「ならば、新しいフロンティアをつくればよい」という発想である。


1898年の米西戦争(米国・スペイン戦争)が転換点に

 イマヴァール教授:米国が国内での拡張をほぼ終えた時期に起きたのが、米西戦争だ。

 ターナーが指摘したように、かつての西部開拓と先住民との対峙は、米国の国民性や政治の形成に深く関わっていた。フロンティアが消滅し国内の拡張が限界に達した米国は、新たなフロンティアを海外に求めるようになった。

 米西戦争はその象徴的な戦争で、アメリカはフィリピン、プエルトリコ、グアムを獲得し、キューバを独立させるが強い影響下に置いた。この戦争は、ルーズベルト・コロラリーなどによる20世紀初頭の米国の海外介入政策の布石ともなり、米国が西半球・太平洋での覇権を拡大していく転換点となった。

 スノー:まさに帝国的な動きだ。英国が大英帝国としてやってきたことと非常によく似ている。そして米国人は「私たちもそのゲームに参加できる。私たちの建国文書は、拡張を禁じてはいない」と主張するわけだ。

 イマヴァール教授:当時の指導者たちはその点について、非常に明確だった。

 フィリピンを併合することを、独立宣言や憲法が制限すべきではない、という解釈が広がるのである。
 ルーズベルトのような人物は、こう言った。「共和主義の原則は重要だ。しかしそれは暗黙のうちに白人のためのものだった」。先住民族に対して米国が何をしてきたかを見れば明らかだ、という論理である。つまり、建国原則は最初から普遍的なものとして想定されていなかったのだ、と。

 米国はこのようにして、建国理念に人種的な境界線を引く方法を見出した。もともとその境界は存在していたが、それを明示的にすることで、米国は誇りをもって植民地帝国を受け入れ、英国を模倣する道を選んだのである。


「非公式な帝国」という戦略

 スノー:しかし同時に、別のタイプの米国帝国主義も存在すると聞いている

 あなたが言うように、米国は必ずしも正式な統治権を握りたいわけではない。道路や学校を建設し、費用のかかる反乱鎮圧に直面しなければならないような、厄介な地域を直接支配することには消極的である。では、西半球におけるもう一つの米国の支配の形について説明してほしい。

 イマヴァール教授:私たちは、それをしばしば「非公式な帝国(informal empire)」と呼ぶ。これは、帝国としての公式な外見を持たない支配の形である。つまり、旗竿から他国の旗を降ろして自国の旗を掲げることはしない。しかし、実効的な支配は行う。帝国の実質はすべて備えているが、形式的な併合や統治は伴わない形だ。

 この発想が広がった背景には、米国がフィリピンを併合し、民族主義運動を鎮圧するために突入した、きわめて血なまぐさい戦争がある。

 1899年から1902年にかけてのフィリピン・アメリカ戦争では、数十万人が命を落としたと推定されており、米国にとっては南北戦争に匹敵するほどの衝撃であった。この経験を経て、好戦的な政治家でさえ、より安上がりで効率的な支配の形があるのではないかと考え始めた。

 その結果として登場したのが、後に歴史家たちが「ドル外交」や「砲艦外交」と呼ぶ戦略である。これは、米国がカリブ海諸国や中米諸国に対して実効的な支配を行うが、正式な併合は避けるという方法だった。

 スノー:つまり、運河や港を建設してその国の経済の急所を押さえることで実質的に支配するが、形式上は統治しない、ということか。

 イマヴァール教授:いや、まずはっきりさせておこう。非公式な帝国であるための第一歩は、海兵隊を送り込むことだ。ドミニカ共和国の場合が典型である。

 まず海兵隊を派遣して、税関を掌握する。すると米国は、その国の外交政策、軍事、経済政策に対して決定的な影響力を持つことができる。一方で、地元の政治家には国内政治の細部を任せる。こうして米国は、正式に併合することなく、必要な部分だけを支配できる。

 要するに、欲しいところだけを取る、という戦略である。ここで言う「税関の支配」とは、貿易の支配にほかならない。ベネズエラの港に出入りするタンカーを実質的に支配下に置くことと、大きな違いはない。

 トランプ大統領の姿勢は非常にわかりやすい。彼が関心を持っているのは、ベネズエラを統治することではなく、ベネズエラの石油の生産と販売を支配することだ。それが手に入れば、あとのことは地元に任せればよい、という発想だ。

 スノー:トランプ大統領の米国は、19世紀後半から20世紀初頭の米国の姿によく似ている。一方には、フィリピンのように領土を直接支配しようとする、残忍な公式の帝国がある。そこでは反乱が起き、苛烈な対反乱作戦が展開され、費用もかさみ、道徳的にも国家を腐敗させる。そして第一次世界大戦、第二次世界大戦へと続くが、この手荒な直接支配の経験は、第一次世界大戦、第二次世界大戦を経て、多くの点で反帝国主義闘争の文化を生み出すこととなった。


第二次世界大戦後の脱植民地化

 スノー:こうした直接支配の経験は、英国やフランス、オランダで起こったことと同様に、米国における公式帝国の理念にも影響を与えたのだろうか。

 イマヴァール教授:その通りだ。第二次大戦は、米国の公式帝国を完全に終わらせたわけではない。植民地体制の多くはすぐには消えなかった。しかし、この戦争を経て、公式帝国という考え方には大きな打撃が加わったのは確かである。

 1930年には、地球上の人類のおよそ3人に1人が植民地支配下にあったが、1965年までにはおよそ50人に1人程度にまで減少した。これは歴史的な大転換であり、その背景には第二次大戦がある。

 この脱植民地化の波は米国にも及んだ。戦後間もない1946年、米国最大の海外領であったフィリピンは独立を果たした。アラスカやハワイは独立はしなかったが、1959年に州として編入された。
 現在でも米国は5つの有人海外領を持っており、最大のものはプエルトリコだ。しかし全体として見ると、米国はもはや広大な土地を獲得することで権力を拡大しようとはしていない。莫大な影響力を持ちながらも、それを表現する手段として、領土拡張を選ぶことはほとんどなくなったのである。


冷戦期の介入主義

 スノー:第二次大戦後、とりわけ中南米において、米国はどのようにして存在感を示したのだろうか。

 イマヴァール教授:想像してみてほしい。米国は一定の支配力を持ちたいと考えている。しかし同時に、植民地を引き継ぐことは避けたい。冷戦下において、それはあまりにもイメージが悪いからである。海兵隊を送り込み、旗を掲げながら「我々は自由の味方だ」と言うのは、説得力に欠ける。
 そこで採られたのが、とりわけ中米やラテンアメリカという「裏庭」における、アメとムチの政策である。

 米国に従順な国は、経済援助や軍事援助を受ける。反抗的な国は、クーデターの標的になる可能性が高い。冷戦期を通じて、米国は選挙操作や政権転覆を目的として、少なくとも64回の違法な介入を試み、そのうち25回は成功したとされる。

 スノー:ほぼ年に1回という計算だ。

 イマヴァール教授:その通りだ。しかも、これは中南米だけの話ではない。世界各地で同様のことが起きていた。その結果、多くの指導者たちは奇妙な板挟みに置かれる。
 米国に従えば、政権転覆の危険は減るが、国民の反発を招く。たとえば、自国の資源を不利な条件で米国に提供しなければならないからである。一方、米国に反抗すれば、国内では支持を得られるかもしれないが、今度は米国との対立を抱えることになる。
 こうした状況の中で、中道を保つことはきわめて難しくなり、極右や極左の権威主義的指導者が登場しやすくなる。弱小国に対して繰り返し政治的要求を突きつける米国の存在そのものが、深刻な政治的不安定を生み出してきた。


介入の動機――経済か、政治か

 スノー:米国の目的は何なのか。経済的な利益なのか。それとも政治的な目的、すなわち反共産主義の立場を維持することなのか。あるいは、ベネズエラの石油や、かつての中米における果物会社のように、米国の投資を守ることなのか。

 イマヴァール教授:そこには二つの側面がある。一つは、明らかに経済的動機である。ある国に重要な資源があり、それが国有化されそうになる、あるいはすでに国有化されたときにはこれを阻止し、あるいは覆すために介入する。1954年のグアテマラで起きたクーデターは、その代表例である。

 しかしもう一つ、米国は「システム」そのものにも関心を持っている。直接的な経済的利益がほとんど見えない場所でさえ、米国は介入する。たとえばベトナムである。米国はあれほど多くの命を失ったが、ベトナムから得られる資源は何だったのか。
 ここで重要なのは、米国が見ているのは単なる資源ではなく、自国の「信頼性」であるという点である。必要とあらば、何度でも踏みとどまり、最後までやり抜く国家であることを示したいのである。それは、将来ほかの国で介入しなくても済むようにするための、ある種の見せしめでもある。「あれほど大量のナパーム弾が使われた。自分の国にそれが起きるのは御免だ」と他国に思わせることが、米国の権力を間接的に守る手段となる。


グアテマラのケーススタディ

グアテマラ(外務省サイトより、キャプチャー)
グアテマラ(外務省サイトより、キャプチャー)

 

 スノー:1950年代のグアテマラは、非常に示唆に富む事例である。強力な米国企業、ユナイテッド・フルーツ社(現在のチキータ・ブランズの前身)が存在し、民主的に選出された大統領が、その独占的支配を脅かした。すると米国は、今日で言うところのプーチン政権型の偽情報のキャンペーン、すなわち心理戦を展開する。私たちはそれを現代的な手法だと考えがちだが、実際にはすでに1950年代に実行されていた。

 イマヴァール教授:その通りだ。1950年代のグアテマラで起きたのは、クーデター未遂である。しかし重要なのは、クーデターをどのように成功させるかという点である。
 理想的なのは、権力を持つ人々の臨界点に達し、「これは避けられない」「ならば正しい側に立った方がいい」と考えさせることである。すべてのクーデターは、結局のところ、「人々は今、この政権が倒れると感じているのか、まだ持ちこたえると感じているのか」という心理戦である。

 米国がグアテマラで行ったのは、軍事介入の気配を誇示し、パニックと不可避性の感覚を作り出して政府を不安定化させることであった。すると当局者たちは、「政権は崩壊しつつある。ならば新しい側につこう」と判断する。
 その一環として用いられたのが、国外に設置された高出力のラジオ局「ラジオ・スワン」である。クーデターの最中、この局は偽情報を流し続けた。存在しない部隊への暗号メッセージ――「魚は今夜上がる」「ペドロは家にいる」――は意味のない言葉であるが、あたかも侵攻部隊への命令のように聞こえる。こうした演出が、混乱と恐怖を増幅させ、関係者に辞任か寝返りを迫る心理的圧力となったのである。

 スノー:最近のベネズエラの状況とも重なる。トランプ氏は予測不可能な人物だが、少なくとも一つ、多くの人が一致している点がある。それは、彼が地上軍を投入したくないということである。だからこそ彼は、ベネズエラ沖に高速水陸両用部隊を集結させた。しかしそれは、あなたが説明したように、不安定化の戦術、すなわち意思決定者をパニックに陥れるための手段のように見える。
 実際に兵士を上陸させ、甚大な犠牲と国際的反発を招くことを本気で望んでいるわけではないのだろう。

 イマヴァール教授:戦争とは本来、そのようなものである。別の米国大統領の言葉を借りれば、敵を「衝撃と畏怖」で圧倒し、戦わずして屈服させたいのである。最後の一人まで戦う状況は、誰にとっても消耗が激しい。
 ホワイトハウスは、とりわけ過去10年ほど、空爆によって政治問題を解決できるのではないかという幻想に取りつかれてきた。米軍の表現を借りれば、標的を完全に命中させるほどの精度で攻撃し、外科手術のように短時間で目的を達して去る――しかし、それは幻想であった。
 ジョージ・W・ブッシュ政権も、アフガニスタンとイラクで同じ幻想を抱いたが、現実は血なまぐさく、長期化し、費用のかかる占領となった。


かいらい政権の不安定性

 スノー:グアテマラの話を締めくくろう。親米政権を樹立することには成功した。ユナイテッド・フルーツ社の利益も守られた。しかし、その新政権は、自らの成立過程の代償を払わされることになったのではないか。つまり、国民は彼を「米国に国を売り渡した人物」と見なしたのではないか。

 イマヴァール教授:まさにその通りだ。新たに権力を握ったのは、米軍によって訓練を受けていたアルマス大佐であった。当時の副大統領リチャード・ニクソンによれば、彼は「何をしてほしいか言ってくれ。そうすればやる」と語ったという。米国の視点からすれば、これほど都合のよい人物はいない。完全に従順なかいらい政権の誕生である。

 しかし問題は、そうした人物が統治に向いていないという点である。権力を維持する能力がなく、長期的な安定をもたらすことができない。
 実際、グアテマラのクーデター後の歴史は、安定と繁栄の物語ではない。抑圧、暴力、反乱の連鎖であり、1960年代から1996年まで続いた内戦は、その悲劇性を象徴している。

 この傾向は、グアテマラに限った話ではない。政治学者リンジー・オルークの研究によれば、米国が政権転覆を試みた国々は、その後、米国と対立する可能性が高まり、さらなるクーデターや民間人虐殺に巻き込まれる確率も高くなるという。
 そこには常に、米国を喜ばせるか、自国民を喜ばせるかという、避けがたいジレンマが存在する。米国との関係において安定した均衡を見いだすことは、きわめて困難だ。

 さらに言えば、現在のベネズエラ情勢も同じ構図をはらんでいる。仮にマドゥロ政権の後継としてロドリゲス副大統領が実権を握るとすれば、彼女はきわめて危うい立場に置かれるだろう。
 対外的には米国に「私は協力的だ」と示さなければならない。しかし国内では、「これは重大な暴挙である」と強硬姿勢を示さなければならない。この二重の要求を、いつまで両立できるかは不透明である。


パナマ運河の事例

パナマ運河(グーグルマップより)
パナマ運河(グーグルマップより)

パナマ共和国(外務省サイトより、キャプチャー)
パナマ共和国(外務省サイトより、キャプチャー)

 スノー:パナマについても触れておくべきだろう。パナマ運河は、トランプ氏が第二期の初期に繰り返し言及したテーマである。米国はこの巨大なインフラ事業に資金を投じ、1904年から14年にかけて運河を建設した。
 では、これは併合だったのか、それとも認可に基づくものだったのか。運河建設期における、パナマ政府との関係はどのようなものだったのだろうか。

 イマヴァール教授:まず地理的な点を確認しよう。パナマ運河地帯とは、パナマを横断する帯状の地域にすぎない。そこを外国勢力が支配するということは、事実上、パナマを分断することを意味する。
 米国は1903年、パナマのコロンビアからの独立を支援し、その見返りとして運河地帯の支配権を獲得した。形式上は併合ではなかったが、極めて強力な租借契約のもとで運営され、実態としては併合に近かった。米国は、運河地帯を国勢調査の対象に含めるほどであり、ほとんど米国の一部のように扱われていた。

 スノー:公式帝国と非公式な帝国の境界が曖昧な例だ。では、その支配はどのように終わったのか。

 イマヴァール教授:米国は、支配権は持つが主権は持たない場所を世界中に数多く抱えている。パナマ運河地帯は、その中でも主権に最も近い場所の一つであった。グアンタナモ湾や多くの米軍基地と同じである。
 1999年、運河はついにパナマに返還された。それにもかかわらず、トランプ氏が「運河を取り戻す」と語るのは象徴的である。彼はグリーンランドの併合を求め、カナダを州にすることを口にし、さらにはガザを「開発」する構想まで語った。
 これらはすべて、19世紀から20世紀初頭の政治様式への、驚くべき回帰である。

 なぜそれが驚くべきかと言えば、米国は長年にわたり、影響力の行使には積極的であったが、領土を征服し、購入し、あるいは併合するという発想は、何十年もの間、大統領にとって事実上の選択肢ではなかったからだ。語られてこなかっただけでなく、求められてもこなかった。トランプ氏の言動は、その長い前提を根底から揺さぶるものだ。


ノリエガ作戦の教訓

 スノー:パナマは、ここでも興味深い例である。多くの人は、事実上の独裁者として君臨したノリエガの存在を覚えているだろう。ベネズエラの事例と完全に同一ではないにせよ、構図は似ている。彼は排除され、米国で裁判にかけるために連行された。1989年の米軍によるパナマ侵攻――作戦名「ジャスト・コーズ」――は、厳密には暗殺作戦ではないが、それにかなり近い性格を持っていた。


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パナマ侵攻(1989年12月)とは

 米国がパナマに対して行った軍事作戦。ノリエガ将軍が1983年からパナマの実権を掌握していたが、不正行為(キューバ人等への査証・旅券の不正売買、麻薬組織との関係)が露見し、米国は反ノリエガ派のギジェルモ・エンダラを1989年の大統領選挙で支援。1989年の選挙でエンダラが勝利したにもかかわらず、ノリエガが選挙結果を無効と宣言。その後のアメリカ人への暴力事件などを受けて、米国が軍事介入を決断した。1989年12月20日、米軍約27000人がパナマに侵攻し、数日でノリエガ政権を打倒。ノリエガは後に逮捕され、米国で麻薬密売などの罪で服役した。この侵攻は国際法上の正当性について議論を呼んだ。

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 イマヴァール教授:あれは、より血なまぐさい作戦であり、都市部での激しい市街戦を伴った。犠牲者の数については諸説あるが、数百人から数千人に及ぶと考えられている。その意味で、きわめて混乱した軍事行動であった。
 しかし同時に、それはトランプ氏が望んでいると思われる一つの「成功モデル」を備えていた。すなわち、米国が介入し、標的を拘束し、その人物を自国に連行して裁判にかけ、そして撤退する。それだけである。

 実際、侵攻直後に大統領に就任したエンダラは、皮肉にもパナマ運河地帯にあった米軍基地で就任宣誓を行った。主権国家の指導者が、外国軍の管理下で誕生するという象徴的な場面だった。

 私は、トランプ氏がベネズエラに望んでいる展開も、2003年の米国によるイラク侵攻のような大規模占領ではなく、むしろ1989年のパナマ侵攻の再現なのだと思う。すなわち、短期決戦で指導者を排除し、政治的成果を誇示して引き揚げるというモデルである。


トランプと歴史的連続性

 スノー:こうして見てくると、一部の人々は「これは前例のない行動で、米国はこれまで守ってきた国際規則を無視している」と嘆く。一方で、トランプ氏の行動は、自国の「裏庭」における米国の従来の戦略の延長線上にあるようにも思える。

 イマヴァール教授:その通りだ。ただし、重要な違いが二つある。
 第一に、トランプ氏は、それをどのような言葉で正当化するかという点で、従来の大統領たちと決定的に異なる。規則に基づく国際秩序とは、少なくとも形式上は「規則に従っている」という物語を語り続けることを意味していた。
 たとえ実際には強引な介入であっても、「これは例外ではなく、ルールに基づく行動である」と説明することで、システム全体への挑戦ではないという体裁を保ってきたのである。

 ところがトランプ氏は、その種の言説にほとんど関心を示さない。ある記者会見で彼は当初、「マドゥロが法を破ったから、我々は法を執行するのだ」と語り始めたが、ほどなくして自発的に石油の話に移った。
 「我々は彼らの石油が欲しい。いや、正確に言えば『我々の石油』だ」と。この瞬間、規則に基づく秩序という建前は、完全に放棄されたかのように見えた。

 第二の違いは、トランプ氏が領土そのものの獲得を公然と語り始めた点である。彼はベネズエラについて、石油産業を立て直すために「占領する」可能性にまで言及しただけでなく、グリーンランドの併合を要求し、カナダを州にすることを口にし、さらにはガザを「開発」する構想まで語った。
 過去数十年の米国の大統領は、影響力の行使には積極的であっても、他国の領土を植民地化し、あるいは併合するという発想を公然と掲げることはなかった。

 その意味で、トランプ氏の言動は、単なる強硬姿勢ではなく、リベラルな国際秩序の枠組みそのものからの真の逸脱として映る。
 
それは同時に、19世紀から20世紀初頭に見られた帝国主義的政治文化への予想外の回帰でもある。(ポッドキャスト、終了。)

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振り返り モンロー主義の変容とトランプ大統領

 米国の西半球への介入の歴史は、モンロー・ドクトリンという曖昧な原則から始まり、ルーズベルト・コロラリーによる積極的介入主義へと発展し、冷戦期には「非公式な帝国」という形で継続してきた。

 トランプ大統領の「ドンロー主義」は、この長い歴史の延長線上にありながら、同時に重要な転換点でもある。彼は、従来の大統領たちが慎重に隠してきた帝国主義的な意図を、公然と語ることを恐れない。

 これが米国外交の新たな時代の幕開けなのか、それとも一時的な逸脱に終わるのか。歴史が示すのは、西半球における米国の影響力行使が常に被介入国の長期的な不安定化をもたらしてきたという事実である。

 トランプ政権下での米国の行動は、この歴史的パターンを繰り返すのか、それとも新たな道を切り開くのか。世界は注視している。



by polimediauk | 2026-01-18 14:53 | 政治とメディア