このブログを始めた理由 その2
「情報の死蔵」
ブログを始めたのには、もう1つ違う面からの理由があった。それは、一種の「水子」を世に出したい、という思いである。
2000年、私がまだ会社員であった頃、ブログではないが自分のサイトを立ち上げたコピーライターの糸井重里氏が、私に「水子、たまっていませんか?」と、取材の後に聞いたことがあった。書きたいけれど書いていない原稿、企画、自分で没にしたあるい没になった原稿を、氏は「水子」と呼んだのだった。
糸井氏が「ほぼ日刊イトイ新聞」http://www.1101.com/index0.htmlというサイトを1998年に始めたのは、彼自身が「自分が本当に書きたいものが書けない」と感じていたからだったという。コピーライターは商品を売るためにコピーを書く仕事だが、商品を販売する会社=クライアントが気に入ったものでないと、当然だが、コピーを使ってもらえない。「自分としてはこっちのコピーの方がいい、と思っても、それが使われるとは限らない」。
こうした状況がこれからも続くようであれば、良いコピーを書けなくなるのでないか、と怖くなったという。そこで、自分がおもしろいものを思うように書ける自分のメディアをネットで持つことにした、ということだった。
私自身は、「本当に書きたいものが書けなかった」というわけではなく(年の功で、どちらかというと書きたいものを書かせてもらっていたが)、「水子」と言われて、はっとした思いがあった。「書ききれなかったもの」は、書き手の側に書く機会が数多くあるかどうかに関係なく、必ず存在するからだ。
自分自身もフリーランスのジャーナリストである中岡望氏は、フリーランサーの場合は特にこうしたケースが多いのではないか、と見ている。
いくつもの月刊誌に米国を中心とした国際政治の原稿を書いている中岡氏は、昨年10月、ブログ「目からウロコのアメリカ」http://www.redcruise.com/nakaoka/で、「フリーのジャーナリストがメディアで書き続けるのは大変なこと」で、それは「問題意識を持っても、それを発表する場がないことが多いため」だ、としている。
彼自身は、「幸いにも書くチャンスに恵まれてきた」が、「それでも、書ききれない情報や問題意識があります。従来ですと、そうした情報は死蔵され、いつか机の片隅で忘れられるのですが、ブログという発表手段を得たことで、常に自分の問題意識を新鮮な形で」持ち続けることができた、と書いている。
「情報の死蔵」という箇所を読んで、うなづく部分があった。
私がブログを作りたいと思ったのは、直接的には、原稿を書く過程で取材した英メディア界のキーパソンのインタビューやそのほか取材や調査で知りえた情報を、なるべく生に近い形で、読者の元に届けたい、という強い思いがあったからだ。
「ジャーナリスト」ということで、様々な人に取材をするものの、原稿で使うのは取材中に知りえたことのほんの一部だ。一部だけ外に出して、他の大部分は自分のところに「死蔵」されたままで、果たしていいのだろうか?
取材で私に付き合ってくれた人は、私個人に会うために時間を割いてくれたのではなく、情報が広く社会に広まることで、何かがよりよくなることを願って、会ってくれたはずである。もしそうであれば、何らかの形で私の取材結果を還元するべきではないのだろうか?私物化するものではないのではないか?そんな思いが日々強くなっていた。
―ブログを始めて
2004年の12月20日から、いよいよブログを開始した。
読者層はコメントを残してくれた人から判断するしかないのだが、高校生、大学生、大学関係者、20代―30代で海外情報に興味を持っている人、かつてあるいは現在メディア界で働いている人々など。特に後者が多いようだ。この内訳は私のブログの読者層だけでなく、おそらくブログの読者の大半がこうした人々である可能性が高いように思う。
読者の方が、私より熱心にニュースを追っていたり、ある事柄に関して詳細な知識を持っている場合は、非常に多い。圧倒的といってもいいくらいだ。私のほうが情報が早い・・というケースはむしろ、少ないぐらいかもしれない。事実が間違っている場合、そっと匿名で間違いを指摘してくださる方もいる。(なんという、心遣いだろうか!!本当に足を向けて寝られないぐらいである。)
また、中には、関連ニュースを探し出してくれたり、私の書いた内容よりも一歩突っ込んだ分析を書いて「見に来てください」という方、「こういう点はどうなっているのか?書いてください」、とリクエストされることもある。一例が、9月中旬、私が日本に一時帰国中でタイムズの小泉首相のインタビューを読んでいなかったことがあった。早速これを指摘され、靖国神社参拝に関する項目が含まれたものだったので、一問一答の全文を急いで訳して出したこともあった。
自分のブログに来る読者にはメディア関係者が多いが、それ以外の分野で働いている人、あるいは大学生、大学院生もいる。また海外で活躍するフリーランスのジャーナリストたち。読み手として訪れた人たちのブログを私自身が読みに行くと、様々な表現、様々な分析、知識、情報が披露されている。書き手・読み手は、ブログ・ユーザーとして、同じ立場にいるのを感じる。(続く)