人気ブログランキング | 話題のタグを見る

小林恭子の英国メディア・ウオッチ ukmedia.exblog.jp

英国や欧州のメディア事情、政治・経済・社会の記事を書いています。新刊「なぜBBCだけが伝えられるのか」(光文社新書)、既刊「英国公文書の世界史 一次資料の宝石箱」(中公新書ラクレ)など。


by polimediauk

3月1日はビキニ・デー 「死の灰」を浴びた第五福竜丸 その核実験の日から71年

 3月1日の「ビキニ・デー」をご存じだろうか。

 71年前に太平洋のビキニ環礁で行われたアメリカの核実験を契機に始まった、反核運動の記念日である。

 この時の核実験は日本のマグロ漁船「第五福竜丸」に乗った漁船員を被曝させ、日本社会に深い衝撃を与えた。これが世界初の大規模な反核署名運動へと発展し、核兵器廃絶を訴える市民運動の象徴として、毎年全国各地で集会や追悼行事が行われてきた。

 ロシアのウクライナ侵攻を背景に核兵器使用の威嚇が現実味を帯びるいま、ビキニ環礁で起きた出来事を振り返ってみたい。


何が起きたのか

 1954年3月1日午前6時45分。太平洋中西部マーシャル諸島の一部をなすビキニ環礁でアメリカが行った水爆実験「キャッスル・ブラボー」は、広島型原爆の約1000倍という強大な威力で炸裂した。爆発規模は予想の2.5倍に達し、周辺海域に甚大な放射性降下物をもたらした。

 実験場から約160キロ離れた海域で操業していた第五福竜丸の23人の乗組員は、突如として西の空が真っ赤に染まり、巨大な火球が立ち上るのを目撃した。乗組員たちはこれを「西から昇る太陽」と表現した。

 当時、第五福竜丸はミッドウェー環礁へ向かう途中で漁網を失い、やむなくマーシャル諸島近海で操業を続けていた。食料も乏しく、この日が最後の漁になる予定だったという。

 午前10時ごろ、船上に雪のような白い粉が降り注いだ。粉砕されたサンゴのように見えたその正体は、放射性物質を含む「死の灰」だった。乗組員たちは白い粉を素手で払い、袋に集めて処理した。しかしその後、吐き気や歯茎からの出血などの症状が現れ、体調が急速に悪化していく。

 第五福竜丸が焼津港に帰港したのは3月14日である。広島・長崎の被爆者を治療した経験を持つ医師らは、乗組員が急性放射線症候群に罹患していると診断した。

 無線長の久保山愛吉さん(当時40歳)は同年9月23日、治療の合併症のため亡くなった。「原水爆の被害者は私を最後にしてほしい」。それが最後の言葉と伝えられている。


隠蔽と拡大する被害

 第五福竜丸の被曝が明らかになると、アメリカはどう対応したのか。

 米原子力委員会(AEC、1946年~1974年)の委員長ルイス・ストローズは「死の灰は核爆発とは無関係だ」と主張した。漁師たちを「ソ連のスパイだった」「危険区域内にいた」などと中傷し、放射性降下物の化学的組成データの提供を拒否した。いずれも事実ではなかった。

 被害者は第五福竜丸の23人だけではなかった。100隻以上の日本漁船が放射性降下物を浴び、ビキニ環礁から約240キロ離れたロンゲラップ環礁の住民64人が被曝して避難を余儀なくされた。周辺海域にいたアメリカ軍艦船の乗組員も高レベルの放射線に被曝した 

 さらに放射性降下物は地球規模で拡散し、日本国内でも1954年春、放射性物質を含む降雨が各地で観測された。当時のガイガーカウンター測定で高い数値が記録され、食品汚染への不安が広がった。オーストラリア、インド、欧州の一部にも降下物の痕跡が検出された。


ゴジラが象徴した恐怖

 1945年8月の広島・長崎への原爆投下からわずか9年、再び日本人が核兵器の犠牲となった衝撃は、日本社会を大きく揺るがした。同年11月に映画「ゴジラ」が誕生したのも、この恐怖と無縁ではない。放射線によって海底から引き上げられ、行く手のすべてを踏み潰す怪獣——ゴジラは水素爆弾が生み出した恐怖の驚くべき体現となった。


戦後初の核実験 すべてはクロスロード作戦から

 しかし、ビキニ環礁の悲劇は1954年に突然始まったわけではない。すべては8年前、1946年7月から8月の「クロスロード作戦」に遡る。

 第二次世界大戦が終結してからわずか10カ月後、アメリカは核兵器が軍艦に与える影響を調査するため、ビキニ環礁で戦後初の核実験を計画した。参加した米軍人員は4万2000人、標的として集められた艦船は242隻で、日本やドイツから接収した軍艦も含まれていた。

 長崎への原爆投下以来初めての核爆発であったが、1945年7月のトリニティ実験や同年8月の広島・長崎とは異なり、クロスロード作戦は事前に公表され、世界中の報道陣を招いた公開実験だった。100人以上の米国および外国の記者が取材に訪れ、国連原子力委員会のオブザーバーとソ連代表2名も「安全な距離」から視察した。

 7月1日の「エイブル」実験では、B-29から投下された23キロトンの核爆弾が標的艦隊の約160メートル上空で爆発し、5隻が沈没した。


「世界初の核災害」

 しかし、本当の惨事は7月25日の「ベーカー」実験だった。

 水深約27メートルの水中で爆発した23キロトンの爆弾は、高さ約160メートル、幅約16キロメートルの巨大な水柱を形成し、放射性の海水飛沫が標的艦すべてを汚染した。AECの最長在任委員長グレン・T・シーボーグはこのベーカー実験を「世界初の核災害」と呼んだと言われている。

 統合参謀本部評価委員会の報告は衝撃的だった。「礁湖から噴出した放射能汚染水のため、汚染された艦船は放射性のストーブと化し、目に見えず痛みもないが致死的な放射線で船上のすべての生物を焼き殺したであろう」。

 誰も放射能汚染された艦船の除染方法を知らなかった。一部の艦船は最初の1週間はまったく乗船できず、その後も数分間しか乗船できなかった。

 8月10日、艦船をクワジェリン環礁に曳航して除染するか沈めることが決定され、最終的にわずか9隻のみがスクラップにされ、残りはビキニ環礁、クワジェリン環礁、ハワイ諸島、カリフォルニア沖に沈められた。当初計画されていた第3の深海実験「チャーリー」は、この除染の失敗を主な理由として中止された。


167人の島民 「一時的」と言われた追放

 核実験のため最初に犠牲になったのは、ビキニの住民だった。

 1946年2月、米海軍はビキニ環礁を実験場として選定した。環礁には数千年前から暮らしてきたコミュニティの子孫、167人が住んでおり、ココナッツと海産物で自給自足の生活を送っていた。

 1946年3月7日、日曜日の礼拝後、当時マーシャル諸島の軍政長官だったワイアット准将が島民を集めた。「あなたたちの島が必要だ。アメリカが爆弾を実験できるように、島を離れてほしい」。ビキニの王ジューダは困惑したが、島民と協議した結果、移住を受け入れた。「すべては神の手の中にあると信じて、我々は去る」。

 島民たちはロンゲリック環礁に移された。「一時的な移住」と告げられたが、故郷に戻ることは二度となかった。ロンゲリック環礁では十分な食料や魚を採ることができず、1954年のキャッスル・ブラボー実験の放射性降下物が帰島の望みを完全に絶った。

 1972年から1978年まで再定住の試みが行われたが、食料供給の放射能による健康問題が発生し、再び避難を余儀なくされた。


「国連信託統治領」とは

 なぜアメリカは自国ではなく、太平洋の小さな島で核実験を行ったのか。そこには「国連信託統治領」という国際的な正当性があった。

 国連信託統治制度とは、第二次世界大戦後に国連が設けた制度で、独立の準備が整っていない地域を特定の国家が国連の監督のもとで統治するものである。統治を委ねられた国家は「施政国」と呼ばれ、住民の福祉向上と将来的な独立または自治に向けた準備を行う義務を負った。

 マーシャル諸島を含む旧日本領の太平洋諸島は、1947年に「太平洋諸島信託統治領」として米国を施政国とする国連信託統治領に指定された。しかしこの地域は「戦略信託統治領」という特別な位置づけとされ、通常の信託統治領よりも米国の裁量が大幅に認められた。

 これによりアメリカはビキニ環礁やエニウェトク環礁などで1946年から1958年までに計67回の核実験を実施することが可能となり、その爆発力の総量は広島原爆の約7000発相当に達した。

 信託統治制度は本来、住民の利益を守るための制度であったが、実態としては第二次大戦の戦勝国が旧植民地や旧敵国領土を自国の影響下に置くための国際的な正当化装置という側面が強かった。

 国連そのものが米国・英国・フランス・ソ連・中国という五大戦勝国を安全保障理事会の常任理事国として特権的地位に置く構造を持っており、信託統治制度もその延長線上にあった。

 これは核実験場の多くが本国の人口密集地ではなく、旧ソ連カザフスタン、中国西部の新疆(しんきょう)ウイグル自治区、フランス旧植民地アルジェリア、仏領ポリネシアといった地域に設けられたことと同様であり、「核植民地主義」の典型例として批判する人もいる。


キャッスル・ブラボーという名前の由来は?

 第福竜丸の乗組員が被爆した核実験「キャッスル・ブラボー」は、1954年に実施された一連の水爆実験「キャッスル作戦」の一つである。

 米国の核実験は当時、作戦ごとにCrossroads(クロスロード)、Ivy(アイビー)、Castle(キャッスル)など基本的に無作為に選ばれた英単語を割り当てており、「キャッスル(城)」という意味そのものに深い象徴性があったわけではない。

 「ブラボー」は北大西洋条約機構(NATO)の音声符号でBを表す言葉で、キャッスル作戦における2番目の核実験であることを示している。アルファ(A=1番目)、ブラボー(B=2番目)という順序で実験に名称が付けられた。

 なお「Bravo」は英語で「よくやった!」「喝采!」という意味も持つ。予想の2.5倍の爆発規模で広範囲の被曝をもたらしたこの実験に、歓声はなかった。この無機質な命名は、核実験がいかに軍事管理の枠内で淡々と進められていたかを物語っている。


水着「ビキニ」の由来

 女性が着る上下に分かれた水着は「ビキニ」と呼ばれている。これはフランス人デザイナー、レイ・レアールの命名によるものだ。

 1946年7月、新型水着を発表する数日前、21キロトン級の核爆弾「エイブル」がビキニ環礁で炸裂した。レアールはこの爆発力になぞらえ、「爆弾のように、ビキニは小さくて破壊的である」と説明してこの名を採用した。私たちは何の気なしにツーピースの水着をビキニと今呼んでいるが、このような複雑な歴史があった。


終わらない被害

 1954年3月1日のキャッスル・ブラボーはビキニ環礁で行われた23回の核実験の中で最大のものだったが、それは終わりではなかった。1956年、1958年にもさらなる核実験が行われた。

 ビキニ環礁は今も立入禁止であり、国際原子力機関(IAEA)は1998年に「現在の放射線状況下では永久に再定住すべきではない」と結論づけた。2016年の調査でも放射線レベルは居住安全基準を大きく上回っており、一部の科学者は2052年以降なら居住可能になるかもしれないと述べているが、確証はない。

 アメリカは補償として1億5000万ドル(現在の為替レートで約225億円)以上を信託基金に拠出したが、被害を認めたのは実験場を含む4環礁のみであり、マーシャル諸島政府が設けた基金は枯渇し、補償は行き渡っていない。

 不十分な補償に対し、マーシャル諸島は2014年、アメリカを含む核保有国を相手取り、核軍縮交渉の義務を怠ったとして国際司法裁判所に提訴した。最終的には管轄権の問題で却下されたが、核兵器の被害者が国際社会で声を上げた画期的な出来事だった。

 2024年9月、マーシャル諸島のヒルダ・ハイネ大統領は国連総会でこう訴えた。「この時期は国連が核実験を明示的に承認した唯一の時期だった。国連として、マーシャル諸島国民の嘆願に耳を傾けなかったことに対し、正式に謝罪する決議案の採択を通じて償う責任がある」。


止まらない核実験

 「原水爆の被害者は私を最後にしてほしい」という久保山さんの願いは叶わなかった。

 その後も核実験は続き、チェルノブイリ、福島と核の惨事が繰り返された。

 そして今、ロシアのウクライナ侵攻で核使用の脅威が再び現実味を帯びている。

 プーチン大統領は戦術核兵器の使用を示唆し、北朝鮮は核開発を加速させている。

 アメリカとロシアは合わせて約1万2000発の核弾頭を保有し、その多くは広島型原爆の数百倍の威力を持つ水素爆弾だ。

 ビキニ環礁は2010年、「核時代の幕開けの象徴」としてユネスコ世界遺産に登録された。それは人類が決して忘れてはならない「負の遺産」と言えるだろう。


by polimediauk | 2026-03-09 03:11 | 日本関連