チェルノブイリ原発事故から40年 第1部 破局はなぜ起きたのか
チェルノブイリ。
2011年3月、福島第一原発事故が起きたとき、世界中でこの名前が繰り返し口にされた。それは、ある事故を語るときに、必ずもう一つの事故が呼び起こされるということでもあった。
チェルノブイリ(ウクライナ語ではチョルノービリ)といえば、1986年4月26日、当時のソ連邦ウクライナ共和国で発生した原発事故の現場である。現在はウクライナ領に位置する。有毒な放射性物質を含んだ雲は欧州全土へと広がり、ソビエト当局は数週間にわたり、炉心溶融と大規模爆発の危機への対応に追われた。
この4月で、事故発生から40年となる。英国の人気ポッドキャスト「Journey Through Time(時代を巡る旅)」(今年1月・2月配信分)を手がかりに、その経緯を改めてたどってみたい。ナレーターはロンドン大学の米文学教授サラ・チャーチウェル氏と、マンチェスター大学の歴史家デービッド・オルソガ氏である。
チェルノブイリと福島はともに原子力事故の最高レベル「レベル7」に分類されるが、放射性物質の放出量、死者数、避難規模のいずれもチェルノブイリが大きく上回る。その違いはなぜ生まれたのか。
最初に、いくつかの「そもそも」から整理してみよう。
原子力発電の仕組み
原子力発電の仕組みは、本質的には蒸気タービン発電である。石炭や石油の代わりに、ウランの核分裂で生じる熱を利用して水を沸騰させ、その蒸気でタービンを回して電気を生み出す。世界で初めて商用的に送電網へ電力を供給した原子力発電所はソビエト連邦のもので、1954年のことである。
以来、原子力発電は冷戦下の米ソ競争の象徴の一つとなった。1986年当時、世界全体で400基以上の原子炉が稼働しており、原子力は未来のエネルギーとして期待される一方で、安全性への懸念も存在していた。
ソ連にとって原子力発電は、国家の威信や技術力の象徴として重要視されていた。独自に開発した RBMK型原子炉 を各地に建設し、原発は計画経済を支える基幹インフラの一つでもあった。
チェルノブイリ原発とプリピャチ
チェルノブイリ原子力発電所は、ウクライナ北部、ベラルーシとの国境に近い場所に建設された。1978年に1号炉が稼働を開始し、最終的に4基のRBMK-1000型原子炉が稼働する大規模発電所となった。
発電所の建設と同時に、労働者とその家族が暮らすための新都市プリピャチも建設された。原発から約3キロの距離に位置するこの町は「アトムグラード(原子の都市)」と呼ばれ、最盛期には約5万人が暮らしていた。
1986年の事故当時、住民の平均年齢はわずか26歳。常に赤ちゃんが生まれ、メーデーの準備で賑わうこの若い町が、まもなく永遠に立入禁止区域となることを、誰も予想していなかっただろう。
しかし発電所からわずか3キロという距離は、後に判明するように、電離放射線の漏洩に対する安全距離としては明らかに不十分なものだった。
秘密主義と否認の文化
ポッドキャストのナレーター、チャーチウェル氏とオルソガ氏が最初に強調したのは、チェルノブイリ事故の背景にあった「否認」の構造だ。
オルソガ氏によれば、否認には二種類あった。衝撃のあまり否認状態に陥った個人と、国家の反射的行動として否認を実行したソ連という組織である。
チャーチウェル氏はアメリカでの受け止め方を振り返る。「この事故は長い間、ソ連がどのように失敗したかという物語として捉えられていた。しかし本来これは、工業化以降の社会が世界規模で下してきた選択の問題でもあった」。
冷戦と巨大主義、そして格納建屋の省略
原発事故の物語の起点は1950年代に遡る。
ソビエト経済には「巨大プロジェクトへの強い執着」があったとオルソガ氏は言う。この競争圧力の中で生まれた致命的な判断が、格納建屋の省略だった。
西側の原子炉設計者は、大型原子炉を必ず鋼鉄とコンクリート製の格納建屋で包み込んだ。これは、万が一の放射性物質漏洩を封じ込めるための最後の防衛線だ。
しかしチェルノブイリ級の巨大原子炉にこれを設置すると、建設費はほぼ倍増するという試算が出た。ソビエト側はチェルノブイリをはじめ、国内に建設したRBMK型原子炉すべてに格納建屋を設置しなかった。
「単に費用を節約しただけでなく、ソビエトの原子炉は決して故障しないと本当に信じていたため、そもそも必要ないと考えていた」(チャーチウェル氏)。
ノルマ至上主義と嘘の文化
こうした楽観主義の背景には、ソビエト社会全体に蔓延した「ノルマ至上主義」がある。
ノルマや締め切りでのみ評価される官僚制の下、多くの製品が低品質となり、腐敗が日常的だった。核産業でも「嘘は個人的な出世、さらには生存にさえ不可欠だった」とオルソガ氏は言う。
「発言した途端に、あなた自身が問題となり、標的にされる。だから最も不条理な命令でさえ疑問を呈することができない状態にあった」(チャーチウェル氏)。
RBMK型原子炉の致命的欠陥
チェルノブイリの4基の原子炉はいずれもソビエトが独自開発したRBMK-1000型——「高出力チャンネル型原子炉」——だった。炉心の直径は約12メートル、高さは約7メートルという巨大なもので、1000メガワットの電力を生み出すために3000メガワット以上の熱を発生させた。
このRBMK型原子炉には、二つの致命的な欠陥があった。
一つ目は、黒鉛を使った減速材だ。減速材とは、核分裂で生じた高速の中性子のスピードを落とし、次の核分裂を起こしやすくする素材のことで、原子炉の心臓部を制御する役割を担う。
西側の原子炉が水(軽水=普通の水)で中性子を調整するのに対し、RBMKは黒鉛を採用した。経済的な理由からだが、黒鉛には致命的な欠点がある。燃えるのだ。
1957年、英国ウィンズケール(現セラフィールド)の黒鉛炉が火災を起こし、放射性物質が欧州大陸にまで拡散した。
ソビエトはこの危険性を知りながら、コスト削減を優先したと両氏は指摘する。
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ウィンズケール火災事故
1957年10月10日、英国カンブリア州ウィンズケールの原子炉(黒鉛減速炉)が火災を起こし、放射性物質が英国全土および欧州大陸にまで拡散した。もともと核兵器用プルトニウムを生産するための炉だった。過熱した黒鉛が出火し、4日間にわたって燃え続けた。英国政府は当初、事故の深刻さを公表せず、報告書の一部を機密扱いにした。事故調査報告書が公開されたのは1988年、事故から31年後のことだった。
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二つ目は制御棒の設計だ。制御棒は核反応を調整する装置で、車で言えばブレーキにあたる。しかしソビエトの設計者は発電量の損失を嫌い、制御棒の先端部分を黒鉛で作った。黒鉛は核反応を加速させる。つまり制御棒を挿入した瞬間、本体のホウ素が反応を止める前に、黒鉛の先端が一瞬だけ反応を加速させてしまう。
「ブレーキペダルを踏もうとしたら、ペダルの先端にアクセルが付いていた——緊急ブレーキを踏んだ瞬間に、まずアクセルが踏まれる設計だ」(チャーチウェル氏)。
設計上の欠陥は国家機密
この設計上の欠陥は、チェルノブイリ事故の前から知られていた。
1975年、レニングラード原子力発電所で緊急停止ボタンを押した際に電力が一瞬増加するという事故が起きた。しかしソビエト連邦では核災害は国家機密とされており、この事故はRBMK原子炉の運転者たちに知らされなかった。1985年には「核システムにおける問題についていかなる報告も禁止する」という命令まで出されたと伝えられる。
こうした情報統制は別の問題も生んだ。現場の運転員たちは「なぜそうしなければならないか」の理由を知らされないまま、機械的な指示だけを与えられていた。
チャーチウェル氏が指摘するように、「根底にある物理学を理解していなければ、問題のある状況で適切に対応できない。人々を道具のように使えると考える発想が、多くのことをうまくいかなくした根底にある」。
ゴルバチョフの登場と、安全試験という皮肉
1985年、ミハイル・ゴルバチョフ氏が共産党書記長に就任した。「グラスノスチ(開放性)」と「ペレストロイカ(再構築)」を掲げた改革者として大きな期待を集めた。核災害が発生したのは、就任から1年余しかたっていなかった。
最大の皮肉は、史上最悪の原子力災害が「安全試験」によって引き起こされたことだ。
「ランダウンテスト」と呼ばれるこの試験は、外部電力が失われた際に冷却ポンプを動かし続けられるかを確認するためのものだった。
しかし試験を実施するには、4号炉の自動停止システムを無効にしなければならなかった。「安全装置が機能するかを確かめるために、安全装置を切る」という矛盾した手順が必要だった。
この試験は1982年から繰り返し試みられ、1983年にも実施されたが、タービンの惰性回転による発電時間が短すぎて、いずれも必要な基準を満たせなかった。1986年4月の試験は、その最終的な試みだった。直前の試験から約3年が経過しており、担当チームも入れ替わっていた。
1986年4月25日、運命の金曜日
プリピャチでは、メーデーの準備が進んでいた。4月にしては暖かく、長いウクライナの冬がようやく終わろうとしていた。町では結婚式が重なり、人々は冬の終わりを楽しんでいた。
テストは午後2時15分、経験豊富な日勤シフトのオペレーターが担当する予定だった。しかしここに障害が立ちはだかる。その日は月末であり、ソビエト連邦においてあらゆる施設がノルマ達成のためにフル稼働する時期で、電力を減らすには最悪のタイミングだった。
午後2時、テスト開始の15分前、ウクライナ電力網の管理者からチェルノブイリに電話が入った。別の発電所の原子炉が停止したため、4号炉を停止すれば管内に十分な電力を供給できないという。
こうして、テスト開始は最終的に深夜近くまでずれ込んだ。経験豊富な日勤オペレーターは退勤しており、経験の浅い夜勤シフトが担当することになった。しかもその夜の夜勤の多くは、ランダウンテストが実施されることすら知らされていなかった。
「些細な偶然が連鎖して大惨事につながった。どれか一つがなければ、この事故は起こらなかっただろう」(オルソガ氏)。
人災と設計欠陥、二つの罠
深夜0時を過ぎた4号炉の制御室。最上位にいたのは副主任技師アナトリー・ディアトロフ氏(55歳)だった。短気で厳格、部下に容赦なく、逆らえば即座にキャリアが危うくなる存在だった。
その夜の交代勤務を束ねる責任者アレクサンダー・アキモフ氏(32歳)は熟練の技術者だったが、ディアトロフ氏への強い恐怖心を抱いていた。そして同じシフトに入っていたのが上級原子炉制御技師のレオニード・トプトゥノフ氏(25歳)だ。原子炉の出力を直接操作する最前線の担当者だが、この役職に就いてわずか数か月で、原子炉を停止させる操作の実務経験はなかった。
テストに向けて原子炉の出力を下げていく過程で、出力が急落した。自動調整装置の不具合による面もあったとされるが、経験の浅いトプトゥノフ氏が対応しきれなかったことも一因とみられている。
炉心内にキセノン135というガスが急速に蓄積し、出力は設計値をはるかに下回る30メガワットまで落ち込んだ。
本来であれば、ここでテストを中止するべきだった。しかしディアトロフ氏はテストを強行する。
この時点で炉内に残っていた制御棒は安全規定の最低限度を大幅に下回っており、テストの続行は明らかな規則違反だった。しかしディアトロフ氏の権威に逆らえる者はいなかった。これが、災害を回避できた最後のチャンスだった。
午前1時23分40秒、アキモフ氏の指示を受けてトプトゥノフ氏が緊急停止ボタン(AZ-5)を押した。全制御棒を一斉に炉心へ挿入し、核反応を止めるための操作だ。
しかしここで、先に触れた制御棒の致命的な設計欠陥が現実のものとなった。制御棒の先端が黒鉛でできていたため、挿入された瞬間に核反応が一瞬だけ急上昇する、「ポジティブスクラム効果」と呼ばれる現象が起きた。ブレーキを踏んだ瞬間に、まずアクセルが踏まれる。緊急停止ボタンを押したその瞬間に、炉心は逆に加速した。
爆発発生、放射性物質の放出
午前1時23分58秒、まず蒸気爆発が起き、続いて炉心そのものが爆発した。放射性ウラン燃料と黒鉛片が空中に飛散し、火災が発生した。最終出力は設計上の上限値の約10倍だった。
二度の爆発が起きたその瞬間、制御室にいた誰一人として原子炉が爆発したとは理解していなかった。秘密主義の文化の中で育った人間にとって、目の前で起きていることを「原子炉の爆発」と認識するには、あまりにも前例がなかった。
放射性物質はすでに大気中に放出され、ウクライナからベラルーシへ、さらに西欧へと拡散を始めていた。3キロ離れたプリピャチの住民約5万人は何も知らず眠っていた。モスクワではゴルバチョフ書記長が就寝中だった。
最初に現場の実態に直面したのは、消防車で駆けつけた消防士たちだった。彼らの多くが、自分たちが何に立ち向かっているのかを知らないまま、致死量の放射線を浴びることになる。
「1986年4月のたった一夜の出来事が、40年を経た今もなお続く。終わっていない歴史だ」。オルソガ氏のその言葉の意味が、夜明けとともに明らかになっていく。(第2部へ)




