人気ブログランキング | 話題のタグを見る

小林恭子の英国メディア・ウオッチ ukmedia.exblog.jp

英国や欧州のメディア事情、政治・経済・社会の記事を書いています。新刊「なぜBBCだけが伝えられるのか」(光文社新書)、既刊「英国公文書の世界史 一次資料の宝石箱」(中公新書ラクレ)など。


by polimediauk

チェルノブイリ原発事故から40年 第2部 見えない敵との戦い 消防士と60万人の現場

 チェルノブイリ原発事故から、今年4月26日で40年となる。

 前回は、事故が発生するまでの背景——ソビエトの秘密主義、ノルマ至上主義、そしてRBMK型原子炉に潜んでいた致命的な欠陥——を振り返った。今回は爆発の夜から始まる混乱と、その後に続いた壮絶な戦いの現場へと踏み込む。

 英国の人気ポッドキャスト「Journey Through Time(時代を巡る旅)」(今年1月・2月配信)の内容を基に、原発事故をたどる。ナレーターはロンドン大学の米文学教授サラ・チャーチウェル氏と、マンチェスター大学の歴史家デービッド・オルソガ氏である。

***


駆け付けた消防士たち

 1986年4月26日午前1時28分、チェルノブイリ原発4号炉の爆発からわずか数分後、準軍事消防隊が発電所に到着した。何が起きたのかを全く知らないままの出動だった。放射線量の測定器も防護装備もなかった。

 消防士たちの目に映ったのは火災だった。3号炉と4号炉の屋根のあちこちで小さな炎が燃えていた。屋根はビチューメン(アスファルト)製で、これは高い可燃性を持ち、本来は原子力発電所に使うべきではない材料だ。

 消防士たちは間もなく、口の中に金属の味を感じ始めた。大量の放射線被ばくの兆候とされるが、その意味を知る者はいなかった。足元には炉心から飛散した黒鉛の塊やウラン酸化物の燃料ペレットが散乱し、膨大なガンマ線を放射していた。

 それがいかに危険な場所であるかを知らないまま、消防士たちはその上を歩き、普通の火事と同じように消火作業を続けた。

 最初の犠牲者は循環ポンプ室にいた技師ヴァレリー・ホデムチュク氏(35歳)だった。遺体は回収できなかった。今も4号炉を覆う「石棺」の中に眠っている。


否認を続けた管理者たち

 午前2時、チェルノブイリ所長ヴィクトル・ブリュハーノフ氏が現場に急行した。しかし試験担当の副主任技師アナトリー・ディアトロフ氏は、この期に及んでも4号炉は無事だと信じていた。炉心への水供給を維持することが最優先だと判断し、指示を出し続けた。しかしその時点で、爆発によって炉心はすでに原形をとどめていなかった。

 事故から2日後の4月28日。この日になってもソビエトの秘密主義は徹底されており、外部に漏れる情報は極めて限られていた。英国のニュース番組に呼ばれた専門家たちでさえ、爆発した原子炉の型式も、格納建屋が存在しないことも知らなかったとオルソガ氏は語る。


オペレーション・サイクロン——隠された選択

 事故から2日後、風向きが変わり始めた。

 チェルノブイリはウクライナ北部、ベラルーシとの国境からわずか数キロの場所に位置する。その国境を越えて広がっていた幅16キロメートルの放射性雲が、今度はモスクワ方面へ向かっていた。

 ここでソ連は驚くべき措置を取る。Tu-16爆撃機を発進させ、放射性雲に向けてヨウ化銀を散布し、人工的に雨を降らせたのである。

 後にパイロットの証言などから明らかになったこの作戦は「オペレーション・サイクロン」と呼ばれた。その目的は放射性雲がモスクワに到達する前に雨として地上に落とすことだ。黒い雨がベラルーシの農地に降り注いだ。

 この作戦は最高機密とされ、ベラルーシの住民には一切知らされなかった。自分たちの土地と健康がモスクワを守るために犠牲にされたことを知らぬまま、現地の人々はその後も農作業を続けた。汚染地域が放棄されたのは1999年のことで、南ベラルーシの人々は15年間、放射能汚染された土地で暮らし続けた。

 「誰が『幸運』で誰が『不運』かを決める。それはもはや運ではなく、選択だ。モスクワを救うためにベラルーシを犠牲にする——単純明快な選択だった」(オルソガ氏)。


二つの悪夢のシナリオ

 この時までに、ソビエト当局は放射性火災の消火という目の前の課題を抱えながらも、さらに二つの悪夢のシナリオに直面していた。

 第一は、二度目のはるかに大規模な爆発だ。もし無傷の3基の原子炉をも巻き込む爆発が起きれば、立入禁止区域はさらに広大なものになるとの懸念があった。

 第二は「チャイナ・シンドローム」だ。溶融した炉心が原子炉の底を突き破り、地下水面に到達するシナリオを指す。もしそうなれば、プリピャチ川とドニプロ川——何千万人もの人々の水源——が汚染される。さらに4号炉の直下には大型水タンクがあり、溶融炉心がそこに到達すれば蒸気爆発を引き起こし、残りの原子炉にも深刻な影響を及ぼす恐れがあると当局は判断していた。


暗闇のバルブ 三人の男たち

 蒸気爆発を防ぐため、放射性の水で満たされた暗い通路の中を進み、手動でバルブを開く人間が必要だった。三人がその任務に就くことを承諾した。機械技師のアレクセイ・アナネンコ氏(26歳)、上級技師のヴァレリー・ベスパロフ氏(28歳)、シフト監督のボリス・バラノフ氏(45歳)だ。いずれも原発の構造を熟知した技師たちだった。

 ウェットスーツを着用し、スパナと線量計を手に、膝まで浸水した放射性の通路へと降りていった。暗闇の中を手探りで進み、バルブを開いた。水がタンクから排出される音が聞こえた瞬間、アナネンコ氏は後に「私たちは大喜びした」と語っている。

 5月6日に作業は完了し、蒸気爆発の危機は後退した。驚くべきことに、三人は全員生き延びた。2018年、ウクライナは三人に勇気勲章を授与した。


チャイナ・シンドロームとの最後の戦い

 蒸気爆発の危機は去ったが、溶融炉心がコンクリートを通って地下水面に到達する危険はまだ残っていた。決断が下された。爆発した原子炉の真下に坑道を掘り、冷却システムを設置するというものだ。ウクライナ東部の炭鉱地帯ドンバスをはじめソビエト各地から鉱夫たちが急送された。作業温度は約60度、ほとんど手作業だった。

 その坑道が完成したのは6月24日だったが、最大の皮肉が待っていた。その頃には炉心の温度はすでに低下しており、チャイナ・シンドロームの危機は後退していたのである。あれほどの犠牲を払って掘り抜いた坑道は、結局使われなかった。


リクビダートルの召集

 炉心の危機が一定程度収まると、次の戦いが始まった。30キロメートルの立入禁止区域全体の除染だ。放射能汚染の除去や事故収束作業に駆り出された人々の多くは何のために呼ばれたのかを告げられなかった。ある日突然、呼び出しを受け、集合場所に連れて行かれ、輸送中あるいは到着してからようやく、チェルノブイリへ行くことを知らされた。

 こうした人々は「リクビダートル(清算者)」と呼ばれた。最終的にその総数は少なくとも60万人に及ぶと推定されている。動員されたのは兵士、作業員、消防士、医療関係者など幅広い層で、多くが若い世代だった。汚染地域は十分に地図化されておらず、与えられた防護装備は「花びら」と呼ばれる簡単な布製の呼吸器だけだった。個人用線量計を持っていたのはわずか2〜3パーセントにすぎなかった。


福島では、誰がその役割を担ったのか。

 事故後、福島第一原発で働いた作業員は延べ約4万6000人にのぼる。緊急作業中に250ミリシーベルトを超える被ばくをした者が6人、100ミリシーベルトを超えた者が174人いた。現場には消防士、警察官、自衛隊員らも派遣された。

 福島の現場を支えたのは、多くが名もなき下請け作業員だった。床に薄い保温シートを敷いて仮眠をとる作業員らの顔は、長い間、社会から見えないままだった。


バイオロボットという名の人間

 4号炉の廃墟周辺では、遠隔操作ロボットが次々に故障した。チェルノブイリのガンマ線場は、どんな精密な機械も電子回路を焼き切ってしまう。機械が機能しないなら、人間が代わりをするしかなかった。こうして生まれた呼称が「バイオロボット」だ。

 兵役を終えて民間に戻っていた3000人の予備兵が徴集され、原子炉建屋の屋上に散乱した高放射性の黒鉛の塊を手作業で除去した。

 屋根の除染作業を指揮したニコライ・タラカノフ担当将軍は屋根の3つのエリアに姪の女性たちの名前をつけた。レントゲンは放射線量の旧単位であり、1000レントゲンは人体にとって致死量をはるかに超える。エリアK(カーチャ)は1時間あたり1000レントゲン。エリアN(ニーナ)は2000レントゲン。エリアM(マーシャ)は12000レントゲン——3分間そこにいるだけで致命的だった。

 唯一の本当の保護は時間だった。ベルが鳴ると屋根に出て、再びベルが鳴ると急いで戻る。各自に許された作業時間は数分だった。

 普通なら週末に3人でできる仕事が、3828人の予備兵が12日間かけて、それぞれ数分ずつ作業することを必要とした。屋根での数分の後、多くの者が口の中に金属の味を感じたと報告した——あの夜の消防士たちと同じ感覚だ。


チェルノブイリの死者数 答えの出ない問い

 チェルノブイリ核災害の死者数という問いに、確定した答えは存在しない。事故直後、急性放射線症候群を発症した134人のうち28人が3ヶ月以内に死亡した。長期的な影響をどう数えるかによって推計は大きく異なる。世界保健機関は関連する癌死を最大9000人と推定する一方、グリーンピース・インターナショナルは9万人以上と推定しており、その差は10倍以上だ。特に深刻だったのは子供への影響で、事故当時18歳未満だった人々の間で甲状腺癌が多数記録された。

 チェルノブイリ事故の真の代償は、今もなお数え終わっていない。(最終回へ)


by polimediauk | 2026-04-22 21:40 | 政治とメディア