デンマーク風刺画 英国のデモ、フィスク氏の見方


4日は、ロンドンのデンマーク大使館の前で、イスラム教「過激集団」ヒズブットタヒリル(Hizb ut-Tahrir いろいろな読み方があるようだ)が主催の抗議デモがある、というので、出かけた。
前日にもイスラム教徒たちの抗議デモが同大使館の前であり、500人ほどが集まった中で、かなり過激なメッセージが叫ばれたという。例えば、ロンドンで自爆テロがあったのは昨年の7月7日だが、「7・7の再来はある」(実行犯は若いイスラム教徒たちだった)などを叫び、デンマークの旗を焼いたりなどした。大使館に近いハイドパーク近辺で小競り合いがあった(オートバイに乗った人が、デモの参加者に「(イスラム教)過激派」と呼んだことがきっかけ)が、それでも、ガーディアンによれば、逮捕者はなかった。
今日のデモは、私が見る限り、暴力シーンはなかったし、旗を焼く場面もなかったが、白人の若い男性が、警察の車の中に連れ込まれていたのを見た。
大使館近くには警察官が何名もガードしており、道路をへだてて丁度大使館の正面と向き合う場所に、柵のようなものができており、オレンジの団体の旗を広げ、かなりの人々が集まっていた。リーダーがメッセージを叫ぶと、全員で唱和するという形が始まっていた。
「イスラム教徒を侮辱するために掲載した」「表現の自由とは一体何なのか?」「批判は受けるが、侮辱は受けない」などのオレンジ色のプラカードを持っている人もたくさんいた。
細長く横に広がったデモ参加者たちは、男性たちと、女性と子供たちの二手に分かれている。
中に入ろうと思って歩いてゆくと、警察官に2回、止められた。「デモに参加したいのか?」と確認をとられた。「そうだ」というと、あっさり通す。
子供や赤ん坊をつれてきた女性たちもたくさんいて、中に混じって、メッセージを聞くと、時々、「神のご加護を」というような感じの文句を全員で唱和していた。
1時間半ほどのデモの後、数名のグループが、「イスラムを侮辱するな」という張り紙を持って、駅までの道を練り歩いていた。
デモと同時には、この団体は3つの要求を出した。一つは、風刺画を掲載したメディアを持つ欧州の政府に対し、侮辱を引き起こしたことに対する謝罪をメディアが出すように協力して欲しいのと、今後このようなことが起きないように保障してほしい。2つめは、イスラム教徒と西欧との間での活発な議論が開始されることを希望する。最後は、イスラム教諸国への呼びかけで、風刺画を掲載した欧州の政府との外交及び経済関係を一切絶つ、ということ。
1つめと3つめは、かなりむずかしいだろう。3つめが可能になったら、実質的にはEUとの経済関係を切ることになる。EUからの経済支援を受けているイスラム教諸国もあるだろうし、現実的ではない。
しかし、2つめの、議論を開始する、というのは、少なくとも英国では可能のような気がするが。
ヒズブットタヒリル自身がやることとしては、18日に全国規模のデモを組織化すること、世界中のムスリム及び非ムスリムの人々から風刺画掲載に関する抗議の声をウエブサイトを通じて募る、そして、西欧の学者、思想家、宗教上のリーダー、政治家、ジャーナリストととの対話を深める、としている。
ところで、この団体は「過激」と書いたが、昨年7月のロンドンテロ以降、「過激主義がいけない」という政府の判断により、ブレア首相はヒズブットタヒリルの活動を禁止する、と述べていた。しかし、その後のヒズブットタヒリル自身や英ムスリムリーダーたちの説得で、禁止しないことになった。
首相レベルで、活動禁止する団体として名指しされるとは、一般的に考えて、「相当過激」であると、通常は判断するのではないだろうか?活動禁止が数ヵ月後に「解かれる」とは、一体どういうことなのだろうか?危険なのかそうでないのか?「非常に危険なテロ容疑者」として、英国内の刑務所に拘束され続けている人たちの、危険度は、果たして一体どのくらいなのか?
―ロバート・フィスク氏の見方
英国では中東ジャーナリストとして著名な、インディペンデントの記者ロバート・フィスク氏が、
「だまされるな、これはイスラム教対世俗主義の問題じゃない」Don’t be fooled, this isn’t an issue of Islam versus and secularismというタイトルの記事を、4日付の紙面に書いていた。
前に英エコノミスト誌が、デンマークが風刺画を掲載したのは、宗教に対する鈍感さがあるのではないか、と書いていたが、それとちょっと論点が似ている部分もあった。
つまり
―既に私たち(西欧の人)は、宗教(キリスト教)に対する信仰心を失って大分経つ。
-従って、今回の問題は「キリスト教対イスラム教」ではなくて、「西欧対イスラム教」だ。欧州には、それほどキリスト教信者は残されていない。このため、「イスラム教の預言者ムハンマドを何故馬鹿にしてはいけないのか?」と世界に向かって言っても、あまり説得力がない。
―また、私たち自身、宗教的偽善を行ってもいる。10年以上前に、「キリストの最後の誘惑」(直訳)という映画で、キリストが女性とベッドインしたときに、パリでは誰かが映画館に放火し、人が1人死んだ。また、自分が3年前にアメリカの大学で講演をしたとき、タイトルに「神のために」(直訳for God’s sake)という言葉が入っていた。講演の直前に主催者はこの言葉を取った。
―私たちはイスラム教徒に向かって、表現の自由のために(あるいは安っぽい風刺画のために)、世俗主義を実行しなさいといいながら、自分たち自身の大事な宗教に関しては、こだわっている。
―また、欧州の政府は、独立メディアに干渉できない、としているが、これはナンセンスだ。ムハンマドの風刺画でなく、例えばユダヤ教のラビが爆弾の形をした帽子を被った風刺画を掲載していたら、「反ユダヤ主義だ」と叫んでいたにちがいないのだ。
―さらに、欧州のいくつかの国、フランス、ドイツ、オーストリアでは、大量殺戮の行為を否定することは、法律で禁止されている。フランスでは、例えば、ホロコーストは起きなかったと言えば、法律をおかしたことになる。
―イスラム教徒の方でも何らかの改革を望んでいる部分はあると思う。そのための議論の機会として風刺画が掲載されたなら、誰も問題にしなかっただろう。しかし、明らかに、挑発が目的だった。あまりにもひどいので、(議論でなく)リアクションしか出てきていない。
―とにかく、これは、預言者ムハンマドが描かれるべきだったかどうか、の問題ではない。問題は、ムハンマドが、オサマ・ビンラーディンのような、暴力の象徴として描かれた点だ。今回の風刺画は、イスラム教が暴力的な宗教であるかのように描いた。イスラム教は暴力的な宗教ではない。それとも、そうしたい?(終わり)