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小林恭子の英国メディア・ウオッチ ukmedia.exblog.jp

英国や欧州のメディア事情、政治・経済・社会の記事を書いています。新刊「なぜBBCだけが伝えられるのか」(光文社新書)、既刊「英国公文書の世界史 一次資料の宝石箱」(中公新書ラクレ)など。


by polimediauk

毒殺、白リン弾、生物兵器の偽情報――「過去の話」ではない化学・生物兵器の現在地

ナワリヌイはなぜ神経剤で狙われたのか

 2020年、ロシアの反体制活動家アレクセイ・ナワリヌイが神経剤「ノビチョク」で毒殺未遂に遭い、世界に衝撃が走った。2018年には英国ソールズベリーで、元ロシア情報機関員セルゲイ・スクリパルと娘もノビチョクによる暗殺未遂の標的となった。2017年にはマレーシアの空港で、北朝鮮の金正恩の異母兄・金正男がVXという化学兵器で殺害されている。

 これらは「化学兵器」という言葉から多くの人がイメージする、戦場での大量殺傷とはまったく異なる使われ方だ。

 特定の個人を狙い、国境をまたいで、平時に使われている。そして多くの場合、加害者は「知らない」と白を切る。

 こうした現実を、国際社会はどう受け止めるべきか。

 4月29日、ノーベル平和賞受賞団体であるパグウォッシュ会議の化学・生物兵器(CBW)作業部会が、国際的な専門家を集めたオンライン会議を開催した。テーマは「化学・生物兵器の歴史は繰り返されるのか。何ができるのか」。

 その議論をもとに、今なぜこの問題が重要なのかを考える。


「禁止されているはずなのに」

 化学兵器は1993年に成立した化学兵器禁止条約(CWC)によって、開発・製造・貯蔵・使用のすべてが禁じられている。生物兵器**も1972年の生物兵器禁止条約(BWC)で同様に禁じられた。条約の加盟国はいずれも190前後にのぼり、ほぼ全世界が署名している。


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 生物兵器とは:細菌・ウイルス・毒素などの生物学的物質を利用して人・動物・植物に意図的に害を与えるよう設計された兵器。炭疽菌やペスト菌といった細菌、天然痘やエボラといったウイルス、ボツリヌス毒素やリシンのような生物由来の毒素などがその例にあたる。化学兵器がサリンやマスタードガスのような化学物質そのものの毒性を利用するのに対し、生物兵器は生きた病原体や生物由来の物質を使う。

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 それでも使用事例はなくならない。なぜか。

 会議では、この問いの核心として「ハイブリッド作戦」という概念が取り上げられた。

 ハイブリッド作戦とは、正式な戦争状態ではなく、武力紛争の「一線を下回る」形で展開される作戦のことだ。実行者には「否認可能性」という強みがある。証拠が残りにくく、「やっていない」と言い張ることができる。そして軍事的報復を招くリスクが低い。

 冒頭で挙げたナワリヌイやスクリパルへの攻撃はまさにこのパターンだ。

 使われた神経剤は条約で明確に禁じられているが、標的は個人であり、大量殺傷ではない。「大量破壊兵器」としての文脈とは異なるため、国際社会の反応も外交的圧力にとどまり、条約に基づく正式な調査手続きには至りにくい。

 会議の議論では、こんな問いが提起された。「被害の規模が小さければ、条約違反の重大性も低いと判断されるのか。もしそうだとすれば、それ自体が深刻な問題ではないか」。


戦場でも「グレーゾーン」

 ロシアによるウクライナ侵攻では、催涙剤(いわゆる「涙ガス」)が戦闘に使用されているとの報告が繰り返されている。これは、CWCが明確に禁じている行為だ。催涙剤は暴動鎮圧目的には使えるが、「戦争の方法として」使うことはCWCで禁止されている。

 しかし国際社会の反応は、政治的・外交的な批判にとどまっている。正式な条約違反の調査には至っていない。

 会議では、こうした現状を「条約違反のコストが低すぎる」と指摘する声があった。条約の第9条(協議条項)はスクリパル事件でも発動されたが、最終的には形式的な回答しか得られず、手続きは取り下げられた。「ハイブリッド作戦は、試みる価値がある」というメッセージを国際社会に与えてしまっているというわけだ。

 他にも会議では、現実に起きた「グレーゾーン」事例として以下のようなものが挙げられた。

 化学工場への砲撃はCWC違反になるか。トンネル内で催涙剤を使って民間人を追い出す行為。フェンタニル(医療用麻酔薬でもある強力な鎮痛剤)を対テロ作戦で使用すること。非暴力的なデモへの催涙剤の過剰使用。複数の都市で女子学生が集団中毒になった事件。

 これらはすべて仮想のシナリオではなく、2000年以降に実際に起きた出来事だ。

 どこまでが国内の治安問題で、どこからが国際条約の問題になるのか。その線引きが曖昧なまま、事態は進んでいる。


「白リン弾」は化学兵器か、それとも通常兵器か

 もう一つ、会議で詳しく取り上げられたのが白(はく)リン弾だ。ガザやレバノンで使用されたとして、近年国際的な批判を集めている兵器である。

 白リンは空気に触れると自然発火する化合物で、軍事的には主に「煙幕」と「照明」に使われる。クラゲのような白い炎が空中に広がる映像を見たことがある人もいるだろう。

 では法的にはどう扱われるのか。会議での分析によれば、これが非常に難しい。

 焼夷兵器を規制するCCW(特定通常兵器使用禁止制限条約)の議定書IIIは、「人員に対する焼夷効果を主目的として設計された兵器」を禁じている。しかし白リン弾の主目的は煙幕・照明とされているため、この定義に当てはまらないとされている。

 CWCについても、「生命の過程への作用によって傷害を与える化合物」が対象だが、白リンによる熱傷は酸素との化学反応による「熱的作用」であり、直接「毒性による作用」ではないとされる。ただし体内に吸収された場合には肝臓や腎臓への毒性作用が生じるため、CWCの適用を主張する余地がないわけではない。

 会議では、慣習国際人道法の「区別の原則」(戦闘員と民間人を区別せよ)と「均衡性の原則」(民間人への付随的被害が軍事的利益に比して過大であってはならない)が最も関連性の高い枠組みだとされた。

 しかし白リンは着弾地点の予測が極めて難しく、土壌や水に長期間残留する。使用時には無人だった地域に残留し、後から移り住んだ民間人が被害を受けた場合、「区別的な使用」といえるのか。この問いは現行法の大きな未解決問題として残っている。


「偽情報」も脅威に

 生物兵器の問題は、化学兵器とは別の難しさがある。病原体による被害は、自然災害なのか、事故なのか、それとも意図的な攻撃なのか、外見がきわめて似ているためだ。

 会議では、この「曖昧さ」が構造的な問題として議論された。ミサイル発射や核実験と違い、感染症のアウトブレイクはそれ自体では何も語らない。疫学的調査や遺伝子解析を積み重ねても、結論は確率論的なものにとどまる。

 この曖昧さを利用して、歴史上、繰り返し「偽の情報」が流布されてきた。

 朝鮮戦争時代(1950年代初頭)、中国・北朝鮮・ソ連は米国が生物兵器を使用したと告発したが、後年の調査で捏造と判明した。1980年代には、エイズウイルスが米国の軍事研究施設で開発された生物兵器だとするキャンペーン(後に「オペレーション・デンバー」と呼ばれる)がソ連主導で展開され、この「陰謀論」は形を変えて今も流布している。

 逆のパターンもある。1979年にソ連・ウラル地方のスヴェルドロフスク(今はエカテリンブルクに名称変更)で60人以上が死亡した炭疽菌の集団感染は、当初「汚染された食肉が原因」と発表されたが、後年の研究で軍の生物兵器施設からの漏洩と確認された。「偽情報」は虚偽の告発を作ることだけではない。真実を隠蔽し、自然な原因を装うことでもある。

 会議では、こうした歴史から導かれる教訓として「情報の完全性を守ることこそが、生物兵器禁止条約(BWC)が今後50年機能し続けられるかどうかの中心的な問題だ」という指摘があった。


生物兵器禁止条約(BWC)

 正式名称は「細菌兵器(生物兵器)及び毒素兵器の開発、生産及び貯蔵の禁止並びに廃棄に関する条約」で、1972年に署名され、1975年に発効。生物兵器を「作ること」「持つこと」「移すこと」をすべて禁じた、人類史上初めて大量破壊兵器の一カテゴリー全体を禁止した多国間条約。現在約190カ国が加盟。

 大きな弱点は検証機関が存在しないこと。化学兵器にはOPCW(化学兵器禁止機関)、核兵器にはIAEA(国際原子力機関)という査察・監視機関があるが、BWCにはそれに相当するものがなく、違反の確認や調査が非常に難しい構造になっている。


輸出管理という「縁の下の力持ち」

 化学・生物兵器の拡散を防ぐ仕組みとして、条約とは別に重要な役割を果たしているのが輸出管理だ。

 会議では「オーストラリア・グループ」が取り上げられた。1985年に設立された42カ国とEUが参加する非公式グループで、生物・化学の「デュアルユース(軍民両用)」品目の輸出を管理するための基準作りやリスト整備を担っている。2025年はその設立40周年にあたる。

 設立のきっかけは、イラクがイランとの戦争で化学兵器を使用し、その材料を国際市場から合法的に調達していたことが判明したことだ。「売った側も責任がある」という発想から生まれた仕組みである。

 法的拘束力はないが、加盟国が国内法で対応することで実効性を確保している。近年では2020年にナワリヌイ氏が毒殺未遂を受け、ノビチョクの合成に用いられる化学物質がリストに追加された。

 ただし課題も多い。構造改革が10年以上行われておらず、非加盟の途上国からは「先進国だけが技術へのアクセスを制限している」との批判が根強い。ロシアは主要な多国間輸出管理体制の中で唯一不参加のままだ。

 会議では「条約(ハードロー)と輸出管理(ソフトロー)は競合するものではなく、互いを補完するものであるべきだ」との見解が示された。

「制度そのものを武器にする」新たな脅威

 会議が特に強調したのが、「ローフェア(lawfare)」と呼ばれる手法だ。国際機関の手続きや議決プロセスを逆手にとって、その組織の信頼性を内側から失墜させようとする試みである。

 2022年のウクライナ全面侵攻後、ロシアはBWCの第5条(協議条項)を発動し、ウクライナの生物研究施設が兵器開発に使われているとして正式な協議会議を要求した。

 しかしBWCには根本的な手続き上の問題がある。最終報告書の採決に、告発した国も告発された国も参加するため、コンセンサスが成立しないのだ。問題は国連安全保障理事会にも持ち込まれた。

 2022年11月の採決では、拒否権行使以前に非常任理事国10カ国が棄権し、決議は不成立となった。棄権の理由の一つは「証拠が不十分」というものだった。一カ月前の協議と全く同じ証拠が再提出されており、より実質的な裏付けが期待されていたという。

 「条約に証拠を出す義務の規定がない」「証拠の質をどう判断するか」「誰が検証するのか」。こうした根本的な問いが、今も未解決のまま残っている。


パグウォッシュ会議が問い続ける理由

 今回の会議を主催したパグウォッシュ会議は、1955年にアルベルト・アインシュタインとバートランド・ラッセルが呼びかけた科学者宣言(ラッセル=アインシュタイン宣言)を起源とする国際組織で、1995年にノーベル平和賞を受賞している。

 冷戦期から化学・生物兵器問題に関与し、BWCやCWCの成立にも貢献してきた。その手法は「トラック2外交」と呼ばれる。政府の公式交渉とは別に、科学者・研究者・政策立案者が個人の資格で集まり、オープンに議論する場を作ることだ。今回のウェビナーもその一環であり、若手研究者と上級専門家が対等に議論する場として設計された。

 化学・生物兵器の問題は、遠い戦場の話でも、冷戦の遺物でもない。毒殺事件のニュース、ガザでの白リン弾報道、パンデミックをめぐる陰謀論。それらはすべて、この問題の現在進行形の姿だ。条約があっても使われる。禁止されていても抜け道がある。そして「情報」そのものが兵器になりうる時代となった。

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 本稿は4月29日に開催されたパグウォッシュ会議CBW作業部会ウェビナー「過去を振り返り、未来を見据えて――化学・生物兵器の歴史は繰り返されるのか?何ができるのか?」の議論をもとに構成した。会議はチャタムハウス・ルール(発言者を特定しない)のもとで開催された。会議の告知は英国パグウォッシュによる。

 登壇者は以下。

 カレン・ハルバーグ博士(パグウォッシュ会議事務局長)

 フィリッパ・レンツォス(キングス・カレッジ・ロンドン准教授〔科学・国際安全保障〕/SIPRI上席研究員)

 モニカ・チンチジャ・アデル(スペイン・ナバラ大学国際法助教)

 オリビア・イッボットソン(ロンドン・メトロポリタン大学博士課程研究員/学生・ヤング・パグウォッシュ執行委員)

 ジャン=パスカル・ザンデルス(独立系の研究・情報発信プラットフォーム「The Trench」創設者/パグウォッシュ化学・生物兵器作業部会議長)


by polimediauk | 2026-05-07 01:37 | 政治とメディア