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小林恭子の英国メディア・ウオッチ ukmedia.exblog.jp

英国や欧州のメディア事情、政治・経済・社会の記事を書いています。新刊「なぜBBCだけが伝えられるのか」(光文社新書)、既刊「英国公文書の世界史 一次資料の宝石箱」(中公新書ラクレ)など。


by polimediauk

「死の天使」メンゲレの機密ファイル、ついに公開へ スイスが直視を迫られる戦後の影

 第二次世界大戦後、南米へ逃げたナチス戦犯ヨーゼフ・メンゲレ。アウシュビッツ強制収容所で残酷な人体実験を行い、「死の天使」と恐れられた男だ。そのメンゲレに関するスイス政府の機密ファイルが、ようやく公開に向けて動き始めた。

 スイス連邦情報局(NDB)は今月、長年封印されてきたメンゲレ関連文書について、「今後定められる条件と要件のもとで閲覧を認める」と発表した。公開時期や具体的な条件は未定で、全面的な開示になるかどうかも分かっていない。

 しかし、これまで2071年まで封印される予定だったことを考えれば、大きな方針転換と言える。


「死の天使」メンゲレとは

 ヨーゼフ・メンゲレ(1911-1979年)は、ドイツ南部バイエルン州のギュンツブルクの裕福な家庭に生まれた。ミュンヘン大学で医学と自然人類学を学び、博士号を2つ取得した。「狂気の悪魔的科学者」というイメージとは裏腹に、ベルリンの有力な研究所とも連携した、当時のドイツ医学界のエリートの一人だった。

 1943年5月、ナチス親衛隊(SS)の軍医としてアウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所に赴任した。収容所に到着した列車からユダヤ人が降りてくると、メンゲレは一人ひとりをざっと見て、ガス室に送る者と強制労働に回す者を選んだ。アウシュビッツでは推定110万人が殺害され、その約9割がユダヤ人だった。

 他の軍医の中には、この「選別」の辛さに耐えられず、酒を飲まなければこなせない者もいた。メンゲレは違った。口笛でオペラのアリアを吹きながら、親指を右か左に向けるだけで人の生死を決めた、と複数の証言が残っている。その冷たさが「死の天使」という異名の由来だ。

 メンゲレの名を最も悪名高くしたのは、双子や子どもを使った人体実験だ。双子の体を隅々まで測定・採血し、細菌や化学物質を注射した。どちらかが死ぬと、もう一方も即座に殺して解剖し、比較した。左右の目の色が違う子どもたちの眼球はベルリンの研究所に送られた。麻酔なしの手術、感染症の実験――その犯罪のすべては、今も完全には明らかになっていない。


偽名、赤十字書類、南米逃亡

 1945年1月、ソ連軍が迫る中、メンゲレはアウシュビッツから逃げ出した。終戦を迎えると偽名でアメリカ軍の捕虜になったが、SS隊員に義務づけられていた血液型を示す入れ墨が腕になかったため、身元がばれずに釈放された。その後はバイエルンの農場で数年間、農夫として身を隠した。

 1949年、欧州から逃げることを決めたメンゲレは北イタリアのジェノバへ向かった。そこでスイス領事館を訪れ、「ヘルムート・グレゴール」という偽名で赤十字の旅行書類を手に入れ、同年5月にアルゼンチンへ渡った。当時、赤十字は戦争で家を失った人々のために渡航書類を発行していたが、逃亡するナチスにも悪用された。後に赤十字はこの点について謝罪している。

 アルゼンチンではペロン政権下、多数の元ナチス関係者が庇護を受けていた。メンゲレも一時は本名で生活し、市民権まで取得している。2003年、アルゼンチン政府が公開した機密文書の中には、「ヘルムート・グレゴール」名義の1949年入国記録も含まれていた。

 1956年、メンゲレは息子ロルフとともに欧州へ戻り、スイスの保養地エンゲルベルクでスキー休暇を過ごした。息子には「フリッツおじさん」と名乗り、父親であることを伏せていたという。

 1959年、西ドイツの検察がアルゼンチンにいるメンゲレを突き止め、国際逮捕状を出した。翌1960年には、イスラエルの諜報機関モサドがアルゼンチンでナチス戦犯アドルフ・アイヒマンを捕まえた。欧州全土からユダヤ人を強制収容所へ送り込む仕組みを作った「ホロコーストの官僚」アイヒマンはイスラエルで裁かれ、1962年に処刑された。

 次は自分が捕まる。そう確信したメンゲレはパラグアイへ、さらにブラジルへと逃げ続けた。


1961年、助手席に座った男性は?

 だが、その直後から奇妙な記録がスイス側に残り始める。

 1961年6月、オーストリアの情報機関がスイス当局に「メンゲレが偽名でスイス国内にいる可能性がある」と警告した。同じ頃、メンゲレの妻マルタはチューリッヒ郊外のクロテンという町にアパートを借り、永住権まで申請していた。国際空港に近いそのアパートは警察の監視下に置かれ、記録にはマルタが正体不明の男性を助手席に乗せてフォルクスワーゲンを運転していた様子まで残っている。

 その男はメンゲレだったのか。決定的な証拠はまだ見つかっていない。

 もし助手席の男がメンゲレだったとすれば、話は単なる謎では済まない。1961年の時点でメンゲレはすでに国際指名手配中だった。それにもかかわらずスイス当局が彼の存在に気づきながら見逃したとすれば、あるいは見て見ぬふりをしたとすれば、中立国スイスが戦争犯罪人の逃亡を事実上助けたことになるからだ。

 その後もメンゲレはブラジルで逃亡生活を続けた。1977年、息子ロルフが偽造パスポートで秘密裏にブラジルを訪れ、父子として初めて対面している。ロルフがアウシュビッツでの犯罪を問いただすと、メンゲレは「私は命令に従っただけだ」と繰り返したという。

 1979年2月、メンゲレはブラジルの海岸で遊泳中に脳卒中を起こし溺死。67歳だった。偽名のまま埋葬され、一度も法廷に立つことはなかった。

 1985年、西ドイツ警察がメンゲレの逃亡を支援してきた協力者の自宅から書簡を発見したことで遺骨が発掘され、1992年のDNA鑑定で最終確認がなされた。

なぜ70年以上も封印されたのか

 歴史家たちはメンゲレのファイルへの閲覧を繰り返し申請してきたが、当局に拒否され続けた。スイス連邦情報局(NDB)は国家安全保障と個人情報保護を理由に、ファイルを2071年まで非公開としていた。

 2025年末に歴史家ジェラール・ヴェットスタインが申請しても許可が下りなかった。

 そこでヴェットスタインは連邦行政裁判所に異議申し立てを行う。クラウドファンディングで数日のうちに1万8000スイスフラン(約300万円)を集めて訴訟費用を賄った。

 その法的手続きの過程で、思わぬ事実が浮かび上がった。

 NDBと連邦文書館がこのファイルを封印し続けることに法律上の根拠があるかどうかを改めて調べたところ、2001年12月7日の連邦参事会決定の存在が確認された。

 その決定によると、第二次大戦中のスイスとナチス・ドイツとの関係を検証した「ベルジエ委員会」が調査対象とした文書については、「自由な閲覧慣行」を原則とすると定められていた。そしてメンゲレのファイルも、その対象文書に含まれていた。 

 ヴェットスタインはSRF(日本のNHKにあたるスイスの公共放送局)に対し、「NDBが意図的に隠していたとは思わない」、「壮大な陰謀というより、官僚的怠慢だった」と語っている。

 なぜ秘密にする必要があったのか。一部の歴史家は、ファイル内にモサドなど外国情報機関との接触記録が含まれている可能性を指摘する。

 だが、それだけで70年以上の封印を正当化できるのかという疑問は残る。

 歴史家ザッハ・ツァラは「情報非公開そのものが陰謀論を育てた」と指摘する。

 また、ヴェットスタインは「墨塗りだらけのファイルが渡されるのではないか」と警戒を隠さない。


スイスと「戦後の影」

 スイスは第二次世界大戦中、中立国として生き残った。

 しかし戦後、その「中立」の裏側も徐々に明らかになっていった。ユダヤ人難民を国境で追い返した問題、ナチスに略奪された資産をスイス銀行が保有し続けた問題、逃亡ナチスの「通過地点」となっていた可能性。

 1990年代に設置されたベルジエ委員会は、こうした不都合な事実を公式に確認し、スイス社会が長年守ってきた「清廉な中立国」というイメージを大きく揺るがした

 委員会終了後、文書の多くは企業へ返却され機密ファイルは再び封印された。

 他国との差は歴然としている。ドイツは一貫してナチス関連文書を公開・保存し、アメリカは1998年の法制定で800万ページ以上を機密解除した。アルゼンチンも2003年に関連文書を全面公開し、メンゲレの1949年入国記録もその中で確認されている。調査が終わると文書を返却し機密指定を維持し続けるスイスの構造的傾向は、今回の問題にも色濃く表れている

 歴史家ヤーコブ・タナーは「スイスでは歴史の真実よりも国家の都合が優先されることが多い」と語る。

 もしメンゲレが1961年にスイスに潜伏していたとすれば、国際指名手配中の戦争犯罪人をスイス当局が知りながら見逃したのか、あるいは見て見ぬふりをしたのかという、重大な問いが浮かび上がってくる。

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参考資料

BBC(5月16日)スイスインフォ(5月4日)の報道、20 Minuten、SRF、Tagesanzeigerの関連報道、ならびに米国ホロコースト記念博物館の資料など。


by polimediauk | 2026-05-21 20:00 | 欧州のメディア