「EUの父」が抱えた秘密 欧州統合の立役者、裁かれぬまま逝く
現在の欧州連合(EU)は、この人物なしには存在しなかったかもしれない。
ベルギーの元外交官で欧州委員会副委員長を務めたエティエンヌ・ダヴィニョン氏が18日、ブリュッセルで死去した。93歳だった。1970年に彼がまとめた「ダヴィニョン報告書」はその後の欧州統合の方向性を決定づけ、単一欧州議定書やマーストリヒト条約への道を開いた
一方で、彼にはもう一つの顔があった。
旧ベルギー領だったアフリカ中部コンゴ(現コンゴ民主共和国)の初代首相パトリス・ルムンバが1961年に殺害された事件で、ダヴィニョン氏は戦争犯罪への関与を問われていた。2011年にルムンバの遺族が告訴した元政府関係者ら10人のうち唯一の存命者で、ベルギーの裁判所が今年3月、公判開始を決定していた。
しかし、被告の死亡により刑事訴追は事実上消滅し、公判が開かれる見通しはなくなった。
「旧ベルギー」の体現者
ダヴィニョン氏は1932年、ハンガリーのブダペストで生まれた。祖父はベルギー外相、父も外交官という家系で、自身も1959年に外務省入りした。
ベルギーではしばしば「旧ベルギーの最後の代表者」と呼ばれた。そこには賛辞と批判の両方が込められている。パイプをくわえ、広範な人脈を駆使し、表舞台よりも水面下で影響力を発揮する――そんな古典的エリート像を体現した人物だった。
欧州統合の設計者
外交官から欧州政治の中心人物へ押し上げたのが、1970年の「ダヴィニョン報告書」だった。当時の欧州経済共同体(EEC)加盟国の外交協調を提唱したこの報告書は、その後の欧州統合の方向性を形作った。後の単一欧州議定書、マーストリヒト条約、さらには今日のEU外交協調の原型は、この報告書に源流を持つとされる。
1977年から1985年には欧州委員会の産業担当委員、副委員長として、欧州鉄鋼業の構造危機への対応を主導した。過剰生産と米国との貿易摩擦の中で加盟国間の利害調整を進め、強制的な生産割当制度を導入した。
世界の政財界関係者が集う非公開会議「ビルダーバーグ会議」の議長も1998年から2011年まで務めた。欧州統合を推進した国際派エリートの象徴的存在だった。
だが、その経歴には植民地主義の影がつきまとった。
コンゴとルムンバ
1960年6月、約80年に及んだベルギー支配からコンゴが独立すると、初代首相ルムンバは独立式典で植民地支配を厳しく批判した。「筆舌に尽くしがたい苦しみ」という言葉で旧宗主国を告発した演説は、ベルギー側に強い衝撃を与えた。
独立直後からコンゴ国内は混乱し、ベルギーは銅やコバルトなど鉱物資源が豊富な南東部カタンガ州の分離独立勢力を支援した。ルムンバは国連に支援を求めたが拒否され、旧ソ連に接近した。冷戦下でこれが西側諸国の警戒を決定的に強めた。
同年9月、ルムンバはカサブブ大統領によって解任を宣告された。だが、ルムンバ側もその決定を拒否し、逆にカサブブ解任を宣言。独立からわずか数カ月で、コンゴは深刻な政治危機に陥った。
混乱の中で実権を握ったのが、後に長期独裁者となるモブツ将軍だった。モブツは「中立化」を掲げてクーデターを実行し、ルムンバを自宅軟禁下に置いた。
ルムンバは支持基盤の残る東部への脱出を試みたが、途中で拘束された。首都で監視下に置かれた後、最終的にベルギー側が支援するカタンガ州へ移送された。
そこで激しい暴行や拷問を受けた末、1961年1月17日、2人の盟友とともに殺害された。35歳だった。
金歯だけが返還された
遺体は硫酸で溶かされ処分された。長く行方が分からなかったが…、長く行方が分からなかった。ただ一本、金冠付きの歯だけが残されていた。その歯が遺族へ返還されたのは2022年だった。ブリュッセルで開かれた返還式典では、ベルギーのデ・クロー首相が正式な謝罪を表明した。
2001年のベルギー議会調査委員会は、ルムンバ暗殺をめぐりベルギー国家に「道義的責任」があったと結論づけた。同委員会は、ダヴィニョン氏が当時のコンゴ政界工作に関与していたとも指摘している。
ダヴィニョン氏が書いた外交電報には、「ルムンバを排除し、コンゴ指導者の統一を実現することが最重要問題」と記されていた。
ただ、ダヴィニョン氏本人はルムンバ暗殺への関与を一貫して否定した。
15年に及ぶ法廷闘争の末、ベルギーの裁判所は今年3月、公判開始を決定した。しかし、その約2カ月後にダヴィニョン氏は死去した。
報道が映した温度差
ベルギー内外の報道には温度差も見られた。
ベルギー王室は「国家に尽くした人物」として追悼した一方、政界では慎重な反応が目立った。フランス語系メディアは「裁かれぬまま死んだ」という司法の限界を強調し、オランダ語系メディアは彼を「旧ベルギーの最後の代表者」と評した。
コンゴ系メディアは「ルムンバ暗殺の秘密の一部を持ったまま逝った」と伝えた。欧米メディアでも、欧州統合の功績と並んで、ルムンバ事件の被告だった事実が大きく報じられた。
その死が持つ意味
ダヴィニョン氏の死後、誰が暗殺計画にどこまで関与していたのかという核心部分は、なお解明されないまま残る。
闘争の舞台は「個人を裁く」から「国家の責任を問う」へと移動しつつある。
ルムンバ家の弁護団は、ベルギー国家そのものを相手取る民事訴訟の準備を進める方針を示している。
ドイツに拠点を置く権利擁護団体「欧州憲法人権センター(ECCHR)」のヴォルフガング・カレック事務局長はこう語った。「ダヴィニョン氏の死はベルギーのルムンバ暗殺における法的責任を消し去ることはできない」。
欧州では近年、植民地支配をめぐる法的責任をどう問うかが各国で争点となっている。フランスとアルジェリア、英国とケニア、オランダとインドネシア――旧宗主国はいずれも同じ問題を抱える。
欧州統合を設計したダヴィニョン氏は、植民地支配の清算を問われたまま逝った。




