対テロ戦争の負の遺産 ロンドンから 「拷問は『政策』だった」
オレンジ色の囚人服。鎖につながれ、檻の中で膝をつく男たち。
2002年、キューバ・グアンタナモ収容所から流れた映像は、世界に衝撃を与えた。
あれから20年以上が過ぎた。今月11日と12日、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)で、「対テロ戦争」を問い直す映画上映と国際会議、そしてグアンタナモ収容者による英国初のアート展示が開かれた。約8000キロ離れたグアンタナモの記憶が、ロンドンへ運び込まれた。
グアンタナモとは
それにしても、「グアンタナモ」という地名である。筆者が初めてこの言葉を耳にした時、その響きはなかなか頭になじまなかった。
キューバ南東部にあるアメリカ軍の海軍基地の名前だが、「そもそもなぜキューバに米軍基地があるのか」。そう不思議に思った記憶がある。
この基地は、1898年の米西戦争後にアメリカがキューバから借り受けた土地にある。1959年のキューバ革命後、カストロ政権は返還を求め続けてきたが、米国は現在も基地として使用している。
「法の外」に置かれた場所
グアンタナモが世界的にその名を知られるようになったのは、2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ(9.11テロ)がきっかけだ。
ブッシュ米政権は、対テロ戦争の容疑者を収容する施設をここに設置した。米軍基地でありながら、米本土の外にある。「米国法の適用外に置ける」という論理だった。 9.11後、米政府は「通常時ではない」と繰り返した。「国家が攻撃され、次のテロが起きるかもしれない。だから平時のルールでは国家を守れない」、と。その結果、無期限拘束、秘密収容所、強化尋問、国外移送、ドローンによる標的殺害など、本来なら民主国家では許されないはずの措置が、「例外」として導入されていった。
イラク戦争と反戦デモ
ブッシュ政権は、その流れの中でイラク戦争にも踏み切った。
2003年、国連安保理決議を経ないまま開始されたこの戦争は、世界中で大規模な抗議を呼んだ。英国でも数十万人規模の反戦デモが起きた。筆者もロンドンで、「国際法を無視した武力行使だ」、「違法な戦争に反対する」と書かれたプラカードを掲げる人々の列に加わった。
「対テロ戦争」は終わったのか
しかし年月が過ぎ、「対テロ戦争」という言葉は、次第に人々の記憶から遠ざかっていく。テロの首謀者とされたオサマ・ビンラディンの殺害(2011年)、アフガニスタンからの米軍撤退(2021年)、そして新たな戦争や危機。世界は次々に別のニュースへ移っていった。
だが今年に入り、トランプ政権によるベネズエラのマドゥロ大統領拘束、そして米国とイスラエルによるイラン攻撃と、国際法上の議論を呼ぶ軍事行動が相次いでいる。それでも、「合法なのか」を問う声は、2003年当時ほど大きくない。
振り返れば、「国際法上、違法であっても武力行使できる」ことが既成事実となってしまった。その始まりのひとつが、対テロ戦争だったのだと思わざるを得ない。
ロンドンへ運ばれてきた「記憶」
遠くなってしまった「対テロ戦争」とは何だったのか。イラク戦争への戸惑い、グアンタナモ収容者に対する非人道的な扱いへの怒りや当時の熱狂をもう一度自分の中で呼び起こしたいと思い、LSEの会議と展示に足を運んだ。
展示会場には、24年間、起訴されないまま収容されているアブ・ズバイダによる、オリジナルの作品群があった。はるか遠くキューバ・グアンタナモからロンドンまで運び込まれたものだ。グアンタナモと自分が一気につながる瞬間だった。
アブ・ズバイダとは

アブ・ズバイダの本名はザイン・アル=アービディーン・ムハンマド・フサインである。1971年生まれのパレスチナ人だ。
1991年、20歳でアフガニスタンに渡り、訓練キャンプの運営や戦闘員の手配に関わっていたとされる。しかし彼がオサマ・ビンラディン率いるイスラム武装組織アルカイダの正式メンバーだったかどうかは今も不明確で、米政府自身が2009年の法廷で「彼のアルカイダへの関与は主張しない」と述べている。
2002年3月、パキスタンで拘束された後、タイにあるCIAの秘密収容所へ移送され、「強化尋問技術(Enhanced Interrogation Techniques)」の最初の対象者となった。
強化尋問技術とは、水責め、睡眠剥奪、狭い箱への閉じ込めなど、肉体的・精神的に極限状態へ追い込む手法の総称だ。米政府は「拷問」と呼ばなかった。しかし国連や赤十字国際委員会(ICRC)は、明確に拷問と認定している。
拷問の実態
タイの施設で行われた拷問は、後に米上院情報委員会の報告書やICRCの調査で詳細が明らかになった。
1か月間に83回の水責め。棺桶サイズの箱に11日間以上の監禁。高さわずか60センチ、奥行き76センチの極小の箱に29時間閉じ込められた。72時間以上の睡眠剥奪。強制的な裸状態、殴打、虫を入れた箱への閉じ込め。
CIAが「高価値被収容者(High-Value Detainee)」と分類した人物、つまり重要な情報を持つとみなしたテロ容疑者に対して、最も過酷な尋問が行われた。
ICRCが調査した14人の高価値被収容者の中で、これら12種類の尋問技術すべてを受けたのは、アブ・ズバイダただ一人。その全記録を、CIAはビデオテープに収めていた。しかし後に、すべてを焼却している。
さらに後の調査で明らかになったのは、拷問が始まる前にFBI捜査官のアリ・スーファンがアブ・ズバイダから重要情報を引き出していたという事実だ。拷問は情報収集のためではなく、イラクとアルカイダの関係を「証明」するための圧力として使われた側面が強い。
「合法化」の経緯
さて、このような「拷問」はどのようにして合法とされたのだろうか。
2002年8月、ブッシュ政権の司法省法律顧問ジョン・ユーとジェイ・バイビーは、強化尋問は「拷問には当たらない」とする法的意見書を作成した。後に「拷問メモ」と呼ばれるこの文書が、拷問に法的お墨付きを与えた。
しかし後の調査で、メモが作成される前からすでに拷問は始まっていたことが判明している。拷問が先にあり、法的正当化は後からついてきた。
チェイニー副大統領は「私が承認した」と認めている。ライス大統領補佐官(国家安全保障担当)も承認に関与した。司法長官ジョン・アシュクロフトは会議の場でこう漏らしたとされる。「なぜホワイトハウスでこんな話をしているのか。歴史はこれを良く評価しないだろう」。問題だと理解していたが、止めなかったといえよう。
映画が描いた拷問、関係者の語り口
11日にLSEで上映されたHBOドキュメンタリー映画「The Forever Prisoner」(アレックス・ギブニー監督、2021年)は、アブ・ズバイダ自身が後に弁護士に語った証言と、グアンタナモで描いた自画像的なイラストをもとに、拷問の実態を再現していく。
映画の中で筆者が奇妙に感じたのは、関係者たちの「語り口」だった。
元FBI捜査官のスーファンは、CIAが強化尋問を始めた時の様子をまるで武勇伝でも語るように話していた。声は明るく、表情は穏やかだった。
拷問プログラムの設計者ジェームズ・ミッチェルは、「上司が合法だと言った。大統領も承認した。それ以上、何を考える必要があるのか」と語った。
彼はもともと、米兵が捕虜になった際に拷問に耐えるための訓練プログラム(SERE)の専門家だった。9.11後、CIAは彼を起用し、SEREの訓練技術を「逆用」する形で尋問技術として開発させたのである。
「自分は知らなかった」「上が決めた」「国を守るためだった」。関係者たちの言葉は、責任を少しずつ別の場所へ押し流していく。個々の証言はどれも「部分的な真実」を語っているが、全体として誰も責任を取っていない。
映画の中では拷問が「異常」ではなく「政策」として語られる。その怖さが、全体に漂っていた。
翌12日、同じLSEで国際会議「War on Terror: Legacy, Justice, Art」が開かれた。国際法学者、人権活動家、ジャーナリスト、アーティストが集まり、「対テロ戦争」の遺産と現在を問い直した。(第2回へ続く)




