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小林恭子の英国メディア・ウオッチ ukmedia.exblog.jp

英国や欧州のメディア事情、政治・経済・社会の記事を書いています。新刊「なぜBBCだけが伝えられるのか」(光文社新書)、既刊「英国公文書の世界史 一次資料の宝石箱」(中公新書ラクレ)など。


by polimediauk

対テロ戦争の負の遺産 ロンドンから 「絵だけが、身体を記憶していた」

 今月12日、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)で開催されてきた「対テロ戦争会議」が終わった夕刻、LSEのアトリウム・ギャラリーに人々が集まった。

 白い壁に並んでいたのは、グアンタナモ収容所から届いた数々のイラストだった。描いたのは、アブ・ズバイダ本人だ。

 一枚の絵に、目が止まった。細い線で描かれた人物が、天井から吊るされている。周囲には格子。床には影。言葉は何もない。

 壁に掛けられたイラストのオリジナルはガラスケースに収められている。「本当に、キューバのグアンタナモからはるばるやってきたのだ」と思うと、信じられない気持ちになった。ケースの中には、基地を囲む砂浜から持ってきた砂を固めたものもあった。

 イラストの中心にいるアブ・ズバイダはほとんど裸だが、正面を向いているものには股間に葉っぱが描かれていた。「本当は裸だった」が、見る人のために葉っぱを付け加えたのだという。その時々の情景をアブ・ズバイダ自身が描写した文章も展示されている。


身体に起きたことを、絵は語る

 壁に頭をぶちつけられる。水のホースをかけられる。騒々しい音楽を強制的に聞かせるためにヘッドフォンをつけられる。小さな箱の中に押し込められる。恐怖心を与えるために棺桶に入らせられる。尻の穴から食べ物を挿入される。レイプすると脅される。そして、顔に布をかぶせて水を注ぎ、溺死寸前の感覚を与える「水責め(ウォーターボーディング)」。

 こうした一つ一つの拷問は、会議では「強化尋問技術」という用語で議論された。しかし言葉は、どこかで実態を抽象化する。「合法化された例外」「安全保障上の必要性」――そうした言葉は、身体に起きたことを覆い隠してしまう。

 CIAは一連の拷問をビデオテープに記録していたが、後にすべてを焼却している。何が起きたか。実態を伝えるのは、拷問を受けた本人によるこのアート作品だけだ。

 アブ・ズバイダの弁護士ヘレン・ダフィーはこう語った。「当局者たちが『強化尋問技術』と呼んだものを、彼は芸術という言語に翻訳しているのです。これは証言であり、何が実際に起きたかの歴史的記録です」。


法が届かない場所に、絵がある

 アブ・ズバイダは米当局に拘束されてから24年。釈放を求める法廷での闘いは続いてきたが、実現していない。

 グアンタナモには開設以来、48か国から780人が収容された。その86パーセントは戦場で捕まえたのではなく、懸賞金目当てに米軍に売り渡された人々だった。証拠不十分として釈放された者が大半で、現在残るのは15人だ。

 アブ・ズバイダはその中でも最も不可解な立場に置かれている。

 当初「アルカイダのナンバー3」と呼ばれた彼について、米政府は2009年に法廷で「アルカイダのメンバーだったとは主張しない」と述べた。9.11への関与も否定されている。しかし今も「危険すぎて釈放できない」という理由で拘束が続く。起訴するだけの証拠はないが、釈放もしない。この矛盾した論理が、24年間続いている。

 欧州人権裁判所は2014年にポーランド、2018年にリトアニアに対して条約違反を認定し、それぞれに賠償を命じた。裁判所が認定した違反は、拷問の禁止、人身の自由、公正な裁判を受ける権利など、人権条約の根幹に関わるものだった。

 さらに裁判所は、両国がCIAのプログラムへの「黙認と共謀」によって自国領土内での拷問に責任があると断じた。自ら手を下さなくても、知りながら黙認した国家は共犯である、という判断だ。

 ポーランドには10万ユーロ(約1850万円)の損害賠償と3万ユーロ(約555万円)の訴訟費用が命じられたが、実際に支払われたのは判決から8年後の2022年6月のことだった。リトアニアには13万ユーロ(約2400万円)が命じられ、2021年12月に支払われた。いずれも本人はグアンタナモにいるため受け取れず、近親者のもとへ届いた。

 2023年4月には国連恣意的拘禁作業部会が彼の拘禁を「恣意的拘禁」として非難し、グアンタナモの拘禁制度そのものが「人道に対する罪を構成する可能性がある」と表明した。2025年1月には国連専門家グループが即時釈放と大統領恩赦を求めた。

英国で示談

 そして今年1月、英国政府はアブ・ズバイダの拷問と移送への関与をめぐる民事訴訟で、「相当額」の示談金支払いに応じた。

 弁護士のダフィーはこう述べた。「支払いは重要だが、英国の義務を果たすには明らかに不十分だ。英国はアブ・ズバイダの即時釈放に向けて働きかけるべきだ」と。

 しかし本人は、グアンタナモに収容されたままであるため、その示談金を受け取ることができない状態だ。

 一方、拷問を実際に行った当事国である米国からは、賠償はなされていない。欧州人権裁判所の管轄は欧州諸国に限られ、米国を直接裁く手段がない。米国内での訴訟はすべて「国家機密」を理由に退けられてきた。

 ダフィー自身が、人権法の弁護士として「法の限界」を最もよく感じているのかもしれない。裁判も、国際法も、グアンタナモを終わらせられなかった。だからこそ、この展示がある。法廷ではなく、大学のギャラリーという場所で、記憶を可視化する必要があった。「私は彼がもう二度と、この世界へ――このような対話へ――戻ることができないのではないかと恐れています」。


絵は覚えている

 小さな箱の中で何が起きたのかを、最後まで身体の記憶として記録していたのは、アブ・ズバイダの絵だった。法でも言葉でもなく、絵だけが、あの時間がまだ終わっていないことを語り続けている。

 展示は5月11日から6月5日まで、LSEアトリウム・ギャラリーで開かれている。

 グアンタナモ収容者本人によるオリジナル作品を実際に目にできる、極めて稀な機会だ。

 「本当は、収容者との会話の内容を公にはできませんが」。 弁護士のヘレン・ダフィーは、会場でそう語った。「アブ・ズバイダは、自分の作品が公開されることを強く望んでいました。皆さんに見てもらえることを、とても楽しみにしていました」。


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 会場の様子をカメラに収めた。拷問の状況を描いた作品が含まれるため、閲覧にはご注意ください。


展示会のパンフレット。檻の中にいるのは、アブ・ズバイダの自画像(撮影筆者)
展示会のパンフレット。檻の中にいるのは、アブ・ズバイダの自画像(撮影筆者)

グアンタナモから弁護士が持ってきたという砂(撮影筆者)
グアンタナモから弁護士が持ってきたという砂(撮影筆者)

アブ・ズバイダが描いたイラスト。騒音を聞かせる拷問があったことを伝えている(撮影筆者)。
アブ・ズバイダが描いたイラスト。騒音を聞かせる拷問があったことを伝えている(撮影筆者)。


by polimediauk | 2026-05-26 17:21 | 英国事情