「プリンセス・マサコ」、日本語で出版中止
もう大分報道されているとは思うが、ベリタでも今、無料記事で、「プリンセス・マサコ」の日本語版翻訳本の出版中止記事が出ている。
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200702171324256
講談社の方からは、「信頼関係がくずれた」ということで出版中止を決めたと言うくだりがある。
作者の方は、「これは日本政府のいじめ」と言っている。
週末考えていたのだが、出版されたらされたで、読んで苦しむ人は多いだろうし、「そっとしておきたい」「見ないでいたい」「畏れ多い」「大切にしたい」と考える人、あるいはもっと強い感情を持つ人(それにおそらく雅子妃ご自身も??)などにとって、大きな衝撃になろうことは想像できる。また、「報道の自由」「表現の自由」が何よりも大事とは、私自身考えない。
それでも、やはり、国民の知る権利というか、日本国民の中で知りたい人もいるだろうし、それを否定する形になったのは非常に残念だ。特に、外国語(英語)で既に出版され、世界中で興味のある人が読んでいる状態の中で、日本にいる人だけが蚊帳の外状態にあること、そんな状態にさせておく権利は、日本政府にはないのではないか。
雅子妃のこと、皇室のことが気にかかるからこそ読みたいという人も多いはずだ。
ある本が出版されたとして、もし私がその本を読みたくないと思ったら、私は読まない。でも、読みたくない私には他の人に「読むな」という権利はないのだと思う。他人の読む権利を取り去る権利はない。
今回、日本政府と出版社が、(日本語で)読む権利・機会を国民から(=読み手から)取り去ってしまった。読み手(私かもしれないし、友人・知人もしれない)が何を読むかを、政府に決められたくはないものだ。他者に決められたくはない。まるで読み手(=私)に何を読むべきか、読んだことをどう咀嚼するかの判断能力がないとして扱われたようにも感じる。
ナイーブかもしれないが、これは本当にまずいと思う。あまりにもアナクロな展開だが、これが現実なのだろうか?
「妖怪さん」のおっしゃられるように、日本の皇室と欧州の王室は本当には比較できないのだろうと思う。それでも、様々な議論、本、説、話が出れば出るほど(議論は健全なものであると想定して)、免疫がついていくるというか、少々批判されようと過剰反応しないようになるのではないかと思う。(楽観的+欧州的考えかもしれないが・・・。)
もう1つ気になっていて答えが出ないのが、日本国民が(私を含め)、日本の中で、どれほど「タッチできない(批判しない)聖域」を維持したいと考えるのか、だ。日本にはたくさん聖域がある。これ自体は悪いことではない。むしろ、貴重と言うか文化が深いようにも感じる。聖域は聖域のままでそっとしておくのか、それとも・・・・?
それでも、どうも今回は、日本政府側が勝手に「これは聖域。国民の皆さん、見ちゃいけませんよ」と言われた感じで、後味が悪い。