小林恭子の英国メディア・ウオッチ ukmedia.exblog.jp

英国や欧州のメディア事情、政治・経済・社会の記事を書いています。新刊「英国公文書の世界史 一次資料の宝石箱」(中公新書ラクレ)には面白エピソードが一杯です。本のフェイスブック・ページは:https://www.facebook.com/eikokukobunsho/ 


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自治政府がもう直ぐ再開する北アイルランド (2)


 やはり、ルーシーさん事件が一面に出ていたデイリーテレグラフ。「ルーシーに正義なし」という見出しで大きな写真が出ている。中は9面で、父親の会見の話で「これは正義ではない、と父語る」という見出しの記事、織原被告のプロフィール(イラストつき)、東京のナイトクラブの話、別面では女性コラムニストが、ルーシーさんの父親が45万ポンド(約一億円)の「お悔やみ金」を織原被告側から受領したことを非難する記事が。
 
 ルーシーさんの両親はこの事件のこともあって、離婚している。父親は何度も日本に出かけ、その過程でお金をもらったようだ。これが批判されている。元奥さんもこの点を批判している。家族がばらばらになってしまったのだ。

―イングランドのアイルランド支配

 北アイルランド問題の元をたぐると、イングランドのアイルランド侵攻にさかのぼる。

 南北のアイルランド人たちがよく使い、イングランドに住む人が「またか」という顔をするのが、「イングランド(英国)がアイルランドを800年間植民地支配してきた」という表現だ。イングランド人側から見れば、「全くアイルランド人は昔のことを良く覚えている。そんな昔のことを今言っても始まらないだろう」という思いがあるのだろう。

 しかし、どこの国の歴史を見ても、あるいはどのような社会でも、支配された、抑圧されたあるいは虐げられた側の方はその経験を長い間忘れないでいるものだ。

 「800年」というのは、12世紀のイングランド王ヘンリー2世が、ノルマン人に支配されていたアイルランドに侵攻した時から数えた場合だが、イングランドがアイルランドでの実権を本格的に持ち出したのは ヘンリー8世が1541年にアイルランド王も兼務した時からだったと言われる。ヘンリー8世はアイルランド的なものを許容せず、イングランドのやり方への同化を強要した。

 当時のイングランドは世界の植民地支配をめぐってカトリック教国スペインと争っていた。イングランドは英国教会を体制としており、スペインがカトリック教徒の多いアイルランドを足がかりにしてイングランドを侵略するのではないかと恐れた。

 波多野裕造氏の『物語アイルランドの歴史』によると、アイルランド、スコットランド、マン島のケルト系住民(ゲール人)の族長らに対しては、イングランド王への忠誠を誓うものには領地保持を許可し、師弟をイングランドに留学させることでイングランド化を進めたという。氏によれば、この結果、「アイルランドが次第にそのケルト民族的特質を薄め、やがて言語(ゲール語)すら失ってしまう結果になったことは否定できない」。

 イングランド王は反抗するものからは土地を没収し、イングランドやスコットランドからプロテスタント移民の植民を奨励した。波多野氏は、「アイルランドの国内の少数派であるプロテスタントと絶対多数のカトリック教徒の対立、相克」の深まりを指摘しているが、まさに現在の北アイルランドの状況が既にこの頃から出来上がっていった。

 17世紀、オリバー・クロムウエルが指導者の立場に着くと、徹底したカトリック教徒弾圧策を実行。1697年から1727年の刑罰法ではカトリック教徒に対し土地所有の制限、公職就任の禁止、選挙権の没収などが実行された。

 1801年、アイルランドは連合法の下、大英帝国の一部となったが、19世紀を通じてアイルランド自治への動きは止むことはなく、アイルランド島全体ではアイルランド民族主義者(ナショナリスト)と英国への帰属を望む人々(ユニオニスト)との対立が激化してゆく。

 流れを変えたのはいわゆる「イースター蜂起」(1916年)で、武装男女約千人がダブリン中心地を占拠し、アイルランド共和国の設立を宣言した。この蜂起は英軍によって鎮圧され、間もなくして反乱指導者らが処刑された。これが反イングランド感情とナショナリスト運動への同情を一気に高めたと言われている。

 1919年から21年までのアイルランド独立戦争の後、21年末、英国・アイルランド条約が交わされ、英連邦の中の自治領としてアイルランド自由国が建国された。一方プロテスタント系住民が多く住む北部アルスター地方の6州は北アイルランドとして英国の直接統治に入ることになった。38年、南のアイルランドは新憲法の下で共和国として主権国家となり、現在に至っている。

―不信感の歴史
 
 在ベルファーストのジャーナリスト、デビッド・マッキトリック氏と歴史家デビッド・マックビー氏が書いた『メーキング・センス・オブ・ザ・トラブルズ』によれば、プロテスタント系住民が過半数の北部6州が北アイルランドになったことは、この地域に安定を必ずしももたらさなかったという。

 プロテスタント系知識層は英政府がいつかは北部を南部と一緒にする政策を打ち出すのではと恐れ、北アイルランド内ではカトリック系住民が南部と協力して自分たちに攻撃をかけるのではないかと懸念。カトリック系が人口比率の中で増えて行き、中産階級になってゆくと、貧しいプロテスタント系住民からは嫉妬や疎外感も出るようになった。

 一方のカトリック系にしてみれば、新たな枠組みの中でアイルランド人としてのアイデンティティーが否定され、圧倒的にカトリック教徒が多い南部から切り離されたことで、政治的に無力感を感じるようになる。さらに、1920年代以降の約50年間、プロテスタント系が政治、行政上の支配権をほぼ独占する中で、自分たちが雇用、住宅、政治上の権利などで差別されていると感じたが、実際この懸念は現実に裏打ちされたものだった。

 1969年を機に、米国の市民運動に触発されたせいもあって、政治、雇用、住宅面で差別を受けていたカトリック住民による大規模なデモ、アイルランド共和国軍(IRA)などの民兵組織による「テロ」、これに対抗するプロテスタント系住民による攻撃や民兵組織による「報復テロ」が目立つようになった。

 住民たちの暴力の目に余る過激さに、当時の北アイルランド政府(プロテスタント系政党が独占)は、英政府に軍隊の導入を要請。カトッリク系民兵組織や過激住民らは、昔から続いた独立戦争の一環として、英軍を占領軍と見なし、英政府支配を支持する王立アイルランド警察(現在の北アイルランド警察)やプロテスタント系住民への攻撃を続けた。これに対抗してプロテスタント系民兵組織、アルスター義勇軍やアルスター防衛協会も同様に攻撃を繰り返す。こうして、69年以降の「トラブル」と呼ばれた約30年間の暴力行為の結果、約3600人が命を落としたと言われている。

 様々な政治的紆余曲折の後、98年の和平合意が成立し、北アイルランド史上初めてカトリック系とプロテスタント系政党による連立政権が成立した。

 宗派の違いによる互いへの憎しみや不信感は消えたわけではない。

 IRAやプロテスタント系自警団・民兵組織の暴力行為は望んだようには収まらず、何度か「停戦」宣言が出てはこれを取り消す、という流れがあった。
また、先述のように連立政権はIRAのスパイ事件(現在真相は未だに不明)をきっかけに、「信頼感を失った」とするプロテスタント系政党が連立政権から離脱する動きを見せ、現在も自治政府は機能停止状態だ。

 地元の新聞を開けば、カトリック系住民がプロテスタント系住民の恨みをかった、あるいはその逆のケースなどで傷害あるいは殺人事件が起きるのは珍しくない。

 駐留英軍に対する地元民の反英感情も未だに根強い。2004年、北アイルランドに派遣されたスティーブ・マックグリン歩兵は、他の兵士数人とパトロール中、全く何の威嚇行為もしていなかったが、どこからともなく集まったカトリック系住民の一群に追いかけられ、命からがら逃げ出したことを自著『スクワディー』(「新兵」の意味)に書いている。(つづく)

by polimediauk | 2007-04-25 19:41 | 政治とメディア