ブレア政権のメディア操作(上)
6月末に終わったブレア政権といえば、英国では「スピン」という言葉が浮かぶ。政権のメディア戦略の詳細を、「新聞研究」7月号にまとめた。これに加筆したものを上中下に分けて出したい。
(下)の後ろに参考資料となった書籍やウエブサイトなどの一部を出した。直接引用していないが他にも参考にしたのは、ニコラス・ジョーンズ氏の数々のメディア分析の本や、BBC、新聞業界に関する雑誌や書籍など。小耳に挟んだ話、実際に聞いた話もある。資料となったインタビューもおりを見て、出していきたい。
特に読んでおもしろいと思ったのは、マーケティング調査のアイデアを使って集団インタビューを行なっている、フィリップ・グールド氏が書いた、「Unfinished Revolution」(未完の革命)や、元BBCの社長だったグレッグ・ダイク氏の本だ。後者は和訳本が出ている。グールド氏の本は、特に会社でいやなことがあったとか、人生に失望している時に読むと、結構元気が出る。何度も失意のどん底になりながら(総選挙に負けながら)も、がんばる姿が描かれている。和訳がないようだが(?)、もったいないと思っている。ニューレーバーがどうやって出来上がっていったのかが、よく分かるのだが。
「ニュー・レーバー」や、ブレア氏の「サードウエー」に関し、果たして一時思われていたほどに特徴のあるものだったかどうか?――この点を吟味する論調が英国にある。人によってはレトリック(だけ)だった、選挙に勝つためにそう言っていた(原稿中のランス・プライス氏他)とする見方もある。(このブログの「ブレア政権とメディア」のスコット氏、カトワラ氏、ドネリー氏のインタビューなど参考。)
ーーーーー
情報操作が政権の汚名に
―英ブレア政権の終焉と政治不信の高まり (上)
6月末で10年間に渡るブレア英政権が終わりを告げた。
「ニュー・レーバー」(新しい労働党)を提唱した、弱冠43歳のトニー・ブレア氏率いる新政権の誕生は、不祥事が相次ぐ保守党政権に嫌気が差していた国民に、希望に満ちた新しい時代の幕開けと受け止められた。
野党時代の労働党は、党に好意的な報道が出るようメディア戦略に力を入れ、何とか政権奪回を実現しようと苦心した。努力は実を結び政権が発足。ニュー・レーバーの洗練されたメディア戦略を当初報道機関は賞賛し、夢中になったが、伝えようとするメッセージと実体のかい離が次第に明らかになると、政府を攻撃する側に回った。
欧州連合(EU)の中でモデルと見なされるほどの好景気の維持、最低賃金制度の導入などの福祉策、同性同士の事実上の結婚を認めるシビル・パートナーシップ制度の導入、北アイルランドでの和平達成など、数々の業績を残したが、10年後の現在、ブレア政権と言えば「スピン」(情報操作)が人々の頭にすぐに思い浮かぶようになった。
2003年のイラク戦争に関わる情報操作疑惑で、政府がイラクの脅威を誇張していたことが発覚すると、国民の政権への信頼は大きく損なわれ、2度と回復することはなかった。
ブレア政権のメディア戦略の文脈を、政権取得前と後、イラク戦争を巡る政治とメディアの攻防を中心に振り返る。
―叩かれ続けた野党労働党
ニュー・レーバーのメディア重視の背景には、1979年以降野党に転落した労働党を常に否定的な観点から報道するメディアの存在があった。
ブレア氏が90年代半ば労働党新党首に選出される直前の状況を見ると、総選挙があった92年、英新聞の中で労働党支持は、大衆紙ではデーリー・ミラー紙のみだった。
英国で最大の発行部数(約370万部)を持ち、選挙の行方に最も影響力を持つと言われるサン紙をはじめ、ほとんどの大衆紙は保守党支持。高級紙(5紙全体で発行部数は約240万部)ではトップのデーリー・テレグラフ紙とタイムズ紙が保守党、ガーディアン紙が労働党と第2野党自由民主党を同時支持。インディペンデント紙とフィナンシャル・タイムズ紙は支持政党なし。全体像を見ると、保守党支持が圧倒的だった。
英国の地上波の放送局は公正なニュース報道をする義務が課せられているが、新聞・出版業界は同様の規制がなく、英新聞各紙は独自の政治見解、支持政党を持つ。時流によって支持政党を変更することもある。好意的な記事を書いてもらえる新聞を増やせば、選挙時の強い味方にもなる。
さて、92年の総選挙の間際、労働党に対し批判的な新聞は多かったものの、与党・保守党政権への支持率低下やニール・キノック労働党党首による近代化・イメージ刷新運動がようやく効果を表し、様々な世論調査が労働党の勝利を予想していた。長年の在野から労働党が抜け出すのではないか?そんな明るい希望が見えてきたところだった。
ところが、サン紙は労働党や特にキノック氏自身への攻撃を展開し、これが命取りになった。
選挙前日の紙面には、9頁の特集を組み、労働党政権になったらどんな怖いことが起きるかを画像を使って説明。特集号の表紙には「キノック通りの悪夢」(著名ホラー映画の題名をもじったもの)という見出しをつけた。選挙は保守党の勝利となり、サン紙は「勝ったのは(保守党ではなく)サンだ」とする見出しを載せた。
(新聞の政党支持と総選挙への影響の大小に関しては英メディア学者の間でも諸説があることを付け加えておきたい。5年後の1997年当時、新聞各紙はおおむね労働党支持になっていた。これが労働党勝利に一定の影響があったとする見方と、大衆紙は国民のムードを敏感に察知、反映する場合が多く、世論が既に労働党支持に傾きつつあったのでこれを新聞が追ったという見方がある。)
94年、キノック氏の後を継いだジョン・スミス党首が急死し、ブレア氏が新党首に選出された。
90年代の英国は前回労働党政権があった70年代と比較すると、大きな変貌を遂げていた。サービス業に従事する人口はかつての六0%弱から80%強に伸び、労働組合員の数も1200万人から700万人に減少していた。労働党は「労働組合、スト、絶対非武装、インフレ」を人々に連想させ、政権をまかせられない政党と見なされていた。
97年から01年まで労働党のメディア戦略を担当したランス・プライス氏によると、野党時代のメディアの敵対的な報道は労働党指導部の記憶に深く刻み込まれていた。「歴代の党首がメディアに不当に扱われ、敗退してゆく様子を見たブレア氏は、自分は決してこうはならないと深く心に決めた」と言う。
政権奪回には「労働党を全く新しく作りかえる」ことが必須と確信したブレア氏は、労働組合の影響を大幅に減少した「ニュー・レーバー」という呼称を使い、旧来の左派・右派の境界に捕らわれず、これまで労働党が軽視してきた中流階級層の取り込みを狙った。自由主義経済と福祉政策の両立を目指す「サード・ウエー」(第三の道)も広く提唱した。
―スピンドクター
新しい労働党のイメージ作りは少人数の改革派たちが主導し、その顔ぶれはブレア氏を筆頭に、後に財務相(そして首相)となるゴードン・ブラウン氏、元テレビのプロデューサーで当時労働党の選挙戦略を統括していたピーター・マンデルソン氏、政治コンサルタントのフィリップ・グールド氏、ミラー紙の元政治記者アレステア・キャンベル氏だった。
グールド氏は92年の米大統領選を見学(グールド氏の「未完の革命」という自著によると、何度も労働党が総選挙で退廃し、失意の底にあった氏に、後に大統領となるクリントン氏の選挙チームが、「失敗から学びたい」と招聘したという)。この時学んだ数々の戦術を基にニューレーバーの「ニュースの議題を政党側が設定」、「不都合なニュースが出た場合、直ぐかつ徹底的に反撃」、「情報提供の徹底的な中央集権化」などの方法が採用された。
ニュースの議題設定とは、毎日、ニュース性のあるトピックをメディアに対し政党側から提供し、報道内容の主導権を握ることを狙う手法。会見を開く、あるいは政治議論の開始になるような時事番組のインタビューに出る、新聞の論説面に原稿を出す、「その筋の話」として特定のジャーナリストに情報を流すなど。ある情報をできうる限り大きく、労働党に都合の良い形で掲載してもらうことを目指す。言わばプロパガンダなのだが、「労働党に好意的なニュース報道がない」という前提の下、「自分たちでニュースを作った」とも言える。
また、情報提供の中央集権化により、いつ誰が何をどのように発表するのかを細かく設定した。常に一定の決められたラインがあり、これを順守することを鉄則とした。労働党に統一感がない印象を与えたり、古い労働党の体質が出るような発言が出ることを防ぐためだった。
グールド氏は、「フォーカス・グループ」を頻繁に使って対労働党観を探り出し、その結果を労働党にフィードバックした。これはマーケティング調査に使われる方法で、8人ほどを同じ部屋に集め、様々なトピックに関し、グループ対話形式で話してもらう。参加者は支持政党、投票行動、年齢、職業別に集められることもあれば、混在させることもあった。選挙民の直接の声が聞ける機会として重要視された。
97年5月、労働党は179議席を獲得し、総選挙に大勝利。35年以来の大きな議席数で、前回92年の総選挙と比較すると、保守党に投票した180万人が労働党に支持を移していた。勝因はニュー・レーバーのアピールに加え、保守党政権に対する批判票が投じられたと言われた。
投票直前になってサン紙は労働党への支持を宣言し、高級紙では以前は支持を明確にさせていなかったインディペンデント紙とフィナンシャル・タイムズ紙も労働党支持に回った。92年当時とは異なり、全体的に労働党支持が圧倒的となっていた。
サン紙、タイムズ紙はオーストラリアのメディア王、ルパート・マードック氏が所有し、衛星放送のテレビ局スカイもマードック傘下にある。ブレア氏は現在までにマードック氏との緊密な関係の維持に力を入れてきた。メディアの独立性の面からこうした関係を批判する声は大きい。
労働党は与党になっても野党時代のメディア戦略を続行。その日の最も大きな政治ニュースとなるべきトピックの提供、好ましい文脈で報道されるような仕掛け、一定のラインをメディア戦略部が統括し逸脱を防止する、時には「事実無根の情報も提供」(BBCの政治記者、アンドリュー・マー氏)などの他に、政府に批判的な報道を行ったメディアや記者を仲間はずれにするなどのいじめもあった。
お気に入りの記者のグループは「白い英連邦」とも呼ばれ、この少数グループの中に入れば、キャンベル氏(97年から01年まで官邸広報官、03年まで官邸コミュニケーション戦略局長)から直接ネタを提供された。政治メディアの中で、マンデルソン氏やキャンベル氏のお気に入りとなり、スクープ・ネタをもらうことを最高とする風潮も出た。(つづく)