風刺画事件 揺れるデンマーク 6
欧州に住むイスラム教徒を話題にするとき、政治目的を果たそうとするイスラム教徒、あるいはいわゆる過激派とされるイスラム教徒の声ばかりが聞こえてくるような気がする。メディアを見る限りは、だが。
そこで、今度は「穏健派」・あるい「普通の」イスラム教徒は何を考えているのか?という疑問が出る。
声高に何かを主張するのではなく、目立つでもなくひっこむわけでもなく生きている人の声は、なかなか外には出にくい。
この点について、思いを語ってくれた人がいた。
デンマークの首都コペンハーゲンから快速電車で3時間ほどかかる、オーフスというところで話を聞いた。(ベリタ2006年4月8日掲載)
「穏健派の声は封じ込められた」
デンマーク紙が掲載したイスラム教の預言者ムハンマドの風刺画がきっかけとなって、イスラム教徒による抗議デモやデンマーク国旗への放火、大使館への襲撃、デンマーク製品の不買運動などが世界中に広がったのは、2006年2月だった。
死者も出るほどだったが、4月にはいると、事態はひとまず終息を迎えた。デンマーク国内に住む20万人と言われるイスラム教徒の国民は、一連の事件を通して、欧州に住むイスラム教徒としてのアイデンティティーに思いを巡られたようだ。
デンマーク西部にあるオーフス大学で英文学を教え、小説「バスが停まった」(仮訳。原題はThe Bus Stopped)の作家でもある、自称「穏健派ムスリム」のタビシ・ケアー氏は、自分たちの声を代弁する人が、デンマーク国内で誰もいないことに強い不満感を感じた、という。「穏健派の声は封じ込められた」と題するコラムを英ガーディアン紙やデンマークの新聞に寄稿したケアー氏に、思いを語ってもらった。
▽異文化を子ども扱いするデンマーク
――風刺画を見てどう思ったか?
タビシ・ケアー氏:残酷だな、と思った。風刺画を掲載したユランズ・ポステン紙は、何故もっと優れた風刺画家を使わないのだろう、と思った。例えば、ターバンを巻いたムハンマドと思われる人物の風刺画で、ターバンの先に爆弾がついていた。最も冒涜的と言われている風刺画だが、このターバンはインド式のターバンであって、アラブ式のターバンではない。理解が不十分なままに風刺画を出した点で、デンマークが異文化を持つ相手を小さな子供として扱う、いつものやり方が出ていると思った。
――どういう意味か?
ケアー氏:つまり、デンマーク側が「何でも知っている」、ということで、自分とは違うグループに属する相手の意見を全く聞かずに、自分たちだけで議論のトーンを設定していく、という意味だ。相手を、自分で考え、決定できる存在とは見ない、ということだ。
別の例としては、昨年末、風刺画に関して、主にアラブ諸国の大使らが首相との会談を要求したとき、首相はこれを拒否した。デンマーク以外の国では、首脳は大使らと会談の機会を持ち、その後で、「国内法の制約から、独立メディアに圧力をかけることはできない」、として遺憾の念を表明し、ひとまず事態を収拾しただろう。しかし、相手側にも何らかの考えがあって会談を求めた、とは考えないデンマーク政府側は会談を拒否してしまった。実質的に、デンマーク国内、アラブ諸国、及び世界の様々な国の穏健派ムスリムたちの声に耳を傾ける機会が失われた。
風刺画に抗議するために中東諸国を訪れた一部のイスラム教指導者たちの行為に、大部分のデンマークに住むムスリムたちは共感を持てなかった。国旗を焼くなどの暴力行為にも同意はできず、誰も私たちの声を代弁することができないままだった。穏健派ムスリムたちの声は封じ込められた、と思った。
――風刺画事件が国内で議論を起こす良いきっかけになった、と見る人もいるが。
ケアー氏:知識人のレベルでは、様々な議論がでてきているが、一般の感覚では、まだまだ感情的な意見が強い。落ち着くまでには時間がかかると思う。私の知人の中では、不必要な挑発行為だったと見る人もいる。
――何が背景にあるのか?
ケアー氏:国内の政治状況を見ると、反移民感情が強い。ターゲットになっているのは、イスラム教徒だ。一般的に、移民に対して、「もしここに住みたのなら、文句を言うな」という圧力がある。もちろんホスト国のルールを守るのは基本的なことだ。しかし、だからといって、自分の意見を変える必要はないはずなのだが。法律を遵守する範囲で、それぞれ異なる意見を持つ権利があると思うのだが。
表現の自由とは一体何なのか?まず個人とは何か、を考えてみると、個人は1人だけで存在しているのではなく、社会の中で生きている。社会の中の個人は、他の個人との関係性の中で生きている。何でも制限なく表現していいとはならないだろう。
▽穏健派、非穏健派双方との対話を
――欧州に住むイスラム教徒の国民とホスト国の欧州の間で、「文明の衝突」が起きている、という見方もあるが?
ケアー氏:そういう言葉を使うことで、対立状況が作られているように思う。自分の敵を作ることで、自分の立場を政治的に確固としたものにしたい、という人々が、互いにそうしているのではないか。
――「穏健派ムスリム」として、できることは?
ケアー氏:ホスト国側と、穏健派ではない同胞のイスラム教徒側との両方との対話の機会を持つことだ。片方だけに話すと、もう片方から敵だと思われる可能性もある。両方と話すことで、両方から敵だと思われる可能性もあるだろうが。お互いに敬意を持って相手に接し、過激行動に走らずに物事を解決するためには、両方の側と対話のチャンネルを持つことが大切だ。
――イスラム教は西欧型民主主義とは合致しない、という見方をどう思うか?
ケアー氏:まず、私はイスラム教の教義の専門家ではなく、普通のイスラム教徒としての意見だということを了解していただきたい。
民主主義と合致する、しない、という点は、イスラム教の教義のどの部分に焦点をあてるか、によると思う。どの宗教も、聖なる存在をトップに置くとしたら、民主主義とは合致しない部分が出てくる。キリスト教にしろ、ユダヤ教にしろ、神が物事を決定してゆくとすれば、民主主義とは相容れない。
イスラム教は、一概に民主主義的か反民主主義的かで割り切れないと思う。他の全ての宗教がそうであるように、非常に複雑だ。
――イスラム教は、女性を男性より一段低く扱っている、とする批判があるが?
ケアー氏:この点は、確かに問題だ。しかし、熱心なイスラム教徒でフェミニストの人もいる。また一方では、女性たちはある種の特別な衣類を身にまとうべきだ、と信じているイスラム教徒もいる。
穏健派のムスリムたちが、女性の地位などを、人権の立場からどうやって変えていくのかを、他のムスリムたちと議論していくべきだ。人類の半分を占める女性たちに同等の権利を認めない、ということがあってはならない。
――イスラム教が生活の中心にあって、イスラム教の法律を厳格に実行した社会を望む人々は、キリスト教がベースになっている西欧ではなく、イスラム教の国家で暮らしたほうがいいのでは、という意見があるが。
ケアー氏:私も全くそう思う。もし非イスラム教国で暮らすことでその人が不幸せになるのなら、イスラム教国で暮らしたほうがいい。
――ご自身は、イスラム教徒であって、デンマークで暮らすということに、不都合を感じているか?
ケアー氏:全く感じていない。多くのデンマークに住むイスラム教徒たちも同様だと思う。デンマークの政治などに不満を持っているが、ここに住むことを望んでいる。時々、もしデンマークの政策に同意しないなら、自分の国に帰れ、という人がいるが、間違っていると思う。デンマークで起きていることに関して、同意しないことがあったら、議論をすればいい。
非常に宗教熱心な人は不満感が強いかもしれない。しかし、穏健派ムスリムたちがこうした人々に話しかけることで、不満感をポジティブな感情に変えるようにすることが重要だ。
今回、穏健派ムスリムは、一部のイスラム教徒の暴力行為に対して、「自分はイスラム教徒ではない」といってしまいたいような状況にあった。また、これまで、「イスラム教原理主義は自分とは関係ない。自分は宗教的熱心というわけではない」、「わざわざ自分がムスリムである、と表明もしたくない」という態度をとってきた。しかし、これでは、問題は解決しない。ムスリムであることを明確にして、議論に加わっていかなければならないと思う。(つづく) (第1部の6回目)