欧州特派員の視点 (1)朝日新聞
6月、ロンドンにある大和日英基金のイベントで、日英の政治報道に関するセミナーがあった。これについては前に書いたが、この時パネリストとして参加したのが、朝日新聞ヨーロッパ総局長(当時)の木村伊量(ただかず)氏だった。政治部記者として首相官邸、自民党、外務省などを担当。ワシントン特派員としてホワイトハウス、国務省、大統領選挙を担当。論説委員、政治部長、編集局長を経て、ロンドン赴任に。日米英の政治報道に携わった木村氏の目に、英メディアはどう映るのだろう?
木村氏は新任務就任のため、7月中旬、日本に帰国。帰国前のある日(テロ未遂事件の日と重なった)、ロンドンで話を聞いた。
―日本、米国の政治報道と比較して、英政治報道はどのように見えるか?
木村氏:今はずいぶん変わってきているが、日本のメディアは政界の人事に重きを置く。英国の場合は、「HOW」というか、どのように、この政策が組み立てられているかという背景などにたっぷりと時間をとって取材している感じがする。
英国では、これからどういう中東政策をやっていこうとするのか、これからどういう風にニューレーバーが変わろうとするのかという、すごく深みのある論評記事が多いと思う。
もう1つ感じるのは、日本の新聞以上に視角がはっきりしている、インディペンデントにはインディペンデントのアングル、味付け、ガーディアンにはガーディアンのアングル、味付けがある。一番リベラルなインディペンデント、それよりともうちょっと真ん中のガーディアンとか、タイムズとか、それからデーリー・ミラーとか、右から左までが、(各紙を)見ていれば大体分かる。しかもそれが、自分たちのバイアスで見ているのではなくて、わりと扱うニュースは中立というか公正の感じを持っている。
日本も読売や朝日で、例えば戦争責任問題だとか、靖国問題などは明確に立場がはっきりしている。しかし国内政策、例えば福祉や年金の問題に各社の立場が全部はっきりしているかというと、必ずしもそうではない。
(英メディアは)ガーディアンが年金の記事を書いている時は、この前の時とずっと系統が同じようなエディトリアル・ラインで書いているのが分かって、勉強になる。それがずいぶん違うと思う。
―米国のメディアと比べても英メディアは違うと感じるか?
最近は、テレビ全体のムードがアンチ・リベラルで、リベラルの代表のようなニューヨーク・タイムズが標的にされている。一かゼロか、と。お前はプロ・ブッシュなのか、アンチ・ブッシュなのか、と。あまりにもそこのところが分かれすぎている印象を持っている。
もちろん、英メディアもブレアのイラク政策に関しては分かれているが、ブレア(元首相が)政治メディア批判を(6月中旬)やった時のメディア側の論調は、みんなおかしいじゃないか、と。スピンをやったのはなんだったんだと、メディア全部がブレアの批判の仕方に反論した。ここのメディアはアメリカに比べると機能していると思う。
日本の新聞のように若い人の新聞離れ、フリーペーパーやインターネットなど、いろいろなことで危機にさらされているが、新聞が社会の中で不可欠なものだとして認知されているのがイギリスの強いところだ。フリーペーパーでもとにかく、見ている。読んでいる。
―確かに、何かしら読んでいる。
必ず読んでいる。シティーの人はFTを必ず読んでいるし、知識人と言われている人はガーディアンを読んだり、インディペンデントを読んだり。それぞれが、自分たちの好みの新聞が何かということが、今でもきちっとまだある。また、新聞を大事にしようというカルチャーがあるな、と。アメリカはそこまでないのではないか。かなり違ってきていると私は感じている。
―日本の新聞の政治報道はどんな感じか?
今はずいぶん変わってきている。政治家のマウスピースになっているということがよく批判されていて、政治家ととりわけ政治記者との距離の置き方の問題もよく言われた。田中金脈問題の時も、政治記者がネタをずっと知っていたのに、これは文芸春秋の立花隆が書くまでは書かなかったじゃないか、と。海外からの批判にさらされることになった。
政界記者は、派閥の中での動きを、自民党と社会党を中心とした55年体制の下で、彼らが何を考えどう動くかを、きちっと情報を取ってくるのが優秀な記者だ、と言われた。今でもその良さはもちろんあるわけだが、きちっと記者会見で聞くべきことを聞くき、政策に比重を置いた(報道を)するべきだ。政治の側も変わってきて、かつてのように近づきがたい政治家がいることが大物のあかし、ということがもう許されないような気がする。
もう1つはマニフェスト選挙。イギリスをお手本としながら、政策でそれぞれ政党が選挙で争っていこう、という思考が政治の側から出てきている。
有権者の側も長いスパンで日本の政治を考えてくれる人に投票しようということが、少なくともかつてに比べれば出てきている。それにつれて、新聞記者やテレビ記者の報道の仕方も変わってくる。
ただし、もう1つ動きとして出てきているのが、テレビが中心となった、ポピュリズムの文化。テレビが日本の政治を決めていく風潮が強くなっている。小泉政治はテレビがなかったら成り立たなかった。一かゼロか、と。郵政の民営化に賛成か、反対か。賛成な奴は改革派だけど、反対の奴はみんな守旧派だ、というレッテルを貼る。しかし政治や世の中は、デジタルな社会でなくてアナログ的なところがある。アナログなところをきちっとつめていって、アカウンタブルな社会にしていこう、というのが基本だと思う。
言論性や民主主義の基本は、お互いが納得していくまで議論つくすことが基本だ。それが国会でもないがしろにされ、とにかく小泉改革にぐちゃぐちゃいう奴は、改革派に値しないし、こんなのはだめだ!となると、それがだーっと流れて、それが一昨年の秋の選挙になった。
おもしろおかしくワイドショー的なテレビのあり方が政治を規定してしまう。かつての(政治家と政治記者との)癒着という問題もあるが、もう少し大きな要素として、テレビ政治、ワイドショー政治に国民の側がどっぷりとつかっている問題もある。
とにかく「郵政民営化に賛成か反対か」だけ、それ一色に染められてしまう。これは日本の民主主義にとっても良くないし、また一昨年の選挙は日本の政治メディアの微力さ、弱さを痛感させられた選挙でもあった。
どうやって、言論空間をもう一度再構成してゆくか?という大きな挑戦を私たちは突きつけられている。(つづく)