小林恭子の英国メディア・ウオッチ ukmedia.exblog.jp

英国や欧州のメディア事情、政治・経済・社会の記事を書いています。新刊「英国公文書の世界史 一次資料の宝石箱」(中公新書ラクレ)には面白エピソードが一杯です。本のフェイスブック・ページは:https://www.facebook.com/eikokukobunsho/ 


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トルコ、表現の自由 3 301条とスカーフ


―新聞社前での銃殺 
 
 トルコのアルメニア系ジャーナリスト、フラント・ディンク氏(52歳)は、今年1月19日白昼、イスタンブールにある週刊紙「アルゴス」の事務所がある建物の前で、何者かに銃撃され死亡した。「アルゴス」はアルメニア語とトルコ語の新聞で1996年に創刊。ディンク氏はこの新聞の発行者だった。 

 ディンク氏はトルコが否定する、第1次世界大戦中のオスマン帝国の「アルメニア人虐殺」に関する記事や発言で、刑法国家侮辱罪301条で起訴され、2005年に執行猶予付きの有罪となるなど、数度の訴追を受けていた。

 トルコ警察が翌日逮捕したのは17歳のオギュン・サマスト容疑者だった。地元紙の報道によると、少年は知人の民族主義組織のトップ、ヤシン・ハヤル氏に殺害を依頼されたという。ヒュリエト紙によると、サマスト容疑者自身は、後の警察への供述の中で、ディンク氏が「トルコ人を侮辱したために殺害した」と述べている。

 2月上旬になって、サマスト容疑者が、拘束後、トルコの治安機関職員数人と、トルコ国旗の下に並んでいる映像がテレビ放映された。背後には近代トルコ建国の父ケマル・アタテュルクのポスターが貼られていた。国家体制の中に今回の殺害を間接的に支持する動きがあった可能性を示唆する映像として受け止められ、「ディンク氏殺害事態よりも、この映像の方が重い」とする地元メディアの報道が続いた。 
 
―刑法301条、政府は改正示唆も 
 
 第1次世界大戦中、トルコに住んでいたキリスト教徒のアルメニア人の大量殺害を「虐殺」と定義するかどうかは、国によって意見が分かれる。アルメニア人側は、オスマン帝国による殺害や飢えで約150万人が亡くなったと主張し、「虐殺があった」としている。トルコ側は、大量のアルメニア人が内戦や世界大戦の中で亡くなったことは認めつつも、「虐殺ではない」がその公式見解だ。トルコでは、アルメニア人虐殺があったという認識は刑法301の違反で国家侮辱罪の対象になる。

 刑法301条は、トルコのEU加盟交渉を開始するために行なわれた一連の刑法改革の一環として、2005年6月に施行されたばかりの新法だ。これまでにこの条項にからんで昨年ノーベル文学賞を受賞したオルハン・パムク氏を含めた60人近くが訴追されている。
 
しかし、ほとんどが取り下げなどの結果になるため、一説には、トルコのEU加盟阻止を狙い、表現の不自由さが内外に宣伝できるように、検察や裁判所が著名な作家たちを次々と訴追している、という見方もある。

 EU加盟を望む現政権は、適用基準の見直しや条項改正を示唆する発言を出している。
 
―世俗主義を守れと数百万人がデモ 

 5月中旬、トルコ第3の都市イズミヤで、イスラム系大統領の誕生に反対するデモに150万人が参加した。「トルコは、永遠に世俗主義国家であるべきだ」、「トルコがイスラム国家になって欲しくない」とデモ参加者は訴えていた。ギュル外相の大統領昇格を目指すイスラム派与党のAKP党をけん制したもので、アンカラでは50万、イスタンブールでも100万人の同様のデモが、これに先駆けて起きていた。

 一ヶ月前にも同様の大規模デモがあったが、これは、次期大統領候補として立候補を予定していた、与党党首で首相のエルドアン氏へのけん制だった。軍部が世俗主義の継続が脅かされることに懸念を覚えるという声明を出し、首相は立候補を断念せざるを得なくなった。与党は代わりにギュル外相を立候補させたが、世俗派野党が初の非世俗系大統領の誕生に反対し、議会内で投票をボイコット。大統領選挙は無効となった。エルドアン首相は秋に予定されていた総選挙を7月に前倒し、国内の求心力を高めようと計画しているが、トルコは大きな政治危機の状態にある。

 首相や外相夫人はともに熱心なイスラム教徒でどこに行くのでもムスリムのスカーフをかぶる。現在イスラム教スカーフの着用は公的場所では禁止されているため、スカーフ着用の夫人の存在は世俗派からすると、トルコをイスラム教国家にする兆しとして、大きな脅威とも映る。

 トルコのタブーは、建国の精神である世俗主義や国家の公定史観を批判すること。「国家の威信に挑戦する声を上げたものは倒される」(トルコ文学の翻訳家モーリン・フリーリー氏)。

 トルコは今、表現の自由という観点からは、薄氷を踏むような状況にあるのかもしれない。(つづく・次回のスカーフ問題は、来週の新大統領決定後に出します。)
by polimediauk | 2007-08-26 03:01 | トルコ